ラカンSLV翻訳と注釈2:ニーチェのes

西洋の一人の思想家が数多くの著作を書いた場合、それらをすべて、日本の一人の翻訳者が訳語を統一して翻訳することは難しい。したがって、著書(原書)の数が多ければ多いほど訳者も多くなり、思想家の一つの言葉に対応する訳語も様々になる。したがってまた、翻訳書の言葉遣いから、一人の思想家の著作どうしの関連を捕らえることが難しくなる。しかも、例えばハイデガーの『存在と時間』のような重要な書物となれば、この一冊に対しても多くの翻訳者が、様々な観点から取り組む。

西洋の複数の思想家を問題にするなら、彼らの著書(原書)が同じ言語で書かれていても、訳語から思想家どうしの関連を捉えることはさらに難しくなる。しかも、例えばハイデガーがニーチェの名前を出さずにニーチェの言葉を使っている場合、翻訳者がそのことを明瞭に理解していなければ、その訳文から両者の関連を捉えることはほとんど不可能である。

近・現代西洋思想の訳語が日本語のなかに定着しない理由のひとつは、おそらく、以上のようなところにあるのだろう。法学の分野は別として、日本文化のなかに西洋思想の訳語が定着しない以上、その思考も定着しない。それは、日本という特殊な地域のなかで変えることの難しい状況である。

だが、西洋思想、とりわけ現代のいくつかの思想、例えばハイデガー、ラカン、ドゥルーズの思想が、一般の読者にもっと理解されるようになる可能性は、しかも批判的にさえ理解される可能性はあると私は思っている。その可能性を通じて、再び日本語による思想や芸術が活性化されるとすれば、それはとても喜ばしいことだ。

さて、ハイデガーは『存在と時間』第二篇、第二章で良心論を展開するに当たって、同時代のプロテスタント系の神学者たちの著作を批判的に参照している。(「良心論」とは私が便宜的に使っている言葉である。)

ケーラー(Martin Kähler )、リチュル(Albrecht Ritschl )、シュトーカー(Hendrik Gerhardus Stoker)が取り上げられている。『存在と時間』第五十五節、原注(3)を見ていただきたい。日本では、彼らの著書の一部が、キリスト教関係の分野で紹介されている。日本語での研究論文もあるようだ。

そのように、『存在と時間』の第二篇、第二章(良心論)は時代の雰囲気のなかにある。しかし、その第二章のとりわけ第五十七節と第五十八節は、ニーチェの『善悪の彼岸』および『道徳の系譜』に、そしてフロイトの『自我とエス』に絡んでいると思える箇所であり、ニーチェやフロイトの諸観点から読んだ方が面白い。何よりも「それ( es エス)」に着目にして。

ハイデガーは第五十七節で、ニーチェの言葉遣いをしている。すなわち、原・渡邊訳では、
「それ( es エス)」、
「やましくない良心( gutes Gewissen グーテス ゲヴィッセン )」、
「とがめる良心 ( schlechtes Gewissen シュレヒテス ゲヴィッセン )」、
「責め( Schuld シュルト)」
である。

もちろん、ハイデガーの良心論の前提には、カントの『人倫の形而上学』第二部のⅠの第一部の第一巻の第二篇の第1章すなわち第十三節およびその原注における「良心」の議論がある(カントにおける目次の煩雑さは、現代人には、常軌を逸しているように見える)。いずれ、このブログでハイデガーの『存在と時間』を扱うが、そのときに再びその点を問題にしよう。

また、カントによってこの箇所で分析されている「二重の自己」を、フロイトやラカンにおける「自我」と比較して考察するのはとても面白いことであるが、今は、この問題に触れないでおこう。

さて、信太正三訳のニーチェ『善悪の彼岸』および『道徳の系譜』においては、同様に 「es エス」は「それ」と訳され、「 gutes Gewissen グーテス ゲヴィッセン」は「やましくない良心」と訳されている。

しかし、「 schlechtes Gewissen シュレヒテス ゲヴィッセン 」は「とがめる良心」ではなく、「良心の疚しさ」と訳され、「Schuld シュルト」は「責め」ではなく、「負い目」と訳されている。

ドイツ語を解されない読者のために、少し初歩的な説明をしておこう。 独和辞典ではふつう、
Gewissen(ゲヴィッセン)=「良心」、
gut(グート)=「よい」、
schlecht(シュレヒト)=「わるい」
となっている。

信太訳のニーチェでも原・渡邊訳のハイデガーでも、
Gewissen(ゲヴィッセン)は「良心」、
gut(グート)は「やましくない」だが、
schlecht(シュレヒト)は、信太訳では「疚しさ」、原・渡邊訳では「とがめる」
となっている。

いくつかの独和辞典では、「 gutes Gewissen グーテス ゲヴィッセン」には「やましくない良心」という意訳が当てられている。この意訳は、独和辞典の編纂者が独自に考えたものか、あるいは日本のニーチェ研究者の意訳を参照したものか、いまのところわからない。

ともあれ、私は、ニーチェにおいてもハイデガーにおいても、
「やましくない良心( gutes Gewissen グーテス ゲヴィッセン )」は、素朴に、「よい良心」と訳し、「とがめる良心、良心の疚しさ( schlechtes Gewissen シュレヒテス ゲヴィッセン )」は、やはり素朴に、「わるい良心」と訳すべきだと考えている。

そして、この「よい」と「わるい」の意味は、読者が、ニーチェおよびハイデガーの文脈から汲み取るようにするべきだと考えている。しかし、この話は別の機会に譲ろう。

いずれにしても、ここで問題にしているのは、「 es エス」=「それ」である。

そこでまず、ハイデガーの「 es エス」=「それ」を取り上げる前に、ニーチェの「 es エス」=「それ」に関する記述を、『善悪の彼岸』の17節から、私の訳で引用しよう。

「・・・ひとつの思考(Gedanke ゲダンケ)がやって来るのは、その「思考」が欲するときであって、「私」が欲するときではない。したがって、「私」という主語は、「思考する」という述語の条件であると言うことは、事実の歪曲である。「それ」が思考するのである( Es denkt エス デンクト)」。だが、・・・結局のところ、「それが思考する」がすでに、言い過ぎである。なぜなら、この「それ(es エス)」がすでに、経過についてのひとつの解釈を含むものであり、経過そのものに属するものではないからである。」

フロイトがグロデックの「それ(es エス)」をニーチェ由来のものだと決め付けたことは有名であるが、しかし、ニーチェ自身の叙述では、「それ(es エス)」は、「私」の根底にある積極的なものではないし、「私」に代わるものでもないし、「思考」の経過に属するものでもない。要するに、ニーチェは、思考の主体としての「それ(es エス)」の存在を積極的に主張しているのではない。

ニーチェでは、「思考する」という活動があるだけである。

では、ハイデガーは、『存在と時間』の第五十七節で、「 es エス」=「それ」をどう考えたのだろうか。そして、邦訳者たちは、ハイデガーの「 es エス」=「それ」をどう解釈したのだろうか。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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