翻訳とは何か

例えば私の翻訳作品である『差異と反復』(Deleuze《 DIFFERENCE ET REPETITION 》)は、その読者として、フランス語を理解しない多くの日本人を想定している。(いまは、国籍に関係なく日本語を母国語とする者を日本人と呼んでおく。)

翻訳文そのものは、主語と動詞の関係、修飾する語と修飾される語との関係がなるべく見えやすい構造をもつよう工夫した。ところが私は、この翻訳文のなかで、かなり多くの単語に原語の発音をルビというかたちで添えた。私は、翻訳文の構造を、なるべく自然な日本語の構造に近づけるよう努力したが、単語のレベルでは、哲学の専門用語(これを我々は「哲学方言」などと呼んでいる)や、ドゥルーズの造語などには、普通の日本語の単語ではないということを示すために、やや気休めでもあるが、原語の発音を付したのである。

では、私はこの原書を完全に理解して翻訳したのだろうか。

まず、一般論として言うなら、他人の書いたもの、しかも自分の母国語ではない外国語で書かれたものを完全に理解するということは、原理的にありえないことである。つまり他者の言語活動を、その他者がその言語活動においてその時に言わんとするところに即して完全に理解することは不可能である。日本語で書かれたものを日本人が読む場合でも、そうである。

つぎに、この翻訳で私が個人的に感じたことから言うなら、フランス語の文法構造も単語もきわめてよくわかる文章が、文章全体としては何を言っているのかよくわからないときがあった。そのような場合、私は、原文にできるだけ忠実な逐語訳をした。私がわからなくても、私より理解力が優れている読者が読めば、この直訳の意味を理解してもらえるのではないかと思ったからである。このような場合、変にわかりやすい意訳をしておくと、読者が原文の意味から離れた理解をもってしまう恐れがある。

ところで、ゲーテは『翻訳者ヴィーラント』のなかで、翻訳の二つの原則を示している。一つは、外国語の文章をできる限り自国語に転換し、あたかも自国語で書かれたものであるかのように思わせること。もう一つは、翻訳者が、外国語固有の諸特性に赴き、その諸特性をできる限り生かす翻訳をすること。ゲーテによれば、ヴィーラントは、この二つの原則のいずれか一方に偏らず、中間の道を歩み、その二つの原則を結びつけるよう努力した。ただし、原文の解釈に判断の迷いが生じたときには、ヴィーラントは第一の道を選んだ。

ベンヤミンは『翻訳者の課題』のなかで、昔から問題になっている「外国語の文章の意味にしたがう限りでの、外国語への忠実とその再現の自由」を論じている。そしてベンヤミンは、どちらかというと、再現の自由の方に重きを置いている。翻訳者の自分勝手な再現の自由ではなく、高次の権利をそなえた自由である。言語作品には、あらゆる伝達を超えて究極のもの、決定的なもの、つまり純粋言語が残る。純粋言語を意味から解き放つこと、形成された象徴主体を生成における象徴客体に転換すること、そして外国語の内に囚われている純粋言語を翻訳のなかで解放すること、これが本来の翻訳の自由な能力であり課題である。このようにベンヤミンは主張する。「意味」と「純粋言語」が何を言わんとしているのか、この文脈では必ずしも明確ではないが、ともかくベンヤミンは、おそらく詩的言語には、意味よりも深く、それ固有の本質的なものが潜んでいて、翻訳はそのような本質的なものを取り出す行為だと考えているようだ。(ゲーテとベンヤミンについては、三ツ木道夫編訳『思想としての翻訳』白水社を参照されたい。)

中国文学者吉川幸次郎を盲信する川村二郎(『翻訳の日本語』)の言い分はさておき、ゲーテとベンヤミンに対する私の考えを表明しておきたい。

例えば、宗教の経典が唯一同一の深い意味をもち、神官たちのみがその意味を伝えうるとしたとき、私は、翻訳を、このような神官たちの行為のようにはみなさない。ベンヤミンにおけるように言語には意味以上のもっと深いもの(純粋言語)があるとしても、私は、言語のなかに固定した同一的な深い何かが即自的にあるとは考えていない。ゲーテが言うような二つの原則も、私は取らない。

例えば『周易』をひとつの言語作品とみるなら、『周易』は、古代中国でかなり長い間に、様々な断片的な言葉や言い回しが、占いに都合のいいように集積したものだと考えられる。現在では作者不明とされる『周易』に、唯一同一の本質的な純粋言語のようなものは潜んでいない。『周易』の文章の意味は、占筮の状況に応じて絶えず変化する。(もちろん、その根本には偶然性の哲学があり、いずれ私はその哲学を公表したいと思っている。)

ドゥルーズに会ったとき、『差異と反復』のいくつかの箇所の意味について質問した。そのとき、或る箇所に関しては、ドゥルーズは答えるのを嫌がった。「それはもういいよ」という雰囲気であった。それがどこであるかは、ドゥルーズの名誉のために言わないでおこう。私が言いたいのは、作者が書きつつあったときに言わんとした事柄が、後になると、その作者にとってさえ重要ではなくなる場合があるということだ。

では、哲学的作品の理論言語の側面に限定して言うが、作品が作者から独立して読まれる場合はどうか。その作品は内部に同一的な意味的本質をもちうるか。もちうるのなら、その同一性は何によって保証されるのか。カントの「万人にとって同じ」という基準では、事実上埒が明かない。では、哲学的言語作品は、どうとでも読んでかまわないのか。ドゥルーズは、全体主義的に読まない限り、読者にはドゥルーズの作品を誤読する権利があると言っている。つまり、創造的に誤読せよと、ドゥルーズは主張している。

そうなら、翻訳者にもドゥルーズの作品を誤訳する権利があるのか。もちろん、語学力が不足しているがゆえの誤訳はダメだ。また、意図的な誤魔化しもダメ。では、語学力もあり、文章力もあり、誠実でもある翻訳者ならどうか。

結論から言おう。自分の母国語ではない外国語の作品を母国語に転換しようとして読み、その翻訳文をつくるとき、何が起こるか。外国語の読解に慣れ、翻訳文をつくるのにも慣れてくると、外国語の意味が直接わかり「翻訳文が出てくる」ようになる。では、数回読んでも何を言っているのかわからない場合は、どうするか。わかるまで読む。主体的に理解するのではなく、理解がおのずから生じるまで読む。どちらの場合にも、一種の受動的総合が成立するのだ。

しかし、そのようなことでは、翻訳の正確さは保証されないでもあろう。では、原文に同一の固定した意味があるとして、それを正確に翻訳することは、どのようにして可能になるのか。すでに述べたように、翻訳者のなかに、「おのずから」理解が生じ、「おのずから」翻訳文が出てくるようにするしか、他に方法はない。しかも、その成果である翻訳作品は、当の翻訳者あるいは他の翻訳者によって絶えず修正される可能性が残るものである。

原文に翻訳者が接触し、原文と、努力する翻訳者との間に、受動的に理解が生じ、翻訳者は「わかった」と思う。しかし、そのときは「わかった」つもりでも、後になってその「わかり」は修正される可能性があり、この修正に終りはない。

では、吉川幸次郎が言うように、一流の原文の翻訳は原理的に二流の行為でしかないのか。そうではない。作者から作品が独立しているように、それぞれの翻訳は原書から独立して読まれることができる。ただし、翻訳は原書に絶えず戻されなければならない。外国語の原書に潜む同一的な意味は、翻訳の作業にとっては言わば虚焦点としての理念であり、その理念に向って、翻訳者は努力し続け、幾度も翻訳作品が生まれては独立し、そしてもちろん、廃れていくこともある。翻訳に、一流、二流の区別は必要はない。

だから、翻訳という行為は、そして翻訳作品は、もとの作品に比べて、原理的に二流であるか否か、などという原理主義的な議論は無意味である。あるいは、外国語の作品に潜む本質的なものを翻訳は取り出せるのか、などという議論も無意味である。

それぞれの民族や国民の多くが、事実上、みずからの民族語あるいは国語で生活している以上、虚焦点としての絶対的な意味に向って、相対的により正確な翻訳の努力が続けられるしかないのである。何か裁判官になったかのように錯覚して、翻訳はもともと二流の作業だなどと嘯(うそぶ)く評論家気取りの人間は放っておけばよい。そこには、生産的な意味は何もないからだ。

ここでは、理論言語を中心にして議論したが、いずれ詩的言語についても述べるときがあるだろう。もっとも、事実上は、文学や哲学において理論言語と詩的言語を切り離すことはできないが。

さて、翻訳に関する私の立場表明はこのぐらいにして、ハイデガーに戻らなければならない。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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