哲学と「よい社会」10:『啓蒙の弁証法』、自然を数学化する人間

古代ギリシアのアリストテレスなどにもとづいて古代ローマのプトレマイオスが天動説を唱え、教会は天動説を公式の学説とした。その天動説に逆らって、ガリレオは地動説を唱えたが、異端審問で有罪となる。デカルトはこれを知って、自分の物理学研究も弾圧されるのではないかと恐れた。デカルト哲学は、その意味でガリレオの影響を受けている。

非哲学的なやり方ではあるが、デカルトの主著『省察』の粗筋を取り出しておこう。四つのポイントがある。①「懐疑」における従来の諸学問の排除、②「私は思考する、ゆえに、私は存在する」の定立、③神の存在証明、④物体の存在証明。

これを多少敷衍してみる:「懐疑」のなかで、感覚によって知られたもの、夢と覚醒の区別、数学などを疑わしいものとして排除する;すべてを疑っているとき、その「すべて」は疑わしいが、「疑っている」ということだけは疑えない、「疑い」は「思考」である、したがって「私が思考する」とき「私が思考する」のは絶対に確実であり、さらに「私は思考する、ゆえに、私は存在する」という判断は絶対に確実である;私のなかにある確実な観念から、神の存在証明に移り、「絶対に完全なものとしての神」の存在は証明されたとする;神は、物体あるいは物理的世界を、延長として、すなわち空間的広がりとして、具体的にはxyzの三つの座標軸で表現できる空間としてのみ創造した、したがって、自然は解析幾何学で処理できるかぎりでの物理的世界である。

このような筋立のデカルト哲学を、教会側は胡散臭いと思いながらも正面きって弾圧できない。何しろデカルト哲学は、キリスト教の過去の聖人と同様、神の存在証明をしようとするのだから。デカルトはまんまと、懐疑によってアリストテレスの自然学を排除し、神に数学的自然を創造させることができた。

キリスト教の信仰のない者には以下の話はつまらぬ屁理屈に聞こえるかもしれないが、付き合っていただきたい。神は絶対に完全な存在である。すなわち、神は純粋な精神(知)であると同時に純粋な力であり、絶対に善なるものである。この神の精神には、すべての知のなかでもっとも完全な数学が含まれる。神は、数学にもとづいて物理的自然を創造し、物理的自然の一部である人間の身体のなかに神の似姿としての心を置いた。自然は、人間の心とは独立に数学にもとづいて制作された。人間は、自然とは独立に自分の心のなかから数学を取り出すことができる。人間の心のなかから取り出された数学と、自然現象の数学的法則は自ずから合致するわけである。

デカルトは、近代物理学の成立の障害となるアニミズム的イデオロギーを排除するために、非科学的な神学を利用した。デカルトは、巧妙な理論操作によって一種の文化的な革命の一翼をになった。この文化革命の結果はなぜ定着したのだろうか。諸勢力による外的なイデオロギー操作の継続や制度化された西洋哲学の展開のおかげではない。数学が自然現象ばかりでなく社会や経済の動向にも(あるいは心にも?)応用されることが理解され、諸権力がそこから巨大な利益を得ることができたからである。制度化されない私人たちの哲学や科学研究によってこの文化革命が開始されたのだが、そこには何か深いわけがある。

ニュートンに先立って、デカルトはすでに引力の概念をもっていた。また、デカルトは「真空」を認めなかったとする説もあるが、宇宙は延長(空間的広がり)という存在であるのだから「無」という意味での「真空」ではないと言っているのであって、デカルトは大気が限りなく排除されるという意味での通俗的な「真空」は認めていた。さて、大気の抵抗がないと想定して、物体を自由落下させた場合、落下時間と落下距離はどのような関係にあるのだろうか。

デカルトは、自然現象における時間と距離の関係を、当然のことながら数学的関係、つまり何らかの比例関係と捉えた。そして、落下のデータをとる以前に、この比例関係を代数方程式で表せるとした。どのような方程式が落下法則に当てはまるかは、データをとって方程式に代入しなければわからない。しかし、方程式がデータに先行することは確かである。そこで、デカルトはあらかじめ、一次、二次、三次、あるいはそれ以上の次数の方程式を候補に挙げた。こうしてデカルトは、独立変数を時間、従属変数を距離とする2次方程式を、物体の自由落下の法則の数学的表現として確立した。

デカルトの理論理性は、自然を「数学化」するに当たって、どのような順序で行使されたのだろうか:①物理現象とは独立に、数学の分野で方程式を組み立てる;②物理現象を反復する装置を作って、データを取る;③そのデータに矛盾しない方程式を選別する。

一応、①は抽象的な理論的考察であり、②は一定の意図にもとづく物理的装置の制作、つまり自然への主体的な介入であり、③は再び抽象的な理論的考察である。

では、①の段階の数学的思考に、H/Aの言う「自然と人間とを完全に支配するために自然を利用する」意図が内在しているのだろうか。たしかに、「自然を支配する」意図がデカルトを駆り立てていたとは言えるだろう。しかし、例えば2次方程式を組み立てる理論理性の働きが、そのまま自然支配の意図であると言えるだろうか。数学者たちの数学的思考は、自然支配の意図、その意志、その欲望とまったく同じ精神的営みなのだろうか。

原子力発電に必要な核分裂の研究には、微分方程式が必要である。この数学的分野は、原子力発電とは独立に成立したのだが、微分方程式を考察する数学者の理論理性は、自然支配を意図しているのだろうか。つまり、理論理性は、そのまま意図であり、欲望であるのだろうか。常識的には、そうであるはずはない。数学が役に立つ学問であることが知られたので、金儲けしたい人間の欲望が数学に張り付いたのだと考えたくなる。

H/Aの強引な主張には、歴史的な啓蒙に対する攻撃のみがあるように見えるが、じつは、彼らが考えていた以上のことが、すなわちカント哲学とは裏腹に、理性はそのまま欲望ではないかという問題提起が含まれているのではないだろうか。数学も物理学も、その他の諸学問もみな、そして哲学そのものさえも、「自然と人間とを完全に支配するために自然を利用する」欲望ではないのか。カントにおいては、裁判官的な最高の批判理性のもとに、理論理性と実践理性が配置されている。しかし、この裁判官的批判理性がすでに、支配したい強制したいと唸り声をあげている欲望ではないのか。しかし・・・(続く)
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財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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