『差異と反復』第二章 第一段落 注釈10

気持ちとしては一、二週間に一度はブログを書くつもりなのだが、起承転結のあるまとまったものを書こうとするので、それが実現できないでいるのだろう。だから、多少断片的なメモのようなかたちになっても、とにかく書いていこう。注釈が、かなり細部にこだわるようになってきたので、読みにくく感じている読者もいるだろうが、この調子で続けていきたい。

注釈と改訳との作業を同時に進めており、しかも2年前に大病をしたので、疲れやすくなっている。というわけで、ブログ執筆がさらにスローモーになってしまったが、いずれ、もっと整理して読みやすい論文に仕上げるつもりではいる。

他方、改訳の必要な箇所が予想以上に多くあることがわかった。これについても書いていこう。

さて、ドゥルーズの言う「対自(プルソワ pour-soi)」とは何か。『差異と反復』第4章原注14で、ドゥルーズは、ヘーゲル『精神現象学』における即自と対自の関係を参照せよと指示している。これからもわかるように、ドゥルーズの「対自」は、ヘーゲルのそれを踏まえた概念である。

しかし『差異と反復』の「はじめに」で言われているように、「一般化した反ヘーゲル主義」という時代の雰囲気のなかで哲学するドゥルーズであってみれば、ヘーゲルの考えをそのまま踏襲しているはずはないだろう。

ドゥルーズは、ヘーゲル『精神現象学』における即自と対自の関係を参照するために『精神現象学』のどの箇所を読めばいいのかは明示していないが、周知のように(とはいっても、もはや周知のことではなくなったが)その「序論」ですでに即自と対自の関係が論じられている。

長くなり面倒なので引用はしないが、例えば中央公論社『世界の名著 ヘーゲル』「精神現象学序論」の104頁を読んでいただきたい。ここは、『精神現象学』に対立する『差異と反復』の立場をわれわれによくわからせてくれる箇所だ。(これについても論じるべきなのだが、寄り道していると注釈が先に進めなくなってしまうので、それについてはいつか書くことにしよう。)

だから、ドゥルーズにおける「反復の対自」の「対自」を、ヘーゲルのそれに還元するのではなく、『差異と反復』そのもの記述から考えてみよう。

「対自」という語は、『差異と反復』の序論、第1章、第2章に、数え方にもよるが8か所出てくる。しかも「対自」の概念が漸進的に掘り下げられて論じられるのではなく、一見バラバラに言及されている。

そこでまず、『差異と反復』(文庫版)の53頁を見てみよう。
(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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