『差異と反復』第二章 第一段落 注釈9

『差異と反復』第二章全体のイントロをなす第1段落を四つのセクションに分ける。(絶えず以前の訳文を推敲しているので、以下の訳文はその推敲の結果である。)

① 反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。

② ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔抜き取られた差異・・・文庫上p219より〕の本質である。

③ ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例からつまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。

④ Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔?〕こそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての〈反復の対自〉なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。

セクション①は、もちろん、この第一段落全体のイントロである。

セクション①の冒頭の文章「反復は、・・・その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」は、セクション②で、「そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」と反復される。

そのセクション②の文章「そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」は、セクション③で「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。」と反復される。

観照する精神のなかに生じる「変化」とは、「差異」、「何か新しいもの」と言い換えられている。

そのセクション③の文章「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる」は、セクション④で引き継がれる。「・・・反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化」。すなわち「反復はその反復を観照する精神のなかに差異つまり変化を導き入れる」ということである。

要するに、「何かを変化させる」とは、「変化が生じる」ということであり、「差異つまり変化を導き入れる」ということである。

では「生じる変化、差異、何か新しいもの」とは何か。セクション③の末尾からセクション④の冒頭を続けて読もう。

「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。」

持続する精神がこれまで〈AB、AB、AB、〉を観照していた。そしてAが現れると、いまや「私」は、Bの出現を予期する。すなわち〈AB、AB、AB、A〉の観照の直後に「私」なるものが〈B〉の出現を予期するのである。

以上の文脈からすれば、「観照する精神のなかに生じる変化、差異、何か新しいもの」は、「私はBの出現を予期する」あるいは「私は予期する」を指すと読める。

反復を観照する精神のなかに生じる差異(何か新しいもの)は、「私は(Bの出現を)予期する」である。

もう一度ドゥルーズの文章を読もう。

「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔原語は何でも受けられる代名詞 ce ス〕こそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての〈反復の対自〉なのであろうか。」

では、「それ〔原語は何でも受けられる代名詞 ce ス〕は、何を受けているのだろうか。やはり以上の文脈からすれば、「それ」は、「私は(Bの出現を)予期する」という主観性である。「私は(Bの出現を)予期する」という主観性は、差異(何か新しいもの)である。

さらに、「私は(Bの出現を)予期する」という主観性は、「反復の対自」であるとされる。

では「反復の対自」とは何を意味するのか。そもそも、ドゥルーズの言う「対自 pour-soi プール・ソワ」とは何を意味するのか。これについては、『差異と反復』の序論「反復と差異」で論じられている。
(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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