欲望学ノート2 ハイデガー、欲望、性

暑さで脳が麻痺していたが、立秋も過ぎて夜になればやや涼しい風が吹き、思考力が戻ってきたので、ブログの執筆に戻ろう。

今年の3月、まだパリにいた頃、オペラ座バスティーユで「ラ・バヤデール」のニキヤを踊るオレリ・デュポンを見たが、昨日(8月11日)、東京文化会館で開かれている「世界バレエフェスティバル」で、再びオレリの舞いと踊りを見た。ジェローム・ロビンズの「アザー・ダンス」。オレリをひたすら賛美する私には、ただ素晴らしいとしか言うことができない。

当日、Bプロがすべて終わると、観客はくどいほどカーテンコールを求め、私もそれを楽しんだ。夜の8時半すぎに会館を出ると、人だかりがしていたので好奇心に駆られて近寄ると、その日に出演したダンサーたちがファンの差し出す色紙などにサインをしていた。そこにはオレリがいた。フランス語ができる一人のファンが「メルシー・マダム」と礼を言うと、オレリは「ドゥ・リアン、ムシユー(どういたしまして)」と返事をして、微笑んだ。

初対面の相手にも挨拶し微笑む、フランス人のこの日常的行為に心が和んだ。もちろんフランス人のすべてが礼儀正しく愛想がよいというわけではないが、東京に溢れる仏頂面と無礼な振舞いに少しうんざりしていたので、オレリの言葉と微笑みが、その夜、私にフランスとフランス人を回顧的に美化させたようだ。

今日(12日)の午後は、山田元就先生に、「熊野(ゆや)」の仕舞の稽古をつけていただいた。暑い日の稽古だから、服装はラフであった。しかし舞台で正式に仕舞を舞うときは、もちろん黒紋付着物と仕舞袴を着用する。仕舞を習う者は、現在は女性の方が多いかもしれないが、仕舞の服装は基本的に男の服装である。だが、言うまでもなく「熊野」のシテの熊野は女である。私は今日、そのつもりで女を舞った。

さて、ドイツ人ハイデガーは、欲望と性を語ることが少ない。

デリダはかつて、《 Geschlecht ゲシレヒト》つまり「性」という題名の論文の冒頭で、ハイデガーは「性」について一度も語ったことがないかもしれないと書いた。ハイデガーは、存在を問う能力をそなえた存在者を指すために、「人間」ではなく、中性的な「現存在(ダーザイン)」という語を選んだ。だから、「現存在」とは事実においては「人間」であるが、ただし「現存在」としては中性的である。中性的であるとは、具体的に男か女かのいずれかに属するというのではなく、その両性のいずれにも属さないということである。ハイデガーは、具体的な人間を存在論的なレベルでは「現存在」と命名し、これに中性的な存在を見るわけである。

他方、私は朝日カルチャーセンターでハイデガーの『存在と時間』を精読したとき、この書では、ヘーゲルが用いる「欲望 Begierde(ベギールデ)」という名詞を、ハイデガーは一度も用いていないということに気づいた。だが、「欲望する begehren(ベゲーレン)」という動詞は、少なくとも、二度用いている。

1、原書198ページ。ハイデガーは、ギリシア神話/ローマ神話『ヒュギヌスの寓話』所収の「クーラ寓話」を引用している。そのなかの「欲望する」を意味する《 volo 》というラテン語の動詞を、ドイツの精神史研究家ブールダハは《 begehren 欲望する》というドイツ語に転換している。これをそのまま、ハイデガーは引用している。

その文脈:昔、クーラ(気がかり、世話)がやってきて、粘土で或る「造形物」をつくった。次にユピテル(父なる神)が来たので、クーラはユピテルに、その造形物に「精神」を与えてくれるよう頼み、その造形物は精神をそなえた。ところが、その造形物の命名をめぐって、クーラとユピテルが争った。そのとき、テルス(大地の女神)が起き上がり、自分の「身体」の一部をその造形物に提供したのだから、その造形物に自分の名前が与えられるべきだと「欲望し」、争いに加わった。そこで、彼ら三者は、サトゥルヌス(農耕の神あるいは時間の神)に裁判官になってくれるよう頼んだ・・・。

ハイデガーの解釈:クーラ(気がかり、世話)が、「人間的現存在」つまり「人間」の根源であり、人間が生きて世にある限り、人間を支配し続ける。父なる神の「精神」と、母なる大地の「身体」の複合物である「人間」において、クーラ(気がかり)が優位を保つ。このクーラを、ブールダハは《 Sorge ゾルゲ》と訳し、これをハイデガーは自分の専門用語「ゾルゲ(気がかり)」とする。

さて、父なる神によって与えられた人間的精神は、「ゾルゲ(気がかり)」よりも低く、母なる大地の女神から提供された「身体」と母の「欲望」はやはり低い。では、「ゾルゲ(気がかり)」に支配されている「人間的現存在」は、男であろうか女であろうか。おそらく、存在論的レベルでは中性的なのであろう。ハイデガーは、まるで性差から逃げるかのように、男にも女にも属さない存在論的レベルを掲げる。

では、精神と身体の複合物である「人間」は、「本質的に」男あるいは女のいずれかに決定されているのだろうか。そして「欲望」は、男性的欲望か女性的欲望のどちらかでしかないのだろうか。その場合、「男」あるいは「女」の定義はどうなっているのだろうか。性差に関するいわゆる「本質主義」と「構築主義」に拘泥するわけではないが、哲学がこの問題を無視するわけにはいかないだろう。

ところで、精神を与えてくれる男性神ユピテルは、周知のように、女性神ディアナに変身する。男は女に変身する。私は、熊野を舞っていたとき、ドゥルーズ/クロソウスキー的な意味で倒錯していたのだろうか。未分化なものが排除されない分化としての倒錯。だが、この未分化なものを、私は、ハイデガーにおける中性的なものとはみなさない。存在論的なもの、超越論的なものという論理的錯覚・・・。
(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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