『差異と反復』第二章 第一段落 注釈7

最近、初めてスマホでこのブログの画面を見たところ、パソコン(windows)で作った画面がそのまま再現されず、やや崩れていることがわかった。

訳文の各行に番号を付し、注釈の際どの文章を問題にしているのかをすぐに見て取れるようにするつもりだったのだが、スマホの画面ではその番号付けがほとんど無意味になってしまっている。

他方、一応3年後を目指して『差異と反復』全体の改訳をすすめているのだが、版権の問題があり、またその他に思うところもあって、今後はこのブログで改訳の訳文は公表しないことにした。もちろん、抜けや訳語・訳文の不適切な箇所はそのつど指摘する。

ただし、何度も言うが、第二章の第一段落は第二章全体の序論に相当すると思われるので、ここだけは公表しておいたほうがよいだろう。そう思って、あらためて第一段落を原文と訳文で精読してみたら、やはり不満足なところが出てきたので、再度手を入れた訳文を発表することにする。

今後、文庫版あるいはオンライン版の『差異と反復』を参照できるようにしていただくと、第2段落からの注釈において訳文のどの箇所を問題にしているのかがわかりやすくなるだろう。


第二章第一段落改訳【文庫上p197~198】

【原書p96】

反復〔注1〕 : 何かが変化させられる

反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神にのなかでは何かを変化させる〔注2〕。ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性という決まりごとは、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔注3〕の本質である。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例からつまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。そのかわり、ひとつの変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての、反復の対自なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。

〔注1〕「反復する」という訳語は、おもに自動詞として使う
〔注2〕訳文の修飾関係があいまいにならない限りで直訳を心がけるが、文脈から以下のように意訳してもよいだろう:反復する対象のなかでは、反復によって何の変化も生じないが、その反復を観照する精神のなかでは、反復によって何らかの変化が生じる。
〔注3〕変容の原語は、modification〔モディフィカシオン〕。文庫版上p219および訳注(9)参照。


第二章第一段落の解析と問題提起

まず、「反復する対象」と「反復を観照する精神」が区別される。

反復する対象とは、「反復する事例」と「反復する要素」である。

「反復する事例」とは、〈AB,AB,AB,A...〉という「開いた型の反復」における〈AB〉というシークエンスである。具体例では、〈チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック...〉における〈チック・タック〉である。〈AB〉つまり〈チック・タック〉は、「物の状態」である。

このような物質的反復には、「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」という不連続性と瞬間性がある。これは、「物質の状態」である。

ちなみに、「反復する要素」とは、たとえば〈A、A、A、A〉あるいは〈チック、チック、チック、チック〉という「閉じた型の反復」における〈A〉つまり〈チック〉である。

したがって、「反復する対象」と「反復を観照する精神」の区別は、「物質界」と「精神界」の区別だと言ってよいだろう。「物質界」と「精神界」が区別されているのだ。だが、ここでは物質も或る種の精神である。

物の状態、物質の状態は、現代物理学における物理現象を意味しているわけではない。ここで言われている物、物質は、ライプニッツにおける瞬間的精神とされていることからわかるように、形而上学的な意味での物質である。というより、むしろ、ベルクソンが問題にしているライプニッツの瞬間的精神であろう。

「・・・すべての物体は瞬間的精神又は想起を欠く精神であり、・・・従って物体は記憶を欠く。・・・」ライプニッツ『抽象的運動論』、『人類の知的遺産38、ライプニッツ』p274

「ライプニッツが物質とは「瞬間的精神」であると言ったときには、かれが欲した否かにかかわらず、物質は無感覚だということを宣言しているのではないでしょうか。そこで、意識〔精神〕は記憶であります。」ベルクソン『意識と生命』、『ベルクソン全集5、精神のエネルギー』p16

【続く】
追伸:斜体にすべき文字が斜体にならない。いつか修正する。

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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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