『差異と反復』第二章 第一段落 注釈8

第二章第一段落の解析と問題提起2

「反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神にのなかでは何かを変化させる」というヒュームの主張は、すでにドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社版)のp92で言及されている。ヒュームそのものでは『人性論(一)』(岩波文庫)のp212や、p255前後の叙述の内容にほぼ合致する。

ほぼ合致するのであって、ヒューム自身の論旨に忠実に沿って取り上げられているのではない。むしろ、このヒュームの主張なるものは、ドゥルーズ自身の議論の進行のなかでは、ベルクソンの『時間と自由(意識の直接的所与についての試論)』や『意識と生命』、そしてフッサールの『内的時間意識の現象学』に流れ込んでいく。

しかし、この問題について論じるのは、ブログの記事の限界を超えてしまうし、『差異と反復』改訳のための時間を奪ってしまうので、別の機会を得て論じるほかはない。

ちなみに、「観照する」の原語は、「コンタンプレ contempler」という仏語であるが、ヒューム自身の英語では「contemplate」に相当するだろう。これは、『人性論(一)』では「熟視」と訳されている。とりわけp260を参照されたい。ヒュームでは「観察する observe」と同義で使われることが多い。

けれども私は、ドゥルーズの「コンタンプレ contempler」に、受動的な視の意味を含ませようとして「観照する」と訳した。

さて、この第一段落には、「われわれ」、「ひと」、「私」という人称代名詞が使われている。

「ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく」

「反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか」

ひとはまだ反復を語ることはできない」

「Aが現れると、いまやは、Bの出現を予期する」

ここでは、「われわれ」はドゥルーズ自身と読者を指しているだろう。

「ひと」の原語は「オン on」である。この「オン on」は、文法からすれば、「われわれ」とも、「君たち」とも、「人々」とも訳せるし、文章全体を受動態にして訳して、能動態の主語を明示しないこともできる。

だが私(財津)は、「オン on」を「ひと」と訳した。この「ひと」が誰なのかを考えよう。そして、なぜ「私」が登場するのかをも。


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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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