ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈1

フランス滞在中の諸契約は、ようやく一つを残してケリがつき、ほっとしている。

これからは、1日置きぐらいのペースで、ドゥルーズ、ラカン、ハイデガー、欲望学について、少しずつ記事を書いていきたい。

ところで、朝日カルチャーセンターで開始した私の「欲望学」は、様々なジャンルを横断しながら欲望の分析とその分類を遂行する試みである。この欲望学はまた、「超越論的なもの」の超克の試みでもある。したがって、欲望学はドゥルーズにおける「超越論的経験論」をも射程に入れることになる。

今日は、ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈を、その第二章の冒頭から始めよう。
以下に示す訳書の頁数は、文庫本のそれではなく、事項索引付きのハードカバーの訳書の頁数である。私の訳に含まれる若干の抜けや誤訳を訂正することは言うまでもない。

『差異と反復』を訳していた当時、パソコンはフリーズしやすかったので、ノートに原語と訳語をメモしながら訳語の統一を図った。このブログで、さらに厳密な訳語統一を実現したい。


                       ∴

第二章のタイトルを、私は、「それ自身に向かう反復」と訳した。しかし、この私の訳語がすでに問題を含んでいる。

フランス語原文のタイトル:《 La répétition pour elle-même 》

私が翻訳に取りかかった時、すでに『差異と反復』という日本語の表題が定着していたように思う。しかし、「反復」という訳語は、今でも「繰り返し」と訳せば良かったかなと思っている。「差異」も「違い」の方が良かったのでは・・・。いわゆる「やまとことば」に基づいて『違いと繰り返し』と訳した方が、私の感覚では読んでピンと来る。だが、やまとことばを論理的な文章で多用すると、論理的厳密性が損なわれるわけではないが、ベタついた訳文になりがちである。

「に向かう」は《 pour 》の訳である。《 pour elle-même 》(おのれ自身に向かって)という表現は、原書ではp164、訳書では196頁に現れている。これに似た表現は、「反復の対自」、「差異の対自」がある。訳書119頁、129頁、196頁参照。

「対自」の原語は《 pour-soi 》である。もちろんヘーゲルの《 für sich 》の仏訳語であり、コジェーヴから影響を受けたサルトルの用語としても有名である。(コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』とサルトル『存在と無』を読み比べるのは、とても有益なことである。)

ヘーゲルの《 für sich 》は「対自」あるいは「向自」と訳されている。
私は、ヘーゲルの訳語「向自」の「向」を採用して、「向かう」と訳した。果たしてこれが適切な訳かどうか、それは上記の関連箇所を見るときに再検討しよう。

次回のドゥルーズの記事では、直ちに本文に入ろう。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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