哲学と「よい社会」3:『啓蒙の弁証法』、ダヴィド=メナールについての訂正

前回までのブログの記事で、ダヴィド=メナールをパリ第8大学の教授であると書いたが、これは私の早とちりであった。彼女はパリ第7大学の教授である(l'université Paris Diderot-Paris 7)。

パリ8の先生方に聞かれて、私は日本での研究活動を話した。『差異と反復』および「〈盗まれた手紙〉についてのセミナー」の原典(翻訳)を日本の読者がその文章の一つひとつによって理解できるよう、その二つの原書を改訳して詳細な注釈をほどこしたい、と。パリ8の先生方から、それなら是非ダヴィド=メナールに会うべきだ、彼女も喜んで私に会ってくれるはずだから連絡先を教えよう、それにミレールはもうパリ8で教えていないからと言われたので、てっきり彼女がパリ8の教授になったのだと思い込んでしまった。ここに、訂正してお詫び申し上げたい。

そこで、ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』(徳永恂訳、岩波文庫)を検討した後で、モニク・ダヴィド=メナールの著書『普遍の構築 カント、サド、そしてラカン』(川崎惣一訳、せりか書房)を紹介したいと思う。

まず、『啓蒙の弁証法』を、その所収論文「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」を中心にして批判的に検討しよう。ナチスから逃れ、ナチスという野蛮に対して理論的に立ち向かう二人の著作をこれから「批判的」に考えるのだから、フランクフルト学派を信奉する人が以下の私の批判的紹介を読めば、不快の念をもつかもしれない。また、以下の私の批判はフランクフルト学派に関する専門的な研究においてはすでに完了しているかもしれないので、今さら何を言うかと気分を悪くする読者もいるだろう。仕方のないことである。

ところで、以下の批判は、『啓蒙の弁証法』の邦訳での理解にもとづいている。難解な原書のこの邦訳はたいへん読みやすいし、とにかくパリの自宅にある本は少なく、図書館などで参照文献を探す時間はあまりない。

さて、『啓蒙の弁証法』の執筆の動機と、その叙述のスタイルの所以と、その目的はかなり明瞭である。まず動機は、「序文」の最初ではっきりと述べられている。

「市民的文明の崩壊という現代の状況においては、ただたんに学問に従事することばかりでなく、学問そのものの意義が、疑わしいものになってしまっている。」(p8)
「じつのところ、われわれが胸に抱いていたのは、ほかでもない、何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか、という認識であった。」(p7)

この「何故に」という疑問に答えることが、本書執筆の動機であろう。しかし、その答えは、従来の諸学問が信用されなくなっている以上、従来の学問的な叙述の仕方では困難になる。以下の雄弁を聞いていただきたい。

「世の風潮が、否応なしに思想が商品になり言語がその宣伝になるような状態に立ち至ったとすれば、この堕落過程の行方をたずねようとする試みは、この過程の世界史的帰結によって完全に息の根を止められる前に、現行の言語上、思想上の諸要求に従いついていくことを拒否しなければならないのだ。」(p8)

つまり、もはや従来の学問的な叙述のスタイルは採ることができないということだ。では、『啓蒙の弁証法』の叙述のスタイルはどのようなものか。それは、所収論文「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」を検討するときに見ることにしよう。

つぎに、『啓蒙の弁証法』の執筆の目的を取り出そう。そのためには、わたしたちは以下の断言を絶えず思い起こさなければならない。

「技術主義的に教育された大衆が、いかなる専制主義の魔力にもすすんでのめりこんでいったという謎に充ちた事実のうちに、民族主義的な偏執狂への大衆の自己破滅的な雷同のうちに、またあらゆる不可解な不条理のうちに、現代の理論的知性の持つ薄弱さが明るみに出る。」(p11~12)

この文章は、技術主義的に教育された大衆自身の理論的知性が、かえって独裁体制を望み民族主義的パラノイアにのめり込んでいく、ということを言わんとしているのだろうか。あるいは、大衆が技術主義的に教育されたがゆえに独裁や民族主義に身を投じてしまうのを、知識人の理論的知性は食い止めることができない、ということを言わんとしているのだろうか。

ともかく、「現代の理論的知性の弱さ」は、日本ではとりわけ政治的局面において顕著であろう。

ホルクハイマーとアドルノは、そこで、弱き「現代の理論的知性」に寄与するために『啓蒙の弁証法』を書いたのだと宣言する。

「以下の断片的考察のうちでわれわれが期するところは、このような理論的知性への寄与であり、次のことを示すことを眼目とする。すなわち、啓蒙が神話へと逆行していく原因は、・・・国家主義的、異教徒的等々の近代的神話に求められるべきではなく、むしろ真理に直面する恐怖に立ちすくんでいる啓蒙そのもののうちに求められなければならない、ということである。」(p12)

ホルクハイマーとアドルノというヨーロッパ的・ドイツ的知識人たちは、「白痴化」させられた大衆(p14)の「白痴化」からの解放を、人間性の解放という名目のもとで望んでいるのだろうか。それとも、実はヨーロッパ的・ドイツ的教養の没落を嘆き、新しい野蛮状態からヨーロッパ的・ドイツ的理性を自己超克的に脱出させ、ヨーロッパ的・ドイツ的理性の内部に潜んでいた「何ものをももはや歪める必要のないユートピア」(p239)を解放する、ということを望んでいるのだろうか。 (続く)                                
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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