ラカンSLV翻訳と注釈17:欲望を抑圧するハイデガー。カント、サド、ラカンをめぐって

パリ第7大学で開催された「国際精神分析学/哲学協会(暫定訳)《 la Société Internationale de Psychanalyse et Philosophie 》 」のシンポジウムに出席し、主催者のダヴィド=メナールにお会いすることができた。彼女の著書『ドゥルーズと精神分析学』の翻訳に関しては、今後、メールで質問させて頂けることになった。

その初日(12月5日)の開会の報告が、原和之さんによって行われた:「主体性のあらゆる可能な変化の一前提条件について(暫定訳)《 D’un préalable à toute transformation possible de la subjectivité 》 」。

「他者の意欲 le vouloir de l’autre 」から「他者の欲望 le désir de l’autre 」へと論が進んでいくたいへん興味深い報告であった。その日の昼食会では、原さんから御著書『愛と知(暫定訳) 《 AMOUR ET SAVOIR études lacaniennes (COLLECTION UTCP)》』を頂き、恐縮の至りであった。

近年、ラカンと哲学の関係をテーマとする(フランス語で書かれた)優れた著書や論文が現れている。原さんの著書の第7章でも「愛」をめぐって哲学と精神分析学の関係が論じられており、また、ダヴィド=メナール自身がすでに精神分析学と哲学の関係に深く踏み込んでいる。だが、ダヴィド=メナールは、原則的には精神分析学と治療から哲学を見ている。

このシンポジウムに出席してから、私自身のスタンスがどこにあるのかを改めて考えていた。私は、すでに、哲学の圏域から精神分析学を見ているのでは「ない」。では、私はどこへ行くのだろうか。

以前の記事で、「西洋哲学と精神分析学が交わるグレーゾーンで精神を追究している」と書いたが、実は「哲学」あるいは「西洋哲学」の外に出ることを私は恐れていたのかもしれない。いや、むしろ、それを自覚することを恐れていたのかもしれない。

私は、「哲学」の外に出て「精神分析学」へ入り込むのではもちろん「ない」。哲学と精神分析学を共に見ることのできる或る高次の観点、それが私に必要なのだろう。その観点から、さらに、人間と呼ばれるものを見ること。

12月になってブログの執筆が少し途絶えた後、こんな愚痴めいた文章を読まされて、読者の皆さんは憤慨されているだろうが、直ちに、「カントとサド(サドによるカント)」でラカンがカントに言及している部分を改訳し、ハイデガーに戻り、そしてラカンのSLV全文の訳と注釈を試みよう。(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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