ラカンとデカルトにおける主体

私の根本的な哲学的テーマは「時間」と「運命」である。だから、私は哲学を中心に据えて思想研究をおこなってもいる。

だからといって、事のついでにラカンあるいは精神分析学を論じるわけではない。

ところで、ラカンは、例えば『精神分析の四基本概念』(岩波書店)の27頁で、カントの「カテゴリー」と「原因概念」に言及している。また、45~47頁、56頁ではデカルトの「我」に言及している。(たしか廣松渉の用語であったように思うが)「哲学屋」である我々からすれば、それはお馴染みの話題であり、こちらも少し上からの目線で、ラカン先生頑張ってますねと言いたくなるときがある。

とはいうものの、哲学屋にとっては、ラカンにおける「エス」や「無意識の主体」を理解しようとするとき、デカルトやカントへのラカンの言及はたいへん参考になる。他方、哲学専攻以外の人々には、このラカンの哲学への言及は、かなり難解に思われるかもしれない。

フランス人たちが書いたフロイトとラカンに関する或る事典の「エス」の項目には、カントの「超越論的統覚」が登場する。しかし、この項目の内容は「木に竹をつぐ」が感があり、一般の読者だけでなく、この分野の専門家にとっても、脈絡の取りにくい説明に終わっている。

主体というテーマは、プラトン、アリストテレス以来、西洋哲学の根本問題であって、それは、あらためて指摘する必要のないほど周知のことである、のだがしかし、どうやら現在では周知のことでもないようだ。

哲学におけるこのテーマについては、私が書いた論文と事典項目を参照していただきたい。『新岩波講座9 身体 感覚 精神』(1986年)所収「Ⅲ感覚と知覚」の「2現象学的アプローチ」117頁以下。『コンサイス20世紀思想事典』(1989年)「実体/属性」、「主観/客観」の項。

ラカンによる哲学言及を収集して、その背景から解説することは必要かもしれない。デカルト、カントのみならず、ヘーゲル、ハイデガー・・・。

やるべき仕事はどんどん増えるが、年もどんどんとる。

出版社にはとうてい引き受けてもらえないような私の仕事を、ブログという伝達手段のおかげで公表することができる。それは仕合せな(glücklich)ことだと言わねばなるまい。

偶然は必然でもある。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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