ラカンSLV翻訳と注釈6:ハイデガーのes(続4、修正版)

このブログではルビを振ることができないので、()のなかに振るべきルビを示す。

さて、『存在(ある)と時間(とき)』を理解するためには、八つの節からなる序論「存在(ある)の意味についての問いの導入的解説」の読みを疎(おろそ)かにしてはならない。『存在(ある)と時間(とき)』を深く理解しようとするなら、例えば、序論の第二節における「問いの形式的構造」の説明を、もっともらしい分析だと貶(おとし)めて斥(しりぞけ)けることなど、とうていできるものではない。

「問いの構造」の分析を斥(しりぞけ)けてしまえば、なぜハイデガーが、始めから端的に「存在(ある)」そのものを問わずに、「現存在(うつつにある)=人間」という特定の「存在者(あるもの)」の「存在(ある)」から問い始めるのか、が理解できなくなる。また、『存在(ある)と時間(とき)』の未完成の理由もわからなくなるだろう。

哲学解説者は、当の哲学に代わって浅薄な答えを出し、哲学評論家は、当の哲学をスパッと切って、この切り口はどうだと見得を切る。

だが、ドゥルーズも正しく指摘しているように、性急に答えを獲得したと思って問いの展開をやめるならば、それは思考を止めることである。

また、ハイデガーが言うように、哲学の任務はもちろん予言ではないが、さりとて遅ればせの利巧がりでもない。

では、私がこのブログで何を行おうとしているのか。もちろん、テクスト分析(問いの反復)である。それが私の思想研究である。テクスト分析によって潜在的なものに出会うこと、と言ってもよい。

以前の記事で述べたように、『存在(ある)と時間(とき)』のもくろみは「存在の問いを仕上げること」である(原書39ページ)。では、「存在の問いを仕上げること(Ausarbeitung アウスアルバイトゥング)」とは、どのようなことか。

ハイデガーは、古代ギリシアのアリストテレス、中世のトマス・アクイナス、17世紀のパスカル、そして19世紀のヘーゲルたちの「存在(ある)」概念は不十分であると宣言する。存在(ある)についての問いには答えが欠けており、それどころか、この問いそのものが曖昧な状態のままにある。

だから、ハイデガーがあらためて存在(ある)の問いを反復しなければならないのであって、それこそが、問いの設定を十分に仕上げる(ausarbeiten アウスアルバイテン)ということである(序論、第一節)。ハイデガーは、プラトン、アリストテレス以来の存在論の歴史を、決定的に不十分な存在論の歴史とみなし、自分こそが西洋存在論、いや西洋哲学を超克するというわけだ。

存在(ある)についての問い、存在(ある)の問いとは、存在(ある)の意味についての問いでもある。では、この問いをどのように設定すればよいのか。

問いは探究である。探究=問いは、探究されているものの方から、先行的に導かれる。根本的な探究としての問いは、勝手に問うということではない。根本的な探究=問いは、問われているものに導かれ、問われているものを露出しながら規定することである。

問い(Frage)の構造は、三重である。①「~について問う(fragen nach)」、②「~に問いかける(befragen)」、③「~を問い求める(erfragen)」。

①で問われるものは「存在(ある)」である。②で問いかけられるものは「存在者(あるもの)」である。③で問い求められるものは「存在(ある)の意味」である(5~6頁)

要するに、②存在者(あるもの)に問いかけて、①存在(ある)について問い、③存在(ある)の意味を問い求める、ということだ。この三重の問いのなかで、さしあたり最も重要なのは、②の「存在者(あるもの)に問いかける」ことである。

「存在(ある)」は、「存在者(あるもの)」ではない。ハイデガーは、「存在(ある)」は「存在者(あるもの)」を「存在者(あるもの)」として規定すると言う。これは、どのようなことか。「存在者(あるもの)」は「存在する(ある)」がゆえに「存在者(あるもの)」であるということだ。

では、どのような存在者(あるもの)に問いかけて、存在(ある)の意味を問い求めたらよいのか。どのような存在者(あるもの)から出発すればよいのか。

われわれが、存在(ある)について問い、存在(ある)の意味を問い求めながら、問いかける存在者(あるもの)は、それ自身の存在(ある)の諸特徴を誤りなく呈示しうる存在者(あるもの)でなければならない。それは、何か、あるいは誰か。それ自身の側で、それ自身のままで存在する(ある)とおりに、われわれが近づけるようになる存在者(あるもの)は、何か、あるいは誰か。

それは、存在(ある)についての問いを発するわれわれである。もっと限定するなら、自分あるいは私なるものである。それは「現存在(うつつにある)」と呼ばれるもの、すなわち「人間」である。それは、ハイデガー自身でもある。

ハイデガーという存在者(あるもの)は、存在する(ある)がゆえに「存在者(あるもの)」であり、「現存在(うつつにある)」と呼ばれる一人の人間である。ハイデガーは、自分の側で、自分自身が存在する(ある)とおりに、自分自身に近づくことができる(はずである)。

ハイデガーの存在論には、デカルトからフッサールに到る近代哲学の「自己意識」の臭みが漂っている。ハイデガーは、もちろん「意識」などという言葉は用いない。デカルトは言う。「我思う、ゆえに我あり」、なぜなら「私が思考するためには、私は存在する(ある)のでなければならない」からである。しかも、「我思う」には自己意識が伴うと。

思考は深い次元では存在(ある)である。ただし、自己意識は、自己直観でもある。直観とは、客観的に意思的に見ることではなく、直接見えることである。それ自身が、それ自身の側で、それ自身のままで存在する(ある)とおりに、現れることである。それ自身のままで現れること、現象することが、見えることである。

人間を意味する現存在(うつつにある)は、存在(ある)についての問いを発する者であり、自分が存在する(ある)とおりに自分に近づくことができる。だから、現存在(うつつにある)は、問いを発する自分に問いかけて、自分の存在(ある)について問い、自分の存在(ある)の意味を問い求めなければならない。

自分の存在(ある)の意味を十分に問い求めることができたなら、そこから、自分の存在(ある)の意味だけではなく、さらに、存在(ある)一般の意味を問い求めることができるはずではあった・・・。なぜ、自分の存在(ある)の意味が開示されると、それにもとづいて、存在(ある)一般の意味も開示されうるのか。前者と後者は、どちらかが他方のコピーであるのか・・・。

次回は、存在(ある)の意味を問い求めることが何の役に立つのか、ということから始めよう。哲学は、あるいはハイデガーの思想である非哲学(広い意味での存在論)は、何の役に立つのだろうか。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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