哲学と「よい社会」6:『啓蒙の弁証法』、弁証法は単純か

カントの言う「理性」は単純に働く認識能力ではない。たいへんラフなかたちでカント的理性とそれに関連した諸能力をスケッチしておこう。読者には、多少の忍耐力を要望したい。

理性は、自分自身を批判的に検討することができる。この批判する理性は、「裁判官としてのいっそう高い理性」と呼ばれる(『純粋理性批判』第2版767)。

この高次の裁判官的理性の前に、批判される「純粋理性」が出頭する。この批判される純粋理性は、いろいろな機能をもっているが、とにかく「統一する能力」であるとされる(同書359)。しかし、純粋理性は本来、知覚的対象(個々の自然現象など)には関わらない。その知覚的対象を扱うのは「悟性」と呼ばれる能力である。そして、純粋理性は、この悟性が獲得した個々の認識内容を、純粋理性固有の理念によって統一し、体系を形成する(同書、671、690、788)。以上のような純粋理性は、「理論理性」である。

だが、この純粋理性は、そうした自然認識における体系的統一を目指すだけのものではない。純粋理性は、「実践的」にも、つまり道徳的にも使用される(同書835以下、『実践理性批判』岩波文庫p94以下)。むしろ、道徳的に使用される理性を解明することが、カントの主目的である。

カントによる理性の整理の仕方は生物学的分類に似たところがあるが、ともかく、裁判官としての高次の批判的理性と、その面前で批判される純粋理性とがある。そして、純粋理性は理論理性と実践理性とに分かれる。ここでカントに深入りするつもりはないが、理性は「使用される」ものであること、そして理性は「関心」に左右される可能性があること(『純粋理性批判』第2版694以下)、要するに理性はオートマティックに発動するのではなく人間の関心にしたがって使用されるものであることを指摘しておこう。

カントの言う純粋な実践理性とは、金儲けなどの実践を志向する利己的な能力ではなく、人間の意志を規定して、万人に妥当する客観的な道徳的行為を成立させる能力である。カントの『実践理性』は感動的な書物ではあるが、『純粋理性批判』以上に難解である。おそらく、人間の道徳性そのものが難解であるからだろう。

実践理性は、自分で自分に、つまり人間に、道徳法則を与えることができるし、これは「理性の事実」である(『実践理性批判』p74~、p121、p140)。純粋実践理性は、自分の道徳法則の形式によって、純粋意志を規定する。そしてこの道徳法則が、かの有名な、いわゆる定言命法である。「汝の意志の格律〔個人的な実践的原理〕が、つねに同時に普遍的な立法〔強制〕の原理として妥当するように行為せよ。」(同書p72)簡単に言えば、しかし本当は簡単に言ってはいけないのだが、要するに、自分の個人的な道徳が万人に当てはまり万人が服従する道徳法則になるように、行為しなさいということである。難しいことではある。

重要な点は、以下のところにある。すなわち、この道徳法則が意志を規定するということは、意志が自由に〔自発的に〕道徳法則に服従するということでもある(同書p167)。したがって、道徳法則は「自由の法則」である(同書p140)。自由は服従の条件である。

カントにおける「自由」とは、「或る状態をみずから始める能力」を意味する(同書p14~)。しかも、この自由は「先験的〔超越論的〕自由」である。先験的自由とは、感性的世界つまり我々が見たり聞いたりできる世界のなかでの因果関係や法則に縛られない自由である。

意志が自由に道徳法則に服従するという意識をもつことができるのは、人間がこの道徳法則を「尊敬する」からであり、逆に、人間が道徳法則に「尊敬の感情」をもつのは、人間のなかに道徳法則が存在するからである(同書p167)。もちろんこれは循環論であるが、
ともかくこうして、自由が一切の傾向性(~したいという気持ち、貪欲など)を制限して、人間に実践理性の道徳法則を遵守させることになる(同書p164)。

「ジュリエット論」に戻ろう。前回の述べたことであるが、H/Aは、啓蒙の主体である理性を、カントの純粋理論理性に限定し、それを直接、金儲けを志向する実業家の理性とみなす。なぜそのようなことができるのだろうか。その根拠を、まず「ジュリエット論」だけに探してみよう。

すでに述べたように、純粋理性は、悟性が獲得した個々の認識内容を、感性的条件に関わりなく、純粋理性固有の理念によって統一し、体系を形成する能力である。他方、感性的世界に関わる能力は「悟性」である。そして、悟性は知覚(感性的世界)と関係するために「図式」と呼ばれるものに従う。「図式」という泥沼に立ち入るのはカント研究者にとってもしんどい仕事だから、もはやごく簡単にまとめよう。

悟性から発したカテゴリー(ア・プリオリな純粋悟性概念)が、知覚の感性的対象に適用されて経験的認識が成立する。その適用の条件が「図式(時間)」であると言われる。悟性(あるいは純粋な構想力つまり想像力)が図式を取り扱う技術を「図式論」という(『純粋理性批判』167、179、181)。

H/Aの論旨は以下の通りである。理性は一般的なものから特殊的なものを導き出す能力であり、一般的なものと特殊的なものの同質性は「純粋悟性の図式」によって保証される。「それ〔おそらく図式〕は、知覚をあらかじめ悟性にふさわしく構造化している叡知的メカニズムの無意識的な作用である。」(『啓蒙の弁証法』p180)

要するに、感性的条件に関わりなく作用する純粋理性は、悟性およびカテゴリーに関係し、その悟性は図式を介して感性的世界に関係する。したがって、純粋理性といえども、感性的世界と無縁ではない。したがって、感性的世界に直接関わらないカント的純粋理論理性を、感性的世界つまり社会における啓蒙の条件とすることができるわけである。

カントの啓蒙とは、H/Aによれば、他人の指導なしに、自分の理性に導かれる悟性を用いることができるということであった。

こうして、H/Aは、カント的な理論理性を、すなわちカントでは数学者や物理学者の理性がモデルになっている理性を、奴隷所有者、自由な企業家、官僚などの、いわば組織の経営にあたる理性であると示唆し、理性による啓蒙の自壊へと話を進めてゆく。

けれども、H/Aは、啓蒙の歴史的説明において、道徳的実践理性を無視し、傾向性(貪欲などの感情)もまったく無視する。

なぜ、そうできたのだろうか。彼らは、啓蒙の歴史のスパンを神話時代からナチス成立までに設定し、啓蒙の歴史の前後を、その中間にあるベーコンの思想と、ガリレオやデカルトらの科学革命から見渡そうとする。つまり、ベーコン、ガリレオ、デカルトにおける科学的理性に定位して啓蒙を歴史的に説明しようとする。ベーコンはともかく、ガリレオやデカルトの科学革命を、カントの道徳的純粋実践理性を持ち込んで説明するのは、不可能ではないだろうが、時間がかかる難しい作業になってしまうだろう。

しかし、根本的には、H/Aが依拠するヘーゲル的弁証法に、カントの実践理性の無視の原因があったのではなかろうか。私の見るところ、弁証法は物事を単純化する論理であり、複雑系を説明するキャパシティーはない。理性と呼ばれる人間の知的能力は一種の複雑系ではないだろうか。カントにおいてさえも。

H/Aは、少なくともカントの純粋理論理性が存在することを承認し、その理性の存在を前提し、そしてその理性を彼ら流の仕方で批判する。しかし、彼らが啓蒙を批判するに当たって、自分自身をカントの言う「裁判官としてのいっそう高い理性」に位置づけたとすれば、弁証法をもこの高次の批判的・批評的理性の前に出頭させるべきではなかったか。

次回のブログでは、「ジュリエット論」と「啓蒙の概念」における弁証法を、そして「自然」の概念を検討し、なるべく早く、ラカンとドゥルーズに戻ろう。(続く)

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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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