哲学と「よい社会」11:『啓蒙の弁証法』、ドゥルーズ、ダヴィド=メナール、そして言論の自由

H/Aは、もちろん、ニーチェにおける「真理への意志」としての「権力への意志」(ヴィレ・ツア・マハト Wille zur Macht)を考えている。ニーチェの「権力への意志」の含意は複雑であり、例えばドゥルーズの「創造的な力が意志する」という解釈の可能性もある。もちろん、H/Aの「ジュリエット論」では、弱者と強者との関係における「権力への意志」に焦点が合わせられている。

「ニーチェは神を超人によって置き換えようと欲する。・・・高次の自己〔超人〕とは、死せる神を救おうとする絶望的な試みに他ならない。つまりそれは、イギリス懐疑論において精神を捨てたヨーロッパ文明を救うために、神の律法を自律へと変形しようとしたカントの試みを、もう一度更新しようとするものである。・・・カントの原理〔定言命法〕は、また超人の秘密でもある。超人の意志は定言命法に劣らず専制的である。・・・神の否認は、それ自身のうちに止揚しがたい矛盾を孕んでいる。神を否定することは、知識そのものを否定することになる。」(「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」p232~233)

フランクフルト学派とニーチェとの関係は、インターネットで公開されている論文、森田数実「ホルクハイマーの批判的人間学(4)」で詳しく論じられている。ホルクハイマーとアドルノとの関係についても触れられている。
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/2818/1/03878937_56_14.pdf#search='啓蒙の弁証法'

しかし、私自身は、例えばホルクハイマーとアドルノはニーチェをどのように読んだのか、あるいはホルクハイマーとアドルノの思想的交渉はどのようなものであったのかといった思想史的問題を提起するために、『啓蒙の弁証法』に言及したのではない。

前回のブログの記事で、私は、H/Aの主張には彼らが考えていた以上のことが含まれているだろうと言った。彼らが考えていた以上のこととは、理性自体が支配欲であるということ、理性とは真理への意志であり、権力への意志であるということだが、しかしそれは、H/A自身がニーチェにもとづいてすでに強調したことである。では、「真理への意志」が「権力への意志」であるとして、「真理」とはいったい何か。

H/Aとニーチェから離れて、以下の二つの哲学的な真理定義が有名である。「観念的内容と実在との一致」(古典的な真理定義)、「隠れていないこと、暴露されていること」(プラトン的、ハイデガー的真理定義)。だがここでは、「正しい知識」という常識的な定義から始めよう。わたしたちは、どのようにして「正しい知識」つまり「真理」をもつことができるのだろうか。

すでに述べたように、デカルトは、懐疑から始めて、その懐疑を克服し、真理へと進んで行こうとした。そのデカルト的懐疑は、あの「悪霊」において絶頂に達する。悪霊は、私が思考するたびに必ず誤るように仕向けているのではないだろうか。デカルトは、この懐疑を二つの段階を踏んで克服しようとする。まず、疑わしいものごとには内なる「自由意志」によって同意しない。つぎに、すべては疑わしいと考えているとき、そのように考えているということは確実であり、そのように考えている「私」が存在するということは確実である。したがって「私は思考する、ゆえに私は存在する」という知識は、順序正しく哲学する者が出会う最初の「正しい知識」つまり「真理」である。

だが、わたしたちをつねに誤らせるように仕向ける「悪霊」を、デカルトは原理的には克服できてはいない。デカルトは、「同意しない自由」によって「悪霊」に対して距離をとっているだけある。したがって、わたしたちが自由意志によって疑わしいものごとに同意しないとしても、悪霊は死んだわけではない。疑わしいものごとに自由に同意しないとしても、実はそのような自由はたんなる気分であるかもしれない。「すべては疑わしいと考えているとき、そのように考えていることは確実である」という判断には、トートロジーの疑いがあり、また内観に依拠した疑わしい報告である可能性がある。デカルトは、キリスト教の神によって、アニミズム的自然観を廃棄し、科学的な自然観を樹立したのだが、すでにデカルトは悪霊によって欺かれていたのではないだろうか。

「すべては偽である」のなら、この「すべては偽である」という命題も「すべて」に含まれるのだから、「すべては偽である」は偽となり、「すべては偽ではない」となる、といったことがよく言われる。しかし、デカルト自身ではなく、デカルトの悪霊は、このような議論を嘲笑するだろう。真と偽の区別は、人間がそうしたいからしているだけのことであって、真でも偽でもない何か不気味なもの、不気味な自然が笑っているのかもしれない。

自由意志、真理への意志、権力への意志、要するに理性は、疑わしく、それが疑わしいことさえ疑わしく、それが疑わしいことが疑わしいことさえも疑わしい・・・。内部的に向かってすべてを崩壊させてゆくこのスパイラルは、不毛な形式的、抽象的否定による懐疑論であろうか。これは、たんなるニヒリズムの一種であろうか。従来、近代哲学の出発点におかれることの多いデカルト哲学は、懐疑論やニヒリズムの淵源である悪霊を追放できなかったのではないか。

哲学の創始者プラトンにおいてすでに、最高のイデアたる「善」そのものの究極的な定義がない。そこに、カントの『純粋理性批判』ではなく『実践理性批判』におけるコペルニクス的転回の意味がある。プラトン哲学に由来する古典的な法の考え方からすれば、法はより高次の原理たる善にもとづかなければならないが、しかし、『実践理性批判』においては、逆に善あるいは真理が法に依存する。法は上位の原理たる善には依存できず、それ自身をそれ自身で有効なものとしなければならない。

ニーチェは、法の自立の背後に虚偽への恐怖があることを指摘した。そしてドゥルーズは、このカント的な法の考え方に、さらに、サドとマゾッホにおける「法の転倒」、法の超克を対置する。サドにおいては、法は、「悪意としての至高の存在」、「或る悪の理念」によって超克される。(『マゾッホとサド』、「法、ユーモア、そしてイロニー」の章)

カントの『純粋理性批判』では理論理性が悟性的認識を体系化する。その理性が、『啓蒙の弁証法』では、奴隷所有者、自由な企業家、官僚などの理性、つまり啓蒙の主体の理性とされ、理性による啓蒙は自己崩壊してファシズムを成立させてしまうということであった。そして道徳的実践理性は虚妄として斥けられる。

「サドの作品は、ニーチェのそれと同じく、実践理性に対する仮借のない批判を形づくっており、・・・仮借ない批判は科学的原理を破壊的な原理に高める。」(「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」p200)

「ジュリエットが体現しているのは、・・・昇華されないリビドーでも、退行したリビドーでもなくて、退行への知的喜び、・・・「悪魔への知的喜び」、つまり文明の武器を逆手にとってその文明自身を撃つという快楽である。」(同p201)

「こうして文明はついにその行きつく所、恐るべき自然へ逆戻りする。サドの描写の中で脚光を浴びている死へ至る愛、苦しむ者に何としてでも恥辱を与えまいとするニーチェの内気で厚顔な大度量・・・は、人間に対して、のちにドイツ・ファシズムが現実の世界でとったと同様の厳しい態度を、遊びと空想の世界で示している。しかし現実という意識なき巨像、つまり主体を欠いた資本主義は、やみくもに絶滅を遂行する。」(同p230)

しかし、サドは、「神を否定することは、知識そのものを否定することになる」というニーチェ的転回点にまで、啓蒙の思想を突き詰めはしなかった。サドにとっては、啓蒙は社会的現象である。ニーチェの超人思想は、イギリス懐疑論において精神を捨てたヨーロッパ文明を救うためのカントの試みを更新しようとするものであった。しかし、サドは、このニーチェの試みにおいて観念論的に超克されるはずの様々なしがらみを断ち切って、社会的連帯を批判し、「アナーキー」を告知するところまで進んだ(同p234)。

「こうしてサドが法律に対する闘争のうちで唱導したアナーキーや個人主義は、結局、普遍者の、つまり共和制の、絶対的支配につながってゆく。権威を失墜した神がいっそうきびしい偶像となって戻ってくるように、古い市民的夜警国家は、ファシスト集団の暴力のうちによみがえる。サン=ジュストやロベスピエールが第一歩でつまずいてしまった国家社会主義というものを、サドはとことんまで考え抜いた。」(同p236)

(ちなみに、「夜警国家」とは、19世紀のドイツの社会主義者ラッサールが、(国家的機能を可能な限り少なくする)小さな政府による資本主義・自由主義国家を呼ぶときの蔑称。「国家社会主義」とは、やはりラッサールたちが唱えた思想。労働者の利益を擁護するために国家権力によって社会主義的政策を実現しようとする。国家という存在に理性的正当性を認めるので、マルクスからすれば、過渡的で中途半端な社会主義。)

啓蒙的理性を権力への意志としての真理への意志とみなし、啓蒙は自己崩壊してファシズムをもたらすというH/Aの主張には、彼らが考えていた以上のことが含まれているだろうと私は言った。批判理論がよりどころとする批判理性さえ、あるいは弁証法という論理さえ、いくら手直しをしても自己崩壊するのではないかということだ。しかし、これはすでに幾度も彼らに投げかけられた批判であろう。

ドゥルーズは、「ヨーロッパ文明に精神を捨てさせたイギリス懐疑論」の積極的な評価から、すなわち、ヒューム哲学の肯定から自らの思想を開始している(『経験論と主体性』)。そして『ニーチェと哲学』や『差異と反復』では、ニーチェの「権力への意志」(「力の意志」、江川訳では「能力の意志」)を、「力あるいは権力を欲すること」ではなく、「意志のなかでアナーキーな創造的力が欲望すること」と捉える。「超人」は、「神的なものの述語」によっても、「弁証法的転倒」のなかでも捉えられないものであり、「諸価値の価値が生じるエレメントのなかでの転倒」つまり「根本的な価値転換」のなかで捉えられるものである

『マゾッホとサド』では、ドゥルーズは、フランス革命において若くして散ったサン=ジュストの思想と、サドの思想との親近性を、法と契約の超克の観点から指摘している(晶文社、p98~101)。サドとサン=ジュストは、法と契約にもとづくことの少ない「真の共和国」を夢み、「法と契約とに二重に対立する革命的、共和主義的思想」を展開する。そこに、サドの『閨房哲学』のなかの名高きテクスト「フランス人たちよ、共和主義者たらんと欲するなら、あと一歩の努力だ」の意味がある。圧制者が生まれるのは法によってであり、アナーキーのなかではない。では、共和制とアナーキズムの奇想天外な結合のなかには、ファシズムは到来しないだろうか。

『啓蒙の弁証法』の観点からすれば、サドが徹底的に考えたのは、サン=ジュストがつまずいた国家社会主義の運命である。国家社会主義がファシズムに転換していった歴史は、わたしたちの歴史でもある。壮年期にナチス・ドイツから脱出しなければならなかったユダヤ人と、終戦の年にフランス国内で二十歳になったなったフランス人では、当然、その思想形成に大きな差異が生じるだろう。ニーチェとサドの作品に、啓蒙が自己崩壊してファシズムを準備する光景を見るのか、あるいは社会契約説よりも深いレベルにおける創造のエレメントを見るのかは、それ自体における正当性の問題ではなく、わたしたちの可能性の問題であろう。

啓蒙的理性を権力への意志としての真理への意志とみなし、啓蒙は自己崩壊してファシズムをもたらすというH/Aの主張には、彼らが考えていた以上のことが含まれているだろうと私は言ったが、私のみるところ、それは懐疑論とアナーキズムに対する抑圧である。それは、彼らの前意識では把握されていたことでもあろう。そして彼らは、幾度も懐疑論とアナーキズムを抑えつけなければならないだろう。

福島原発事故をきっかけに始めた『哲学と「よい社会」』の連載記事は、ここでいったん終えることにして、次回からは『ラカンSLV翻訳と注釈』の記事の執筆に復帰しよう。

先験的=超越論的、自然などについては、今後、折をみて書いていきたい。

精神分析家=哲学者であるダヴィド=メナールの『普遍の構築 カント、サド、そしてラカン』という優れた書物がすでに邦訳されている(せりか書房、川崎惣一訳)。そこでは、H/Aやドゥルーズとはまた異なるサド論が展開されている。そのモニク・ダヴィド=メナールの『ドゥルーズと精神分析学』を翻訳する仕事が私を待っている。この二冊の書物についても、少しずつ論じていきたい。

最後に、「よい社会」について少しだけ私の考えを述べたい。デカルトとカントをつなぐものは、「万人に等しく」という考え方である。カントによれば自由と服従は両立するはずのものだ。例えば、消費税を取り上げるなら、わたしたちは、消費税を納めるという服従の行為をとるためには、徹底的に自由に消費税について議論しなければならない。自由が服従を可能にするからである。なぜ自由が服従を可能にするのだろうか。なぜなら、同じ理性が「万人に等しく」配分されており、各人の理性が自由に使われれば使われるほど、各人の理性は合致するはずだからである。もちろん実生活では、ささやかな私の経験からしても、自由な議論が一点に収束したためしがない。利害がからむと、自由な議論は血で血を洗うような争いになりやすい。

従来、言論の自由は、事実上、大きな組織にしか可能ではなかった。ところが、インターネットのおかげで、人類史上初めて、個人のための言論の自由の場ができた。もちろん、中傷、デマ、いやがらせ、詐欺など、人間のすべての低劣な面がインターネットに現れている。また、匿名の発信であっても発信者のプライバシーが暴かれる可能性がある。しかしそれでもなお、「私的な個人」が自由に意見を発信する流れは止まらないだろう。平凡な考えではあるが、公共の問題に関して、意見や情報のアナーキーな発信は、必ずわたしたちの社会の劣化を食い止めるはずである。

フーコー以来、「個人」は権力によって作られた存在であるという認識が広まった。個人を装った組織的な意見発信も多い。しかしそれでもなお、「私的な個人」が自由に意見を発信する流れは止まらないだろう。「私的な個人の自由」、それは哲学の問題であると同時に精神分析学の問題である。そして、社会的実践の問題である。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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