『差異と反復』第二章、第二段落、注釈3 齟齬のロジック 時間の総合の美学的意味

今後、前回の精読箇所(第二段落前半)の各文章を切り離し、さらに「時間の三つの総合」の諸段落(第二章前半部)から時間規定をピックアップして考察を進める。(なお、文庫版や旧ハードカバー版におけるピックアップした文章のページ数は示していない。また、引用文には絶えず細かい修正を加えている)

このようにして、各時間規定が齟齬しているのかどうかを見ていく。もし齟齬しているのなら、その齟齬を肯定するドゥルーズ的ロジックがあるかもしれないからだ。そうではないとすれば、われわれが齟齬と思うのはわれわれの読みが浅いからだろう。

しかし、ライプニッツがデカルトの「明晰‐判明」という認識論的規則に対抗して提唱した「明晰‐混雑」、「判明‐曖昧」という認識論的‐存在論的原理を、ドゥルーズは重要視している。これをドゥルーズはライプニッツ以上に深く解釈し、根本的な原理と考えている。明晰な観念はそれ自体からして混雑しており、判明な観念はそれ自体からして曖昧である、ということだ。

こうした「明晰‐混雑」、「判明‐曖昧」という原理が、『差異と反復』の原理でもあるとすれば、『差異と反復』のテキストから齟齬を解消するために「明晰‐判明」な理解を求める読みは、『差異と反復』が展開しているかもしれない生産的な「齟齬のロジック」を取り逃がすことになるだろう。

ところで、第二章における時間の第一の総合と第二の総合は「受動的総合」と呼ばれている。そして、第一の受動的総合(現在論)は経験的なレベルの時間の総合であり、第二の受動的総合(過去論)は先験的(超越論的)なレベルの時間の総合である。

しかし時間の第三の総合(未来論)は受動的総合ではない。ジョー・ヒューズは、三つの総合をすべて受動的総合とみなしているが、そうではない ( Joe Hughes《 Deleuze´s Difference and Repetition 》)。

『差異と反復』の「結論」から、時間の三つの総合の美学的意味に関する文章を引用しておこう。
「・・・美学的問題には、日常生活のなかへの芸術の組み込みという問題しか存在しない。われわれの日常生活が、消費物のますます加速された再生産に服従して、常同的なものにされ、規格化されているということが明らかになればなるほど、芸術は、・・・・この文明の現実的な本質をなしているもろもろの錯覚や欺瞞を美的に再生産しなければならない。どの芸術もそれぞれ、瓦状に重なり合った〔注:『悲しき熱帯』におけるレヴィ=ストロースの用語〕それなりの反復技法をそなえており、この技法の批判的かつ革命的な力能は、われわれを、陰気な〈習慣の反復〔=時間の第一の総合〕〉から深い〈記憶の反復〔=時間の第二の総合〕〉へと、さらには、われわれの自由が賭けられている最後の〈死の反復〔=時間の第三の総合〕〉へと導くために、最高の域に達することができる。われわれは、三つの例〔ベルクのオペラ『ヴォツェック』、ウォーホルのたとえば、キャンベルスープ缶やマリリン・モンローなどの「セリジェニックsérigénique(シリアル serial)」な作品のシリーズ、そしてビュトールの小説『心変わり』あるいはアラン・ロブ・グリエ脚本、アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートで』〕を、どれほど異なっていようとも、どれほど齟齬していようとも、ともかく指示するだけにしておこう。」

この文章が示唆しているように、時間の三つの総合は、芸術論、文明論、精神分析理論の性格をもっている。

ところで、『差異と反復』のアメリカ版の序文で、ドゥルーズはこう語っている。
「哲学は、科学からも芸術家からも独立してつくられることなどあるわけがない。」

たしかに、ヘルマン・ヴァイルを高く評価するドゥルーズの思索には、量子力学を思わせるイメージがある。ヘーゲルまでの近代哲学に対するドゥルーズ哲学の関係は、広い意味で、古典力学に対する量子力学の関係に似ているところがあると言えるだろう。(もちろん、これに対してはソーカルらの批判はある。)

ところが、『差異と反復』(原書)刊行からおよそ半世紀経過した現在、量子テレポーテーションの実験が成功するや、情報機器メーカーや光学機器メーカーがこれに注目し製品開発に乗り出している。そして、いずれ量子テレポーテーションは兵器に応用されるだろう。自然科学はどれほど発達しようとも、この文明つまり資本主義文明を超えることはできないということだ。「われわれの日常生活が消費物のますます加速された再生産に服従する」という資本主義文明の本質的事態に対して、自然科学は批判の役割を果たしえない。

だから私は、ドゥルーズ哲学を、現代科学との類縁性に着目して称揚するつもりはない。では、ドゥルーズが言う「この文明の現実的な本質をなしているもろもろの錯覚や欺瞞」とは何か。それは、ドゥルーズが、『差異と反復』を読むわれわれに課す問題だろう。私は逃げているわけではない。私はドゥルーズの代弁などするつもりはないし、そんなことはできるはずもない。

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前回の精読箇所から

「➂厳密に言うなら、縮約は時間の総合を成している。」

「⑥時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合〔=受動的総合〕のなかでしか構成されない。」

「⑦この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。」

「⑧このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成する。」

「⑨そして、時間は、まさにその現在のなかで広がる。」

「⑩過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。」

「⑪すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属し、未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。」

「⑫過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの生ける現在の〔二つの〕次元を意味している。」

「⑬その生ける現在は、過去から未来へ行くために、自分の外に出る必要はない。」

「⑭したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成する過去から未来へ行く・・・」


以上についての考察と問題提起。
(続く)


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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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