哲学と「よい」社会2:『啓蒙の弁証法』と『経験論と主体性』

3月中旬から現在に至るまで、「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の翻訳と、それをめぐる議論に踏み込んでいない。『哲学と「よい」社会』に関する議論を、あと2、3回継続して、ラカンとハイデガーに戻ろう。『哲学と「よい」社会』というトピックを立てたのは、やはり原発事故がきっかけになっている。実際、原発事故の深刻さは、理論においてだけでなく日常の生活のなかでも感じている。

『哲学と「よい」社会』の議論は、「先験的=超越論的」の意味を考えることから始まった。おもに、カントの『純粋理性批判』、ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』、ドゥルーズ『経験論と主体性』、「内在――ひとつの生…」(『狂人の二つの体制』所収)を参照しながら、話を続けたい。

ところで、一般の読書人が、思想書を、原文(の翻訳)で直接理解できるように、つまりドゥルーズなどの「思想書」を読んでちんぷんかんぷんだと思うことのないように、私の思想研究は、できる限り「思想書」の文章を一つひとつ解釈し、理論の文脈を浮かび上がらせる、というやり方をとる。そのやり方は、私自身が他者の思想を理解する方法でもある。

ホルクハイマーやアドルノの論述のスタイルは、哲学者や思想家(例えばドゥルーズやハイデガーやラカン)というよりは評論家のそれに近く、彼らの思想の精密な吟味は、私の「思想研究」には馴染まないと思っていた。したがって、私自身はフランクフルト学派に深く立ち入るつもりはなかった。

ところが、フランスに来てパリ第8大学の先生方と話し、またアバンスールを称える講演会に出席して、この大学でフランクフルト学派に関する研究が活発に行われているのを知った。そこで、パリ8のこのひとつの傾向に敬意を表するために、また「先験的=超越論的」に関する私の議論のとば口として、『啓蒙の弁証法』所収の論文「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」を取り上げよう。ただし、翻訳文の文章をすべて分析するわけではない。

以上の私の書き方から、私が何かフランクフルト学派を軽視していると感じた読者がいるかもしれない。たしかに、私は世間とは異なってアドルノをそれほど高く評価していない。しかし、アドルノの、その時代ではタイムリーであった批評のなかにも、陳腐化しない重要な指摘があることは確かである。

「商品名を繰り返すことより重要なのは、むしろイデオロギー・メディアの買収である。・・・〔ヒトラーの啓蒙・宣伝係であった〕ゲッペルスが不気味な予感を込めて等置したとおり、広告は、・・・自己自身のための広告、社会的権力の純粋記述になる。標準的なアメリカの雑誌『ライフ』や『フォーチュン』などでは、ちょっと見ただけでは、写真や文言のうち、どれが広告でどれが本来の記事なのかはもうほとんど区別できない。」(ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』所収「文化産業」、徳永恂訳、岩波文庫、330~331頁)

ともかく、「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」という論文のなかでは、カントとニーチェは「イギリス経験論において精神を捨てたヨーロッパ文明」の救済者である。いずれ、ドゥルーズの天才的な処女作『経験論と主体性』を見ることになるが、次回はそのカントから始めよう。

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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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