哲学と「よい社会」7:『啓蒙の弁証法』、弁証法は単純か

H/Aは、カントにおける高次の批判的理性に位置してあたかも裁判官兼検察官のようにふるまいながら、理論理性の本性に関するカント説をそのまま承認したうえで、彼らの観点からその理性の破壊的性格を指摘し、実践理性および自由の概念を、批判するというより否定し貶める。

少し長いが、実践理性に対するH/Aによる否定と貶下の言葉を引用しよう。

「・・・サドの作品は、ニーチェのそれと同じく、実践理性に対する仮借のない批判を形づくっており、・・・仮借ない批判は科学的原理を破壊的な原理に高める。言うまでもなくカントは、「我が内なる道徳法則」〔『実践理性批判』岩波文庫p317〕をすでに各種の他律的な信仰から純化してきたのだが、その勢いのおもむく所、「我が上なる星空」〔同p317〕が物理学的な自然事実となったと同様、〔道徳法則に対する〕「尊敬」〔同p168〕はカントの保障に反してたんなる心理学的な自然事実になってしまった。カントはそれを自ら「理性の事実」〔同p74〕と名づけ、・・・ている。しかし事実は、それが存在しない所では妥当することもない。」(「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」p200)

「啓蒙は神話を破壊するために、あらゆる素材を神話から受け取る。そして神話を裁く者でありながら神話の勢力圏内に落ち込んでいく。・・・魔術的幻想が消失していくにつれて、反復はいっそう厳しく法則性の名の下に人間を循環のうちに閉じこめ、その循環を自然法則のうちに対象化することによって、人間が自由な主体として保障されているという幻想が生まれる。」(「啓蒙の概念」p37)

カント哲学では、理論理性も実践理性も高次の批判的理性も同じ理性であって、異なるのはそれの働きである。西洋文明が依拠するはずの「理性」を啓蒙の自己崩壊に結び付けようとするのであれば、H/Aは、カント哲学における高次の批判的理性に依拠することなく、理性の全体を根本的に批判できなければならないだろう。しかし、彼らの「理論的想像力」(『啓蒙の弁証法』p10)でもってさえも、それは可能ではない。しかも、H/Aは、カントにおける理性の申し立てのすべてを全面的に却下するつもりはないようである。

結局、とりわけアドルノは、美学あるいは芸術に希望を託しており、それに比べれば道徳あるいは実践理性など取るに足らないのであろう。だが、H/Aの観点からすれば啓蒙がもたらしたと言える原発問題に関しては、どうなるだろうか。

話を戻そう。近代西洋文明の展開なかで啓蒙主義がファシズムを引き起こしてしまったという痛切な思いから、H/Aは、カント的かつ科学的理論理性に対する激烈な攻撃を開始したのであろう。だが、なぜヘーゲル的弁証法だけは彼らの批判から免れるのだろうか。被告たる理論理性は有罪で、裁判官たる批判的な理論的想像力と、その裁判官のロジックたる弁証法は正義であるのだろうか。

とはいうものの、私は、弁証法というロジックを全面的に却下したいわけではない。たしかに、弁証法は、発端に置かれたものを否定と肯定のロジックで「よりよき本来のもの」へ高めようとする。だが、弁証法は、ジグザグ線をたどるのだが、結局は一筆書きになりやすい。そのために、弁証法は、あらかじめそのプロセスによって扱いうるもののみを選別しておく。しかし、選別できない雑多な要素や要因が複雑系をなしているような文明現象は、弁証法によって割り切れるものではない。弁証法の専制ではなく、弁証法を含むより広い、よりフレキシブルなロジックが必要であろう。例えば、リゾームから・・・。(続く)
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財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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