ラカンSLV翻訳と注釈7:ハイデガーのes(続5)

このブログの副題が「ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー」となっているのは、ドゥルーズの『差異と反復』の「はじめに」のなかで、この書の主題が時代の雰囲気のなかにあると宣言されていることに基づいている。時代の雰囲気とは、たとえば、ハイデガーの存在論的差異、構造主義の差異的=微分的諸特徴、無意識における反復の力などである。このブログは、ハイデガーから、あるいはラカンから、ドゥルーズへ、そして創造へと向う長い道のりを歩む。途中で脱線するが、私も断続的ながら根気よく書き続けるので、読者の方々もしつこくアクセスしていただきたい。

ところで、現在、いくつかの私立マンモス大学では、その哲学科の学生たちの多くは哲学研究を志望していない。ひどいことに、その多くが在学中に哲学書を読まない。哲学は、現在の日本の大学では、フランス文学やドイツ文学と並んで人気のない学科になっている。かれらは、まあ、仕方なく哲学科を選んだのだろう。「仕方なく」の意味は、ここでは詮索しないでおく。もちろん、私はかれらを責めているわけではない。責められるべきは、このような教育制度を作り上げてしまった大人たちであろう。

哲学科のかなり多くの学生は哲学の授業に嫌々ながら出席し、したがって哲学の初歩的な知識すらもっていないのだから、ましてや、それ以外の若者たちが哲学の考え方に馴染んでいるとは考えられない。じつは、若者たちばかりでなく・・・。

このブログにアクセスする人々のなかには、哲学研究の専門家がごく少数いるかもしれないが、一般の読者層に属する人々も多いのではなかろうか。そこで、老婆心ながら私は、哲学あるいはハイデガーの思想の基礎知識をあらかじめ説明し、そのうえで「エス」の話に移りたいのである。私は、哲学の学会や哲学科の教員に向けてこのブログを開設したのではないからだ。

さて、存在(ある)の意味を問い求めることが何の役に立つのか、という問題から再開しよう。おそらく、様々な方面に役立つことがあったはずだし、現在でもなお、あるだろう。『存在(ある)と時間(とき)』の序論「第三節 存在(ある)の問の存在論的(あるのロゴスにおける)優位」では、ハイデガーの広い意味での存在論が何に役立つかが、かなり明瞭に説明されている。

そこではこう述べられている。「どこでも今日では、様々な学問分野で、研究を新たな基礎の上に置き直そうとする傾向がめざめてきている。」(9頁)

「数学」は、形式主義と直観主義の争いにおいて、基礎づけの危機におちいっている。「物理学」における相対性理論は、物質の問題に直面している。「生物学」では、機械論と生気論の背後に遡って、生物そのもののあり方を新たに規定しようとしている。「もろもろの歴史学的精神科学」、たとえば文学史では、伝承などを通り抜けて、歴史的現実そのものへ迫ろうとしている。「神学」は、神にたいして人間がどう存在する(ある)かを、より根源的に解釈しようとしている。(9~10頁)

当時の数学、物理学、生物学、歴史的精神科学、神学は、危機におちいったり、新たに根源的な探究に向おうとしていた、というわけだ。では、ハイデガーの「存在(ある)の問」は、これらの学問領域にたいして、どのように貢献するのだろうか。

それらの学問領域、たとえば数学に、自分の広義の存在論が役に立つと信じ込んでいなかったら、ハイデガーはこんな大風呂敷を広げることはなかったはずである。言い換えれば、哲学における普遍学の夢を見ることはなかったはずである。

そこで、ハイデガーの言い分に耳を傾けてみよう。まず、もろもろの学問は、自然、生命、歴史等々といったものごとの領域をテーマにしている。他方、あらゆる実証的学問を導く先行的な了解というものがある。学問を導くような意味で、自然や生命や歴史といったものごとの領域を了解できるようにする「根本的諸概念」があるとも、ハイデガーは言う。

つまり、自然や生命や歴史といったものごとの領域を実証的、科学的に探究する以前に、そうした探究を導く先行的な了解がある。そして、この了解が、あらかじめ自然や生命や歴史といったものごとの領域を了解できる。そうできるようにするのが、「根本的諸概念」である。ハイデガーは、この根本諸概念が何であるかを明確には述べていない。ともかく、諸学問がそれ自身の領域で具体的に探究するレベルと、その領域を先行的に了解できるレベルがあるということになる。

たとえば自然を物理学が探究する以前に、物理学を導くような自然了解があって、さらに、そのような自然了解を可能にする根本的諸概念があるということだ。この根本的諸概念が真正なものであるかどうかは、自然という領域が、物理学によって研究される以前に、その根本的諸概念に即して先行的に研究し尽くされる場合だけである。かなり詭弁くさい議論であるが、もう少しハイデガーの理屈を追っていこう。

そのような先行的研究は何を意味するのか。自然という領域が存在者(あるもの)の区域から得られているとすれば、その存在者(あるもの)の存在(ある)の仕組みにもとづいて当の存在者(あるもの)を解釈すること、これが先行的研究である。では、自然という領域はどのような存在者(あるもの)から得られたのか。これの具体例は挙げられていない。

その代わりに、ハイデガーは、歴史を持ち出す。歴史という領域を先行的に研究するということは、歴史的な存在者(あるもの)をその歴史性もとづいて、つまり存在(ある)の歴史的仕組みにもとづいて解釈することである、と言う。では、歴史的な存在者(あるもの)とは何か。どうやら現存在(うつつにある)つまり人間が示唆されているようである。

事実、自然に関して、カント哲学(超越論的論理学)が引き合いに出されている。(ここで私がカント哲学の解説をする時間はないので、読者の皆さんがある程度カントについて知っていると前提して話を進める。)ハイデガーは、超越論的論理学を、自然という存在領域のア・プリオリな実質的論理学であるとする。ではカントにおいて、物理学が研究する限りの自然はどこで成立するのか。それは人間(あるいは心)の表象においてではなかったか。

現代西洋哲学でさえ、カント的二元論を越えるのは難かしいことがわかる。

こうして、自然や歴史といった領域が或る特定の存在者(あるもの)から取り出されるのであれば、その存在者(あるもの)の存在(ある)の仕組みを明らかにする先行的研究が必要になり、またそればかりでなく存在(ある)一般の意味の研究が必要になる。こうした研究が、危機におちいった諸学問や新たに根源的な探究に向おうとする諸学問を導くというわけだ。だから、当時危機的だと思われた数学などを、しっかりとした学問として確立するために、「存在(ある)の問」がなければならない・・・。諸学問、諸科学を確立することに、ハイデガーの存在(ある)の問は役立つはずであった。しかし、本当に役立ったのだろうか・・・。ハイデガー研究者の多くは、この問題を無視している。

「存在(ある)の問」の効用はこれまでにしておこう。もっと重要な問題は、ハイデガーの「存在(ある)の問」は、諸学問の、すなわち学問的認識の確立に役立つのみであるのか、ということである。言いかえるなら、「存在(ある)の問」は、「行動」あるいは「創造の行為」に関して役立つことはないのか、ということである。『存在(ある)と時間(とき)』における「存在(ある)の全体性と本来性」に関する議論には、創造の行為へ導かずに、何か危険な行動へ誘う笛の音色がないかどうか、ということである。

次回は、現存在と存在と時間性の関係や、当時の哲学的雰囲気に簡単に触れて、その後、ハイデガーの「エス」を詳細に見ていこう。

ただし、これから、私立大学に勤務する者には肉体と神経を酷使する労働が待っているので、かなり間を置いて記事を書かざるを得ない。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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