ラカンSLV翻訳と注釈5:ハイデガーのes(続3)

ラカン読解を期待してこのブログにアクセスする読者諸賢は、私がなかなかラカンに踏み込まないのでイライラしているかもしれない。だが、もう少しご辛抱願いたい。現在なお日本で崇拝されているハイデガー―――偉大でありながらも或る意味で危険な思想家―――に対して、私は批判的なスタンスで言及するのだから、発言に責任を持たなければならないし、それは当たり前のことである。無責任なプロパガンダや、虚偽にもとづくハイデガー擁護をするつもりはまったくない。

まず、『存在と時間』という題名の、特に『存在』という訳語が適切かどうか、というところから考えよう。

さて、『存在と時間』と訳されることの多いハイデガーの著書《Sein und Zeit》を、辻村公一だけが『有と時』と訳している。

辻村は、「存在」を「ある」、「時間」を「とき」と訳し、題名全体を「あるととき」と訳すのが「一番無難であろう」と、「訳者後記」で語っている。私も後述するように、そう思う。しかし、辻村は、このようなやまとことばの訳では、ことばが「邦訳文の流れのうちに解消されてしまう」とも述べている。つまり、「あるととき」では、訳文がグジャグジャしていて、うっかりすると変な区切り方で読んでしまう恐れがある、ということなのであろう。これまた、もっともなことである。

辻村は、国語辞典や漢和辞典をもとにして、「存在」という日本語化された漢字の熟語は、《Sein》というドイツ語の意味を十分には伝えない訳語であると判断する。そして辻村は、「存在」よりも「有」の方が、より十分な訳語だと考えている。

その根拠は何か。簡単に言うと、《Sein》(ザインと発音する、英語の《Be》に相当)は、「存在」つまり「ある」を意味すると同時に、繋辞の「である」(「AはBである」の「である」)を意味するが、「存在」という訳語には繋辞の「である」の意味がない、しかし、「有」には、「存在」という意味と、繋辞の「である」という意味が両方ある、というのがその根拠である。ただし、「有」がもちうる「所有」の意味は「除去されている」とも言う。誰が除去したのか不明であるが。ともかく、辻村は「所有」の意味を除去した上で「有」という訳語を用いる。

たしかに辻村は、ハイデガーにおける《Sein》をどう訳すべきかについて、正直に自分の考えを述べている。しかし、私は、「有」に繋辞の「である」の意味はないと考えている。また、「有」から「所有」の意味を除去すると言っても、除去できるものではない。現代日本語で「有する」という言い方は普通であるからだ。

辻村は、『平家物語』から「有」が繋辞の意味を持ちうる例を出している。「ニテゾ有ケル」、「ニテ有ケレバ」がその例である。しかし、この例は、「ニテ」と「有」がつながって、すなわち「ニテ有ル」というかたちで、初めて繋辞とみなしうるのであって、「有」そのものに繋辞の意味はない。

私は辻村を貶(おとし)めているのではない。その反対である。

「存在と時間」という訳語に何の疑問も抱かずにハイデガーを解説している者はたしかにいるが、以上ような辻村の苦しい翻訳の試みこそ、ハイデガーの《Sein und Zeit》という稀有な書物の理解にとって必要な前提なのである。

しかし私は、「存在」を意味する「ある」という「やまとことば」と、繋辞を意味するとされる「である」という「やまとことば」を、意味的にも文法的もまったく異なることばだとは考えない。たしかに「である」を「だ」あるいは「です」に還元する国語辞典は多いが、私は、「ある」と、「である」の「ある」とを基本的には同義語とみなす。

もちろん以下のような反論があるだろう。すなわち、「存在」を意味する「ある」は、現実に存在するものについて言われるが、繋辞の「である」は、現実には存在しないものについても適用できる言葉であると。例えば、現実に存在するという意味で「一角獣は《ある》」もしくは「一角獣は《いる》」とは言えないが、「一角獣は伝説上の動物《である》」とは言える、と。

しかし、いかなる意味でも「ある」ことがないもの、つまり「あらぬ」あるいは「存在しない」ものは、「~である」というかたちで、その属性を言うことはできない。まったく「あらぬ」ものには何の属性も無いからである。現実には存在しない「一角獣」は、空想のなかでは「ある」ものであり、したがって「動物である」と言える。だが、空想のなかにさえ存在できない「あらぬ」もの、端的に「あらぬ」ものについては、「ある」とも「である」とも言えない。「あらぬ」の「ぬ」つまり「ない」は、「ある」のリミットとして機能しているのである。

私は、ハイデガーの《Sein》は、「ある」と訳した方がよいと考える。存在を意味する「ある」の前に「にて」や、「として」や、「で」が置かれれば、「ある」は繋辞の「である」の機能をもちうる。

なるほど辻村が言うように、「あるととき」では読みにくい。そこで、あらかじめ私の訳語を提案しておこう。《Sein》の訳語として、「ある」というルビを振った「存在」を用いる。人間の別名である《Dasein》(ダーザインと発音する)の訳語として、「うつつにある」(文脈によっては「うつつである」)というルビを振った「現存在」を用いる。(このブログの記事では、ルビを振った文字は使えないようなので、ちょっと困るが。)いずれ、「現(うつつ)」という言葉の意味を説明する。

では、《Sein》と《Dasein》が含意する「ある」は、現在においてのみ現実に存在するものの「ある」を意味するのだろうか。まさに、ここが問題である。「ある」の意味を理解するに当たっては、どうしても何かしらの「時間」の観点が必要になるのだ。

次回は、再び、『存在と時間』という本は何を(明らかに)したいのか、というところから始めよう。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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