ラカン再開:「《盗まれた手紙》についてのセミナー」翻訳と注釈1

ドゥルーズをドゥルーズによって、ラカンをラカンによって、ハイデガーをハイデガーによって理解すること、これがこのブログのひとつの目的である。

「理解すること」の意味は、さしあたって、以下のように心理的に理解しておく:「わかったと思うこと」、そして「わかったと思ったら、しばらくして、そのわかりが浅かったと思えるようになり、もっと深くわかりたくなる」。

2010-12-18の「ラカンSLV翻訳と注釈1」を再開する。

《es》に関して、話がハイデガーの方に逸れていったが、ハイデガーに関しては独立したカテゴリを立て、そこで《es》を論じよう。

以下、「《盗まれた手紙》についてのセミナー」原文を段落ごとに、そしてさらに1文ずつ表示する。


                 ∴

翻訳
(エピグラフ)
「そんでそれがおいらに運よくできるなら、
そんでそれがうまく運ぶなら、
それが思考=思想というもんだ。」

Und wenn es uns glückt,
Und wenn es sich schickt,
So sind es Gedanken.


注釈
「《盗まれた手紙》についてのセミナー」本論の冒頭には、出典の明記なしに、以上のようなドイツ語の文章(エピグラフ)が置かれている。これは、ゲーテ『ファウスト』の「魔女の厨〔くりや〕」における「獣たち」の台詞である(行数2458~2460)。「魔女の厨」という訳語は、森林太郎(鴎外)に従う。

鴎外の訳を示す。
「こつちとらに出来るなら、
こつちとらがして好いなら、
そんならそれが考だ。」

ゲーテの『ファウスト』は早くも明治時代に訳されており、数え方にもよるが現在に到るまで20を越える翻訳作品が登場している。
鴎外訳のほかに、従来の主な邦訳、阿部次郎、相良守峯、高橋健二、大山定一、高橋義孝、手塚富雄、山下肇の訳を見ると、ゲーテの原文に含まれる《es》を省略せずにはっきりと訳出したのは、阿部次郎訳のみである。

阿部訳を示す。
「それがわしどもに旨く行けば、
それが篏ってくれさへすれば、
それが思想というものだ!」

《es》をはっきりと日本語にしなかった訳者たちは、おそらく、《es》を、例えば天候を表す文の場合のように「非人称」の代名詞とみなしたのであろう。(ハイデガー『存在と時間』における《es》の邦訳にも、同様なケースがある。)

そこで、もう一度、われわれの訳を検討してみよう。

Und wenn es uns glückt, ⇒そんで それ〔エス〕が おいらに 運よくできる〔グリュックト〕なら、
Und wenn es sich schickt, ⇒そんで それ〔エス〕が うまく運ぶ〔ジッヒ シックト〕なら、
So sind es Gedanken. ⇒それ〔エス〕が 思考=思想〔ゲダンケン〕というもんだ。

以上がラカンの「《盗まれた手紙》についてのセミナー」のエピグラフであるのだから、われわれは、そこに含まれる《es》は当然、フロイトの《 Wo Es war, soll Ich werden 》=「エスがあったところに、私なるものが生成しなければならない」という有名な文章の《 Es 》を示唆しているとみなすべきだろう(フロイト『精神分析入門(続)』懸田克躬・高橋義孝訳、『フロイト著作集1』、人文書院、p452)。

ÉCRITS のなかで、このフロイトの命題に言及している箇所は、数え方にもよるだろうが、9箇所以上ある

上のドイツ語原文の一行目の《 glückt 》を、《 Glück 》の意味である「運」を生かして、「運よくできる〔グリュックト〕」と訳した。

二行目の《 sich schickt 》を、《 Geschick 》の意味である「運」を生かして、「うまく運ぶ〔ジッヒ シックト〕」と訳した。

ところで、いくつかの漢和辞典では、「運」は「めぐる(めぐらす)」、「まわる(まわす)」、「はこぶ」、「めぐりあわせ」などを意味する。では、《 Glück 》や《 Geschick 》を、「幸運」や「不運」などの「運」、つまりいわゆる「やまとことば」での「めぐりあわせ」という意味での「運」として訳すなら、この「運」は、「偶然」を意味するのだろうか、あるいは「必然」を意味するのだろうか。まさにこれが、「《盗まれた手紙》についてのセミナー」における諸テーマのひとつである。

「《盗まれた手紙》についてのセミナー」において、この「運」を含意するフランス語は、《 chance 》と《 hasard 》である。

《 chance 》という語は、4箇所で使われており、日本語としては、つまり日本語化した漢字としては、「機会」と訳すことができる。が、「機会」という日本語も、やはり「めぐりあわせ」という意味をもつ。

《 hasard 》という語は、10箇所以上で用いられており、すべて「偶然」と訳すことができる。ただし、《 hasard 》というシニフィアン(記号的意味作用者)は、それが「たんなる」偶然を意味する限り、この論文の最後の登場場面で、《lois》すなわち「法/法則」によって先立たれることが示唆される。

上のドイツ語原文の三行目の《 Gedanken 》を「思考=思想〔ゲダンケン〕」と訳した。

「思考」がたんなる心理的プロセスの意味での「考え」を指し、「思想」が神、世界、精神、社会などに関する哲学的省察の体系を指すとすれば、《 Gedanken 》を、思考と思想のどちらかの言葉に当てはめてしまうことは不可能である。

「《盗まれた手紙》についてのセミナー」本論の第5段落にあるように、《 la pensée freudienne 》という言い方では、《 pensée 》は「思考」よりも「思想」と訳すべきだろう。

他方、LE SEMINAIRE LIVRE XI ( Éditions du Seuil、1973 ) p44では、《 Gedanken 》というドイツ語は《 pensées 》というフランス語に転換されている。ここでは、《 Gedanken, des pensées 》は「思考」と訳した方がよいだろう。

「・・・無意識は、意識には本質的に拒否されているいるものから構成されている、とフロイトは断言している。それを、フロイトはどのように呼んでいるだろうか。・・・まさに思考〔 Gedanken, des pensées 〕という用語で呼んでいる。」

「無意識の主体が顕現すること、そして〔デカルト的な〕確信の主体が確信に入る前に、『それが思考する( ça pense )』ということ、これをわれわれはフロイトのおかげで知っている。」(『精神分析の四基本概念』小出他訳、岩波書店、37、47、57頁参照)

したがって、われわれは、上記のエピグラフの《 Gedanken 》を「思考=思想〔ゲダンケン〕」と訳した。


このように、『ファウスト』から引用された以上のエピグラフにおける「それ〔エス〕」、「運よくできる〔グリュックト〕」、「うまく運ぶ〔ジッヒ シックト〕」、「思考=思想〔ゲダンケン〕」の潜在的な意味の連関が、「《盗まれた手紙》についてのセミナー」におけるラカン的テーマを示唆し、象徴していると言えるだろう。

そして、ラカンは、この論文の末尾で、再び『ファウスト』の一節に言及している。鴎外の訳を少し変えるとすれば、「ライプチヒなるアウエルバハの地下酒場」の一節である。

ここでは、この一節によって、「偶然」は「法=法則」を前提とすることが示唆される。

ポーの『盗まれた手紙』に密着するラカン/フロイトの思想は、ゲーテの『ファウスト』における「魔女の厨」と「ライプチヒなるアウエルバハの地下酒場」によって輝く。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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