能講座を終えて

今日(22日)、津村師に、私の現代日本語訳『隅田川』の一部(ブログではまだ発表していない下記の部分)を、ぶっつけ本番で謡っていただいた。謡いの形式のキャパシティに驚嘆した。

私の現代語訳が五七調に固まっているので、今後修正したいと思っている。

ところで、私の訳文は、ずらしながらの反復を多用している。反復することによって、原文の縁語や掛詞の含意を顕在化させたいと思っている。

当然、聞いただけで日本語での理解が容易になるが、そればかりでなく、長い現代日本語訳の謡いに、この現代語訳の簡潔な仏訳を字幕でシンクロさせた場合、鑑賞を妨げずに、原文の意味をかなりの程度まで十分に仏訳字幕で伝えることができるのではないかと考えている。


『隅田川』本文
地謡「(上歌)残りても、かひ有るべきは空しくて、かひ有るべきは空しくて、有るは、かひなき帚(はわき)木(ぎ)の、見えつ隠れつ面影の、定めなき世の習ひ。人間憂(うれい)の花盛り、無常の嵐音添ひ、生死(しょうじ)長夜(ぢょうや)の月の影、不定(ふぢょう)の雲覆へり。げに目の前の憂き世かな、げに目の前の憂き世かな。


財津現代語訳
地謡「(上歌)われ残り、われ残りても幼子は、甲斐のあるべき命無く、空しくなりて、この母は、甲斐なきハハキ、ハハキ木の、見えつ隠れつ幼子の、面影おぼろの定めなき、定めなき世の習いかな。人間の、憂いの花の盛りこそ、無常の嵐、音を立て、生死の迷い夜の夢、長き夜にも月明かり、その月もまた雲覆い、定めもなくて雲のなか。げに目の前の憂き世かな、人の世にある憂いかな。」


平家物語に取材した修羅物『忠度』、『経正』にも少し言及した。
『忠度』:生者における死者の和歌への執着。題「旅宿花(りょしゅくのはな)」;「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」。
『経正』:生者における死者の琵琶(青山)への執着。

生者と死者の関係。フッサール、ハイデガー、ラカンの時間論では処理できない能の時間。

明日(23日)は休息し、24日は大学での採点や雑用でつぶれるので、25日(火)から、ハイデガーとラカンにおける「エス」の読解を再開したい。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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