『差異と反復』第2章、第1段落、注釈11、ドゥルーズを精読してドゥルーズを理解する。

第2章、第1段落の精読

精読が容易になるように、第1段落を七つに区切る。強調するためにアンダーバーを付加する。〈 〉によって修飾関係を明確化る。訳者の判断で〔 〕を用いて原文を補足する。

① 反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。

② ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。


③ 反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔=反復〕は即自を有していないのだ。

そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔=抜き取られた差異・・・文庫版上p219〕の本質である。


⑤ ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〔チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック・・・・・〕〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例つまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。

そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかで生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかで生じるのである。


⑦ Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔=予期〕こそが、それ〔=反復〕の構成 のなかに必然的に入らざるをえない或る根源的な主観性としての反復の対自〔反復という対自〕であるのだろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。


今回のブログ記事に「ドゥルーズを精読してドゥルーズを理解する」というタイトルを付けたのだが、『差異と反復』に関するかぎり、「理解する」とは「これはどういうことなのかと自問しながら、テキストを読み返す」ということだ。だから、一つの段落を七つに区切ったり強調記号を付加したりしたのは、私自身が理解するつまり自問するためでもある。

では自問して答えは得られるのだろうか。答えは読者に委ねられていると、私は言いたい。私にできることは、読者が精読できる訳文をつくること、注釈というかたちでお節介を焼くことである。だが、どこまで注釈すればよいのか、という問題は残る。

まず、私自身、『差異と反復』を全文にわたって完全に理解しているわけではないということがある。したがって、完璧な注釈は私には不可能である。

つぎに、たとえばこの第2章第1段落の読解においても、ヒューム、ライプニッツ、ヘーゲル、ベルクソンに関する或る程度の知識が前提されている。そこで私が、この哲学者たちについて入門的な解説を注釈のなかで行えばそれは冗長になってしまうだろうし、改訳が遅れてしまう。

さらに、たとえば上記の訳文の後ろから2行目に「(反復から差異を)抜き取る」とあるが、反復から差異を抜き取るとはどのような事態なのか、ここでは説明がない。原語は《 soutirer スティレ》である。《 soutirer スティレ》を何と訳すべきか、私はかなり迷ったのだが、ドゥルーズは、第2章はもとより、序論、結論で、折に触れて《 soutirer スティレ》という語を使っている。それらをすべて読み合わせて、私は「抜き取る」と訳した。「反復から差異を抜き取る」ということが論じられている箇所はそれほど多くないので、その都度、「反復から差異を抜き取る」という事態に言及しよう。

だが、「精神」についてはどうか。この語は、『差異と反復』全体で、しかも様々な文脈のなかでおよそ50箇所出てくる。文脈ごとそのすべてを列挙すれば、小さな本ができるほどだ。

たとえば、序論で、「精神と自然の関係」という西洋哲学の古くからの大問題が扱われており、そこで「概念の阻止」という現象が論じられている。この議論は、伝統的な論理学の概念論や、フロイトの無意識概念が前提されている。しかし、論理学やフロイトに馴染んでいない読者のための説明は、注釈の域を越えてしまう。

したがって、『差異と反復』が前提している従来の哲学理論については(たとえば、ヘーゲルにおける疎外された精神の概念や対自概念については)、つまり『差異と反復』の理解に資する従来の哲学理論については、さらに従来の哲学理論と『差異と反復』との関係については、このブログとは関係のない雑誌等で論じることにして、その後、それをかみ砕いたかたちでこのブログに再録しようと思う。

以上で『差異と反復』第2章のイントロである第1段落の注釈を終えることにして、次回から、第2段落の改訳と注釈に移ろう。「時間の総合」と名付けられた、カントとフッサールとハイデガーから影響を受けているドゥルーズの論述群を解析したい。
関連記事
検索フォーム
プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

リンク
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
カテゴリ
最新記事
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

RSSリンクの表示
月別アーカイブ
FC2カウンター