『差異と反復』第2章、第1段落、注釈10、ジョージ・フリードマン『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン』

「反復の対自」を「反復という対自」と訳し変えるべきかどうか考えているうちに、記事執筆がストップしてしまい申し訳ない。原文を何度も読み返しているうちに、ハードカバー版旧訳はもとより、文庫版修正訳も、『差異と反復』の日本語訳の文章が持たざるを得ない或る不十分さに気が付いた。そこで「反復の対自」の問題はいったん脇に置き、今日は少し回り道をして『差異と反復』に戻ろう。

以前(2015年に安倍首相がアメリカ議会で演説することになったころ)、アメリカの政治的指導層の対日観を知りたいと思い、またその参考になるのではないかと考えて、ジョージ・フリードマン/メレディス・ルバードの『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン「第二次太平洋戦争」は不可避だ』(翻訳、原書ともに1991年)という突飛な題名の本を読んだ。ジョージ・フリードマンがアメリカのシンクタンクStratfor の創立者であることは言うまでもない。

本書は、80年代末における日本企業によるロックフェラー・センターの買収に象徴されるような、アメリカに対する当時の日本経済の強い影響と、その後日本が陥った経済危機という状況のなかで書かれた本である。

たしかに、著者たちの言うように、本書の論議は結論ほど荒唐無稽ではない。(少なくとも、最近辞任した防衛大臣の言動ほど、狂信的でも無責任でもない。)過去の日米戦争、戦後のアメリカの日本占領、その後の日本経済の復興などについての地政学的分析は新味はないが冷静である。

そして、第4章における著者たちの判断、すなわち、アメリカはもう気前の良い勝利者ではない、このようなアメリカに日本はもう甘えられない、にもかかわらず甘えられると思って日本がおのれの利益を追求するなら日米間の対立は高まらざるをえないという判断は、なるほど単純ではあるが、これもひとつのアメリカ的な考え方であることに変わりはない。もちろん著者たちは戦争を煽り立てているわけではない。

けれども、著者たちの一見緻密な資料分析は、国家間の経済的緊張の高まりは必ず戦争を引き起こすという前提のもとになされており、議論は結局のところ、新たな日米戦争の勃発というあらかじめ設定された結論に収斂していく。

どれほど荒唐無稽であろうと、私のような日本人がこの結論とそれを補強する議論から読み取れるのは、、現在の日米軍事同盟の目的が、シーンレーンの確保や、西太平洋のアメリカ支配への日本による手助けや、アメリカによる日本の防衛ということだけではない。日本の急速な軍事力の向上をアメリカは野放しにしないというのも、日米軍事同盟のアメリカ側のひとつの目的だろう。

風雲急を告げる東アジアの情勢は、日米の軋轢を隠しているが、ともかくこの情勢をリアルタイムで知るには、日本のメディアの貧弱で遅い情報よりも、まずアメリカのしかるべきメディアやしかるべきシンクタンクの報告を読まなければならないというのは残念なことだ。

ところで、経済人トランプの2016年の大統領選挙活動中の日本に関する発言が本書のいくつかの主張とよく似ているのには驚いた。

本書では、たとえば「・・・この(貿易均衡の)要求を出さないことには、アメリカは日本の成長政策によって永久に利用されるだけなのである。だからこそアメリカはこれを要求しなくてはならず、日本はそれに抵抗しなくてはならないのだ」(426頁)、「・・・実際、デトロイトの効率を上げるより、日本車の輸出を規制し、アメリカ車の輸入を増やすことを日本に強制するほうが易しいのだ。」(436頁)と主張されている。

トランプは、19991年刊行のこの本から影響されているのではないかと思えるほどである。いやむしろ、アメリカの経済人たちは、25年前から現在に至るまで変わることなくそのように考えてきたのではないだろうか

話を戻そう。地政学的研究の本書とドゥルーズの哲学書『差異と反復』には、どのような関係があるのか。何の関係もない。関係は、本書の訳し方と、『差異と反復』の私の訳し方にある。

フリードマンらの『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン(来るべき日本との戦争)』の「まえがき Preface」の第1段落は、「想像せよ Imagine」から始まる。その後、imagineという動詞が5回繰り返される。しかも、「想像力 imagination」という名詞が末尾に置かれてこの段落が締めくくられる。

欧米の文章をそのまま日本文に移し変えるのは不可能だとは、よく言われることだ。けれども、原文のニュアンスをできるだけ汲み取ってやろうとする努力はできるはずだし、そうするのは翻訳者の務めである。訳文を精読しようとする読者は依然として存在するのだから。

だが、本書の訳者は、imagineという動詞に、「想像する」という訳語を一貫して採用せず、なぜか途中で「予想する」という訳語を使っている。これでは、原文が言わんとすることが損なわれてしまう。

本書によれば、その学問的な研究方法(methodology)は「想像力 imagination」である。著者たちは、20年後の世界を「思い描く envision」ために、この上なく不正確な「想像力」を用いる。したがって、誤る危険性は高い。しかし、20年後の世界が現在とほとんど同じようだと予測する者は、著者たちよりもはるかに間違う危険が大きいと、著者たちは言う。(10頁)

こうして、本書は、imagineという動詞を反復している。

さて、問題は、『差異と反復』の私の翻訳にある。私は、自然な日本語の訳文を作ろうと心がけたあまり、原文における語句の反復を見逃していたし、それに気づいたときでも、その反復を訳文に反映させることができなかった。

これは、たんなる翻訳上のテクニックの問題ではなく、訳文から原文のニュアンスを読み取ることは可能かという問題である。

具体的に説明しよう。『差異と反復』第2章第1段落で、《dans l’esprit ダン レスプリ》という語句が5回反復されている。そして、第2段落では2回反復されている。しかも第1段落でも、第2段落でも、イタリック体で強調されている《dans ダン(なかで) 》がある。

《dans l’esprit ダン レスプリ》は、「精神のなかで」と訳すことができる。けれども、「精神 (esprit エスプリ)」という語がそもそも何を意味するのかについては説明がない。したがって、読者は、ここまで読んでも、自分の手持ちのイメージや理解で、「精神」を分かったつもりになるほかはない。

ところが、第3段落の末尾に原注が付いていて、そこで(原書では同じページの下部で)、《dans l’esprit ダン レスプリ》が、ベルクソンに由来する、あるいは深く関係する表現であることが示唆されている。

私は、《dans l’esprit ダン レスプリ》を、一貫して「精神のなかで」と訳すことをしなかった。そのため、ハードカバー版旧訳でも、文庫版修正訳でも、ドゥルーズが強調しているこの表現を読者が読み取ることは難しくなっている。

では、一貫して「精神のなかで」と訳すなら、この表現は際立つだろうか。日本語訳の文章は縦書きで、しかも、日本語だから漢字も仮名もくっついている。欧米語のように、単語が離されていない。よほど精読しなければ、一目で、「精神のなかで」がしつこく強調されていることを見て取ることができないだろう。

その上、この表現がベルクソン哲学に由来するとなると、ベルクソン哲学に通暁している読者でなければ、ドゥルーズが言わんとしているところを十分に押さえることは難しいだろう。

さて、どうするか・・・。とにかく、「精読」に値する訳文を作らなければならない。
(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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