『差異と反復』第二章、第二段落、注釈6 齟齬を排除してみる

ピックアップした時間規定をもう一度示し、齟齬をできる限り排除する方向で考察してみる。

けれども、ここで留意しておかなければならないのは、以下で抽象的に論じるような時間構造が『差異と反復』第二章の主要な内容なのではないということである。時間の第一の総合においてさえ、感覚、有機体、習慣、自我が問題になっており、第二章の後半は、時間の三つの総合にそくして精神分析の諸問題、たとえば無意識、死の本能(欲動ではない)が、論じられている。ドゥルーズの時間論を分析しても、そのような豊かな内容を捨象するならドゥルーズの思想を取り逃がすことになるだろう。しかし今は、しばらく、時間を抽象的に論じていこう。


⑴「こうした〈生命の原初的感性〉の水準において、生きられる現在が、すでに時間のなかで〔dans ダン〕或る過去と或る未来を構成しているのである。」

⑵「時間の総合は、時間のなかで〔dans ダン〕現在を構成する。だからといって、現在が時間のひとつの次元であるというわけではない。存在するのはひとり現在のみである。その総合は、時間を生ける現在として〔comme コム〕構成し、過去と未来をそうした現在の〔二つの〕次元として〔comme コム〕構成するのである。」

⑶「時間の第一の総合は、根源的であるが、それでもなお時間内部的である。この総合は時間を現在として〔comme コム〕構成する、ただし過ぎ去る現在として〔comme コム〕構成する。時間はその現在の外には出ないのであって、その現在はと言うなら、いくつもの跳躍によって絶えず動くのであり、それも少しずつ重なり合う跳躍によって動くのである。そのようなことが、現在というもののパラドックスなのである。要するに、時間を構成するのではあるが、この構成された時間のなかで〔dans ダン〕過ぎ去るということである。」

⑷「習慣の受動的総合〔=時間の第一の総合〕は、現在という条件のもとで、時間を諸瞬間の縮約として〔comme コム〕構成していた・・・。」

⑸「習慣の総合たる第一の総合は、・・・時間を、或る生ける現在として〔comme コム〕構成していた。」

⑹「記憶の総合たる第二の総合は、・・・時間を、或る純粋過去として〔comme コム〕構成していた。」

⑺「・・・所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていることを、そして作品がその作者あるいは当事者=俳優に対して独立していることを、同時に或る未来が肯定するのだが、こうした未来を時間の第三の総合が構成するのである。」

⑻「・・・受動的な自我は、それ自体受動的な総合(観照‐縮約)によって、もっと深く構成される。」

考察と問題提起
さしあたり以上の訳文つまり日本語に即して考察を進める。前回の考察と多少重なるところがある。

⑵ から考察する。
⑵よれば、時間の総合は、「時間のなかで」、現在を構成する。
さらに、時間の総合は、時間を、生ける現在として構成する。
そればかりでなく時間の総合は、過去と未来を、生ける現在の次元として構成する。
→「時間の総合が時間のなかで現在を構成する」と「時間の総合が時間を生ける現在として構成する」は、同じ事態を指していると考える。
→すなわち、「時間のなかで構成された現在」と「生ける現在として構成された時間」は同じである。
→だから、時間とは、構成されたものである限りにおいて、生ける現在である。
→時間の第1の総合においては、時間=現在であり、過去と未来は、現在の次元として構成される。

⑴ に戻る。
⑴ によれば、生きられる現在(=生ける現在)が、「時間のなかで」或る過去と或る未来を構成する。
⑵ によれば、時間の総合が、過去と未来を、「生ける現在の次元として」構成する
→過去と未来は、「生きられる現在によって時間のなかで構成されるもの」であり、「時間の総合によって現在の次元として構成されるもの」である。
→したがって、「⑴生きられる現在(=生ける現在)が時間のなかで或る過去と或る未来を構成する」と「⑵時間の総合が、過去と未来を、生ける現在の次元として構成する」は、同じ事態を指していると考える。
→ところで、⑵によれば、時間=現在である。
→したがって、⑴の「時間のなかで」は⑵の「生ける現在の次元として」を意味し、要するに「時間=現在に属する」を意味すると考える。

以上の暫定的な要約 : 時間の第1の総合においては、「時間の総合」は「観照‐縮約」を意味し、この「時間の総合」によって、「時間」は「生ける現在」として構成される。つまり時間とは生ける現在であり、過去と未来は、この生ける現在に属する次元である。


さらに⑶によれば、時間の第一の総合は、時間を、現在として構成する【ここまでは⑵と同じである】。
ただし、この現在は、過ぎ去る現在である。
→現在として構成された時間は、過ぎ去る現在である。

問題は、⑶の最後の文章、すなわち「時間はその現在の外には出ないのであって、その現在はと言うなら、いくつもの跳躍によって絶えず動くのであり、・・・・そのようなことが、現在というもののパラドックスなのである。要するに、時間を構成するのではあるが、この構成された時間のなかで過ぎ去るということである。」をどう読むかにある。ここには「生ける現在」をめぐるサルトルとメルポンティの考え方の影が見えるが、今はこれには立ち入らないでおこう。また、フッサールについても言及しないでおこう。

さて、以上を私は、このように解する : 現在は時間を構成している、すなわち 現在は時間をなしている。しかもその現在は、観照‐縮約によって現在として構成された時間のなかで過ぎ去る。すなわち、現在は、現在としての時間のなかで過ぎ去る。

以上の暫定的な要約 :時間の第一の総合において、現在は、現在のなかで過ぎ去る、あるいは時間は時間のなかで過ぎ去る、それが現在というもののパラドックス、あるいは時間のパラドックスである。


ようやく、われわれは、第二章第二段落の精読に戻ることができる。
(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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