ラカンSLV翻訳と注釈19:欲望を抑圧するハイデガー;ラカンによるカント『実践理性批判』

あらためて言うほどのことではないが、東京の地下鉄では、車内の壁や上方のスペースに広告が貼られていたり吊り下げられたりしている。他方、パリのメトロでは、駅のホームに巨大な広告が並んでいる。先日、メトロの駅シャルル・ミシェルのホームの壁に、パリ交通公団(RATP)の巨大な広告が貼りだされていた。深い青の背景に一軒の小さな家が描かれている。空から星たちが、細い滝のように筋をつくってその家の窓のなかに降りてくる。その横には、文章が添えられている。メモしておかなかったので正確ではないが、訳すなら「家の灯りを消すと星たちが窓のなかに入ってきた・・・」。SOSEKI NATSUMEの詩文と明記されてあった。夏目漱石であろう。

パリの日常のなかで、様々な日本文化が当たり前のように現れている。漫画は言うまでもなく、様々な絵本も仏訳され、フランスの子どもたちに読まれている。それはもう、例外的な現象ではない。だが、ヨーロッパ哲学の分野では、「日本」は溢れていない。やはり、独仏の哲学が主流である。たとえば、最近のドゥルーズ研究を見るとカントへの言及が目につく。

『実践理性批判』から、あのあまりにも有名なフレーズを引用しよう。「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則」。この二つの景観はつねに新たな感嘆と畏敬の念で私たちの心を満たす、とカントは言う。

「我が上なる星空」は、私たちを無限な時空につないでいる。この物質的無限性を思えば、私たちは自分の動物的本性の価値を無視することができる。私たちは、つかの間、物質的生を受けた後、この生を地球に、そして宇宙に返さなければならない。

「我が内なる道徳法則」は、私たちの人格を、真の無限性をそなえた超感性的世界につなぐ。その無限性は、理性的存在としての私たちの価値を無限に高揚し、動物的本性あるいは感性的本性に関わりのない生を、私たちに開示してくれる。

だが、当時、物理的世界の考察は占星術に成り下がり、道徳学は狂信あるいは迷信に終わったとカントは言う。そこで、道徳的、イデオロギー的狂信はさておき、道徳と占いとの関係に少しばかり触れておこう。

占星術とは、天体の運動に個人の運命を読み取る占いである。それは、物理的必然性が個人の必然的運命を開示すると考える理論的迷信と言ってよい。

他方、偶然的に選別された言葉やイメージに基づいて個人の将来や潜在的運命を読む周易やタロット(タロー)がある。占者の対人関係の能力如何で、運命の読み方がいかにも真実の告知であるかのように思わせることができる術である。(私自身の好みを言わせてもらえば、周易の言葉やマルセイユ・タローのイメージは、実に興味深い。)

いま問題にするのは、占いは迷信かどうかということではない。占星術にせよ、周易あるいはタロットにせよ、占いとは、概して、占って欲しいと思っている個人の将来の幸・不幸を告げようとする行為である。幸福を求め、不幸を避けるために、人々は占いを求める。

カントが占いを蔑視するのは、もちろん占いが迷信の一種であるからだ。しかし、そればかりでなく、占いが一般に幸福を求める手段と信じられているからでもある。カントの道徳は、幸福を求める道徳ではなく、義務の道徳である。道徳的に生きるために「しなければならない」のなら、たとえ不幸に陥っても「しなければならない」。反対に占いは、「不幸になっても、正しく生きよ」とは教えず、「幸福がつかめる、あるいは不幸に陥る」と言う。

日本の哲学界ではかつて、カントの「当為」という訳語が幅をきかせていた。当為とは、「~しなければならない」という意味である。理性が意志を純粋に決定するとき、私たちは、「~しなければならない」という内なる理性の声を聞く。私たちは「~しなければならない」がゆえに「~できる」のである(『実践理性批判』岩波文庫p72、p82参照)。これを、カントは「自由」という。すなわち、「自律」としての「自由」である。では、「主体の自律=自由」にもとづく道徳とは何か。

さて、ここから、前回の記事で約束した解説に移ろう。まず、カントの道徳説における二つの大きな概念を知っておかなければならない。それは、「格率」と「実践的法則(道徳法則、道徳法)」である。

『実践理性批判』からカントによる定義をそのまま引用しよう(ただし、邦訳の文章を少し変える)。「実践的原則とは、意志の普遍的な規定内容を含む準則であり、この規定内容に、いくつかの実践的規則が従属している」(岩波文庫p47)。そのような「実践的原則」は二種類ある。

一方は、自分(主観=主体)の意志にのみ当てはまる「格率」。「格率」とは、現在のふつうの言葉で言うなら、主観的・個人的ポリシーのようなものである。そして、「格率(ポリシー)」は、感性的な成果を当てにしている。

他方は、理性的存在者なら誰にでも当てはまる客観的な「実践的法則(道徳法則、道徳法)」。「実践的法則(道徳法則、道徳法)」は、「定言命法」の形式をとる。「定言命法」とは、純粋な理性が意志を規定する無条件的な命令(「~しなければならない」)である。

定言命法とは、意志を規定するとどのような成果(幸・不幸、快・不快)が得られるかなどという配慮は一切しないで、意志を意志である限りにおいて規定する命令である。要するに、意志の自己決定である。カントは、結局のところ、実践理性つまり道徳的理性と意志とを同一視している。実践理性が意志を規定するということは、実践理性が自分を規定することであり、意志が自分を規定することである。

カントの道徳学は、そのような普遍的な「実践的法則(道徳法則、道徳法)」が、主観的・個人的な「格率」に影響を与え、「格率」を道徳的に高めるということを目的としている。つまり、個人的な「格率」を、普遍的な「実践的法則(道徳法則、道徳法)」にまで格上げすることだ。個人的な格率つまりポリシーに、普遍的な道徳性を与えることだと言ってもよい。

たんに個人的な「格率(ポリシー)」は、ふつうパトローギッシュな影響のもとにある。カントの「パトローギッシュ」とは「パトス的、感性的」を意味する。(邦訳「カントとサド」での「病理学的」という訳語は不可である。「パトローギッシュ」に「病理」を感じてはならない。)

それに対して、普遍的な「実践的法則(道徳法則、道徳法)」は、「ア・プリオリ」な、あるいは「先験的(超越論的)」なレベルにある。「ア・プリオリ」とは「感性的経験に由来しない」という意味である。「先験的(超越論的)」は、『実践理性批判』では「ア・プリオリ」の意味で用いられる場合が多い。だが、一般にカントにおいては、「先験的(超越論的)」という言葉は、「ア・プリオリなものについての分析」のレベルを指す場合と、「経験に由来ぜず、それにもかかわらず経験を成立させる」という意味をもつ場合がある。要するに、「実践的法則(道徳法則、道徳法)」は、純粋実践理性がもたらすア・プリオリな法則(遵守されるべきア・プリオリな法)である。

したがって、人間は、個人的な「格率(ポリシー)」でもって生きている限りでは、「パトローギッシュ(感性的)」な影響のもとにあるレベルで生きており、客観的な「実践的法則(道徳法則、道徳法)」によって意志決定される場合には、「ア・プリオリ」な、あるいは「先験的(超越論的)」なレベルで生きている。その一方のレベルから他方のレベルへの上昇を命令するものこそ、かの有名な「純粋実践理性の根本法則」である。

「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」(同書p72)

この根本法則を、以前のブログ記事(昨年8月の『啓蒙の弁証法』の記事)では簡単に扱ったが、これに厳密な解釈を施そうとすると、とたんに難解な文章になる。とりわけ、「立法の原理」という表現が曖昧である。

立法とは、「先験的(超越論的)」な純粋実践理性が、自分自身に、つまり純粋意志に「実践的法則(道徳法則、道徳法)」を与える、ということを意味する。

ただし、カント的立法においては、起こって欲しい結果を期待してはならない。立法は、意志の範囲内だけで意志決定をすることであり、理性=意志がア・プリオリな実践的法則によって自己決定することである。つまり、自律である。

この根本法則(汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ)を、「定理三」(同書p64)に基づいて解釈するなら、こうなるだろう。すなわち、個人的「格率(ポリシー)」は、普遍的な「実践的法則(道徳法則、道徳法)」になりうる、ただし、「格率(ポリシー)」の実質的内容(何のために意志決定をするのかということ、つまり意志の目的)に関してではなく、実質的内容を除いた立法という形式に関してのみ、普遍的な「実践的法則(道徳法則、道徳法)」になりうる。

したがって、「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という根本法則を、「実質的内容(意志の目的)をもった格率ではなく、普遍的な立法という形式のみに合致した格率に従って行為せよ」と言い換えることができるだろう。

では、個人的「格率(ポリシー)」が、普遍的な立法という形式だけをもっていれば、何でもかんでも「実践的法則(道徳法則、道徳法)」になりうるのだろうか。

「格率」に関する実例として、カントは「私はあらゆる確実な手段を尽くして自分の財産を増やす」ことを挙げている。カントは、この「格率」が「実践的法則(道徳法則、道徳法)」たりうるかを、「他人から預かった委託物」でもって吟味する(同書p65~)。その結果、この格率は、結局は理論的に自己崩壊するという理由で実践的法則にはなりえないとされる。そして、この実例を、ラカンが再び取り上げることになる(『エクリ Ⅲ』p260、p264)。

個人的な格率を普遍的な実践的法則(遵守されるべき道徳法)の原理にまで格上げできるにしても、自律=自由にもとづく理性=意志のたんなる自己決定だけでは、とんでもない格率が実践的法則(道徳法)になる可能性がある、とわれわれは考えたくなる。当の普遍的な実践的法則の具体的内容が何であるのかがわからなければ、格率を正しい実践的法則に格上げしようとしても、そのしようがないと。

しかし、カントは、純粋実践理性はア・プリオリな悪しき実践的法則を持ち合わせていない、意志が純粋理性である限り悪しき自己決定はしない、と考えているようである。

では、普遍的な実践的法則(遵守されるべき道徳法)の具体的な道徳性つまり正しさは、何にもとづいているのだろうか。カントは、そんなことは自分の理性で考えれば容易にわかることだとして、ズバッと言ってくれないのだが、どうやら、その道徳性は「誠実」、「正直」、「嘘をつかないこと」にあるようだ。

カントはその実例として、相反する二つの例を出しており、それをそのままラカンが引用している(岩波p71~72、エクリⅢp278~279)。例えば、まず、人間は性欲を満たす機会があればこの性欲に反抗できないとする。ところが、性欲を満たせる家の前に絞首台が立てられていて、或る人間が性欲を満たしたとたん、この絞首台にくくりつけられるとしたらどうか。彼が何と答えるかを推測するに長考する必要はない。(殺されてまで性欲を満たす人間はまずいないだろう・・・。)

つぎに、主君が誰かを陥れようとして、自分の家来に偽証するよう要求し、偽証しなければ死刑に処すと威嚇する例が出される。家来は偽証を拒んで、あえて死刑を選ぶだろうか。その家来は明確な答えを出せないだろうが、しかし偽証を拒む可能性は認めるはずだ。彼の純粋実践理性が自分の意志に普遍的な実践的法則(遵守されるべき道徳法)を課すがゆえに、彼は偽証を拒ま「なければならない」という意識をもちうる。

彼は偽証を拒ま「なければならない」という意識をもつがゆえに、偽証を拒むことが「できる」と判断し、「~しなければならない」のだから「~できる」という内的自由=自律を認識する。この道徳法によって、彼は死という不幸を招くとしてもである。

彼は、「嘘をつく」という恥ずべき行為をしてまで生きるよりも、死に至るまで「正直」に生き通し、自分に対して「それでよい」と言うことができるのだ。

カントの道徳は、意志決定による行為の結果をまったく問題にせず、ひたすら誠実に生きること、他者を陥れないことを要求する。そしてカントは、今度は、あのフォントネルと誠実な人間との例で、誠実さを論じ、ラカンがそれを、ひねくれた文体で再現する(岩波p161、エクリⅢp279)。前回の記事で改訳した部分は以上の箇所である。

フォントネルは「貴人の前で、私は身を屈するが、私の精神は屈しはせぬ」と言うが、カントであれば次のように言う。「ここにひとりの社会的身分の低い人物がいる。私は自分を省みて自分が恥ずかしくなるほどの誠実さを彼に認める。私は自分の身分の優越を彼に見せつけることはできても、私の精神は彼の前に屈する。」この実例は、実践的法則(遵守されるべき道徳法)を提示している。すなわち、「誠実」という「法」である。

ところがラカンは、フロイトに従って「法」と「抑圧された欲望」は同じであると述べる。だが、カントとサドに関するラカンの議論は、朝日カルチャーセンターの講座が始まってから再開することにしよう。

最後に指摘しておきたいことがある。カントは、感性的経験に由来しない先験的(超越論的)なレベルにある純粋実践理性と純粋意志を同一視している。そしてカントは、純粋意志を、(岩波文庫の訳語で)「上級欲求能力」と言う。つまり、意志は欲求である。ところで、「欲求( ベゲールング Begehrung )」も「欲望 ( ベギールデ Begierde )」も「欲する ( ベゲーレン begehren )」という動詞にもとづいている。

たしかにカントは、道徳法則が「全感性界に関わりのない生」を開示すると言う(同p318)のだが、しかし「生 ( レーベン Leben )」、を「欲求能力の法則に従って行動する能力」とも定義する(岩波p27)。

そのようなカントに区別に、私は、断絶ではなく、連結をなす差異を認める。先験的(超越論的)なものを、どれほどパトローギッシュなものから切り離そうとしても、理性を際立たせるためには欲望と生を背景にしなければならない。そこには、理性と欲望と生との或る種の共犯関係がある。

だが、ハイデガーはといえば、彼は「欲望 ( ベギールデ Begierde )」を黙殺するのみである。あたかも、そんな言葉は存在しないかのように。

ところで、私は、「理性」、「欲望」、「生」などという言葉を用いたが、こんな手垢にまみれた言葉で、言葉の外を指し示すことができるのだろうか・・・。

ともかく次回から、ようやくハイデガーに戻ることができる。『存在と時間』「第五十七節」の松尾訳の検討から再開しよう。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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