哲学と「よい社会」4:『啓蒙の弁証法』、ホルクハイマーか、アドルノか

『啓蒙の弁証法』の「訳者あとがき」によれば、この著書を構成する序文(二人の署名がある)と、五つの論文と、一つの断片集のうち、「Ⅱ オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」はもっぱらアドルノに、「Ⅲ ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」はもっぱらホルクハイマーに帰せられるようである。論文Ⅰ、Ⅳ、Ⅴでは、二人の考え、文章が重ね合わされている。「Ⅵ 手記と草稿」の本文はホルクハイマーが単独で、その補論はアドルノが書いた。

実際、本書を読むと、アドルノがほとんど一人で書いたと言われる「Ⅱ オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」を除いて、論の進め方にやや単純な弁証法的論理が目立つ。つまり、テーゼ(啓蒙)が必然的にアンチテーゼ(野蛮)にひっくり返るという教科書的な弁証法である。さらに、ほとんどヘーゲル弁証法そのものを思わせる記述もある。「啓蒙は自己を完成し、自己を止揚する。」(p88)

また、第一論文の「Ⅰ 啓蒙の概念」では、冒頭にベーコンからの長い引用があり、論文の終わりでその引用文の意味付けを総括しているが、行論に齟齬とまでは言わないが揺れのようなものが見受けられる。

さらにまた、二人の考えが重ねあわされている論文では、「真に人間的な状態に踏み入っていく」(p7)、「人間が完全に裏切られるべきではないとするならば、・・・過ぎ去った希望を請け戻すことが問題なのである」(p14)、「ニーチェは、・・・ゆるがぬ人間への信頼を救った。」(p239)といった、本来の人間性――そのようなものがあるとして――への憧憬と賛歌が目立つ。

以前のブログの記事で、アドルノは評価のされすぎだと書いたが、しかし『啓蒙の弁証法』のなかでは、単純な弁証法にもとづかないアドルノの「Ⅱ オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」が、圧倒的に読み応えのある論文である。時間があればこれについて書きたいとは思っているが、とにかく今はやるべきことが多すぎる。

ホルクハイマーを単純な人だと言いたいわけではない。以下で『啓蒙の弁証法』の「Ⅲ ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」を少しではあるが分析するにあたって、ホルクハイマーとアドルノの考えを区別しないで論じていこう。繰り返すが、以下の分析はあくまで邦訳の文章にもとづいている。

さて、この「ジュリエット論」は、邦訳の文庫本の分量で61頁(p179~p239)を費やしている。そのうち、始めのおよそ15パーセントの紙幅で(すなわち四つの段落で)、カントにおける啓蒙の主体である「理性」を、『純粋理性批判』のごく一部の記述にもとづいて論じている。そして、第四段落の末尾でマルキ・ド・サドを登場させ、このサドを、「全体主義秩序たる計算、能率」つまり理性の本質を徹底的に追及した唯一の人物と規定する。

「ジュリエット論」の第五段落から始まる残りの85パーセントの紙幅では、ニーチェを絡めながらサドを論じていく。「啓蒙をして自分自身の姿に戦慄させる」(p237)ためである。 (続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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