ラカンSLV翻訳と注釈16:欲望を抑圧するハイデガー。カント、サド、ラカンをめぐって。

今回と次回で、「カントとサド(サドによるカント)」のいくつかの部分(意図的に異常に複雑化したと思われる文章で書かれた部分、しかし重要な部分)の暫定的な訳を終えて、その後ただちにハイデガーに戻ろう。

『エクリⅢ』263頁14行目から訳し直す(原書p770)。(12月5日修正)
「もしかしてわれわれの格率を定着させるかもしれない低劣なレベルに基づくあらゆる判断は、次のような問題については無関心である。すなわち、道徳において普遍的規則として容認しうるような規則の性格を、われわれの格率に認めるか、あるいは拒絶するか、という問題である。この場合の道徳とは、カント以来、理性の無条件的実践として認められた道徳である。
 もちろんそれ〔われわれの格率〕にはそうした性格を認めなければならないのであって、しかも、その〔格率の〕唯一の告知(その宣教)が以下の二つのことを同時に確立する効力をもっているという単純な理由で、そうしなければならないのである――その一つは、次のような拒否である。すなわち、パトロジックなものに対するあの〔カントによる〕根本的な拒否、つまり、善いもの〔幸福〕や情念に払われたあらゆる考慮に対する、さらには同情に払われたあらゆる考慮に対するあの根本的な拒否、要するにカントが道徳法則の場を開放するためにおこなった拒否である。――もう一つは、次のような形式である。すなわち、その〔意志の〕格率そのものに適合しないあらゆる理性に対してその実践を却下することしか、意志がそこ〔そのような拒否〕において自分に義務付けないかぎりにおいて、道徳法則の唯一の実体であるところの形式である、つまり道徳法則の形式である。
 なるほど、あの二つの命法〔仮言的命法と定言的命法、『実践理性批判』岩波文庫49頁以下参照〕のあいだでは、道徳的経験が、生の破壊に至るまで張り詰めていることが可能であって、サドの逆説においては、そうした二つの命法が、われわれ自身に課せられているようにではなく、《大文字の他者》に課せられているように、われわれに課せられている。
 しかしながら、そこに隔たりがあるのは、最初の印象でのことでしかない。なぜなら、道徳的命法が、それにもかかわらず潜在的なやり方をしているからである。というのも、それの命令は、《大文字の他者》に対してこそ、われわれを要求しているからである。
 受託者の義務〔委託を証明できる人間がいなくなっても、受託者は委託されたことを否認してはならない〕に関する明白な普遍的なもの〔普遍的なものとは、『エクリⅢ』260頁9行目からすれば、「受託人なしに委託物はないという明白な場合」、『実践理性批判』65~67頁からすれば、「普遍的立法」、もしくは「普遍的な欲望」、もしくは「普遍的な格率」となるだろう〕の、先ほど述べたパロディーによって、われわれに教えられるはずの事態がまったくありのままに明らかになるということが、ここでわかる。すなわち、道徳《法則》が二極性に関して樹立される場合のその二極性は、シニフィアンのあらゆる介入に関して引き起こされる主体のあの分割〔refente ルファント〕にほかならない、という事態である。とりわけ、言表〔言表されたもの〕の主体に対する言表作用の主体の分割。」(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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