哲学と「よい社会」5:『啓蒙の弁証法』、弁証法は単純か

「Ⅲ ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」(以下「ジュリエット論」と呼ぶ)は、カントの「『啓蒙とは何か』という問いの答え」における、あの有名な啓蒙の定義の引用から始まる。

啓蒙とは、「人間が自分に責任のある童蒙状態から脱け出すことである。童蒙状態とは、他人の指導を受けなければ自分の悟性を使用できないような状態をさす」。これは、『啓蒙の弁証法』の訳者が訳した文章なのか、あるいは既存の邦訳によるものなのかは、「ジュリエット論」の原注でも訳注でも明示されていない。私の手許にカントの「『啓蒙とは何か』という問いの答え」の邦訳がないので、一応この訳文を『啓蒙の弁証法』の訳者のものと仮定して、まずその訳文から問題にしよう。

この訳文の原文を以下に記すが、以下の私の議論を読むにはドイツ語の知識は必要ない。

《Aufklärung ist der Ausgang des Menschen aus seiner selbstverschuldeten Unmündigkeit. Unmündigkeit ist das Unvermögen, sich seines Verstandes ohne Leitung eines anderen zu bedienen .》

上記の訳文の「童蒙状態」は、《 Unmündigkeit (ウンミュンディヒカイト)》を訳したものである。《 Unmündigkeit (ウンミュンディヒカイト)》の辞書的な意味は、「成年に達していないこと」、「未熟なこと」である。

他方、漢文に由来する「童蒙」という日本語の意味は、広辞苑によれば、「幼少で道理に暗いもの、子供」である。

《 Unmündigkeit (ウンミュンディヒカイト)》に「童蒙状態」を当てたのは、たしかに間違いではない。しかし、漢文における「童蒙」のイデオロギーを、さらに考え合わせるとどうなるだろうか。

「童蒙」という言葉が現れる最古の文献に『周易』がある。ところで、『啓蒙の弁証法』、「Ⅰ 啓蒙の概念」の冒頭で、「(ベーコンやヴェーバーの言う)啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放することであった」と述べられている。『周易』とは占いの書であり、呪術と同様、迷信に属するものであると、現代では一般に信じられている。「童蒙」という漢語・日本語は、西洋的啓蒙が斥けるであろう迷信の書『周易』に含まれている言葉である。

しかし私は、カントの《 Unmündigkeit (ウンミュンディヒカイト)》を「童蒙状態」と訳したのは浅はかだと言いたいわけではない。むしろ、こう訳してもらったことで『啓蒙の弁証法』の読み方に新たな観点ができ、結果的によかったのではないかと思っている。

私の議論は迂回的だと思われる読者がいるかもしれないが、もう少し付き合っていただきたい。さて、『周易』における「蒙」のイデオロギーを見ておこう。もちろん『周易』の私の読みは私自身の観点にもとづくから、江戸時代から現在に至る読みの慣習を無視することがある。「卦(か)」、「爻(こう)」といった用語が出てくるが読み飛ばしてもらって結構である。

周易を構成する六十四個の大項目(卦という)のうちの一つ「蒙」に付せられた卦辞の一部を引用しよう。「匪我求童蒙童蒙求我」。これを訳す。「私が童蒙〔道理に暗い子供のような者〕を求めたのではない。童蒙が私を求めたのである。」

「蒙」にさらに付せられた六つの爻辞(細目)の最初は、「發蒙利用刑人用說桎梏以往吝」である。
①この爻辞を、支配者にとっての教訓とする観点から訳す。「蒙〔道理に暗い状態〕をひらいて明るくすれば、刑を受けた人間を用いることにも利益があるがゆえに、桎梏〔手かせ足かせ〕をとくのがよい。けれどもこのように物事を進めても吝〔迷い、悔やみ〕が生じる。」
②この爻辞を、一般人にとっての教訓とする観点から訳す。「蒙〔道理に暗い状態〕をひらいて明るくするために、人を罰して、桎梏をとくことはよいことである。けれども、このように物事を進めても悔やむことになる。」

①の意味は、「啓蒙すれば、刑罰を受けた人間にも利用価値があるから、桎梏を解くべきだが、このようにすすめていっても後で迷い、悔いが生じる」となる。まさに、西洋啓蒙主義に反する教訓である。

②の意味は、「啓蒙すること。それは、人に刑〔枠組み〕を与えて埒を越えないように行動させることである。したがって桎梏〔蒙昧であること〕から解き放つのがよい。けれどもこのようにすすめていっても後で迷い、悔いが生じる」となる。これも、西洋啓蒙主義とは異なる教訓である。

「蒙」の五番目の爻辞は「童蒙吉」である。支配者にとっても、被支配者にとっても「童蒙は吉である」。

周易における「蒙」の教訓では、「發蒙」すなわち「啓蒙」の価値は肯定的ではない。「蒙」なる民衆、あるいは「童蒙」である者に利益がある。まさしく封建世界の教訓である。(だがしかし、周易の読みはこれにとどまるものではない。)

『啓蒙の弁証法』に戻ろう。西洋近代において、啓蒙を推進する者は誰か。啓蒙される者は誰か。啓蒙の利益は何か。啓蒙は西洋近代に初めて発生したのか。

まず、上記のカントの原文を、私の観点から訳してみよう。もちろん大した違いはないが・・・。

「啓蒙とは、人間が自分で背負い込んだ未熟さの外に出ることである。未熟さとは、他人の指導なしに自分の悟性を用いる、ということができないことである。」

「ジュリエット論」では、このカントの文章の直後で、「「他人の指導を必要としない悟性」とは、〔自分の〕理性によって指導される悟性である」と規定される。こうして、話は理性の本質に繋げられる。ここで、多少でもカント哲学を知っている読者は、『実践理性批判』における「実践理性」すなわち道徳的実践を導く理性が論じられるのではないかと予想するだろう。しかし、「ジュリエット論」で論じられる理性は、『純粋理性批判』における「理論理性」に限定され、『実践理性批判』はまったく無視される。

ここで、「ジュリエット論」を直接読む者のために、ホルクハイマー/アドルノ(今後はH/Aと略記)が引用する文章の出典を明記しておこう。なぜなら、邦訳の原注では、彼らが使用したアカデミー版の原書の頁数しか示されていず、日本の一般の読者が、カントの邦訳でその該当箇所を探すのは困難であるからだ。以下で岩波文庫の『純粋理性批判』の頁数を示し、原書の第2版あるいは第1版の頁数(この頁数を示すのがカントを引用するときの習慣)を括弧に入れて示す。

原注(2)=中巻p306(672)、(3)=中巻p306(672)、(4)=中巻p319(686)、(5)=中巻p307(673)、(6)=中巻p308(674)

H/Aによる以上のカントの引用は、『純粋理性批判』の「先験的弁証論・付録」の「純粋理性の統制的使用について」のごく一部からなされている。

なお、原注の(7)と(8)の出典も岩波文庫にもとづいて示す。(7)=『純粋理性批判』下巻p172(第1版128)、(8)=『判断力批判』上巻p46(XXXVI)

これは一体どうしたことであろうか。『純粋理性批判』で説明された「理論理性」で、奴隷所有者、自由な企業家、管理者という「市民」、つまり啓蒙の論理的主体を指し示すとは。(『啓蒙の弁証法』p182)  (続く)

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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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