『差異と反復』第二章 第一段落 注釈6 「『差異と反復』の解析と再構成の試み」

4月からの担当授業は大学院での1コマだけになり、来年は定年を迎える。非常勤講師になって以来、初めて執筆に専念できる身の上になる。そう思うと、やりたい様々なことが頭のなかで渦を巻き、長期間ブログの執筆を中断してしまった。

改めてドゥルーズ哲学への取り組み方を考えていたが、同時に、ドゥルーズ哲学にこだわらずに、「精神、身体、生 そして死」について自分自身の考えを反芻していた。反芻といってもウツ状態になっていたわけではない。

最近ラカンの『《盗まれた手紙》についてのセミナー』の新たな訳が発表されたが、我々には我々なりの解釈があるので、我々の訳と注釈(全体の3分の1程度)は、今年の冬か来年の春に、法政大学の公式の雑誌に公表したいと思う。その上で、我々の訳と注釈をこのブログでさらに詳しく検討するつもりでいる。

戦前の「国民道徳要領」の分析も中断している。最近教育現場に強制されようとしている浅薄な道徳教育からすれば、すなわち戦前の道徳教育の問題点を学んでいない道徳教育からすれば、この「国民道徳要領」の批判的吟味はますます緊急かつ重要になっている。

だが、『差異と反復』全体をおよそ三年かけて改訳すると一応出版社に約束したので、これを最優先の仕事にしなければならない。

これが終われば、論文形式ではないかたちで、自由に自分自身の考えを発表していきたいと思っている。

他方、法政哲学会の雑誌「法政哲学13号」に、「『差異と反復』の解析と再構成の試み1」を投稿した。今後、『差異と反復』を改訳するだけでなく、コラージュもしくは離散多様体としての『差異と反復』を言わば暴力的に解析して、『差異と反復』内部の連続する諸要素を連関させる予定である。

そればかりでなく、『差異と反復』の諸要素と、『差異と反復』に至るまでのドゥルーズの諸著作の諸要素にラインを引こうと考えている。ドゥルーズは、『差異と反復』のアメリカ版の序文(『狂人の二つの体制1983-1995』所収)でこう語っているからである。

「・・・・私を襲い熱狂させたヒューム、スピノザ、ニーチェ、プルーストを研究したあと、私は「哲学すること」を試みたのだが、その最初の著作こそ、『差異と反復』であった。その後の私の仕事はすべて、この書物に繋がっていた。ガタリとの共著でさえそうである・・・」

とりあえず、『差異と反復』とそれ以前のドゥルーズ諸著作を比較検討していこう。

たしかに、ソーカルらが言うことに頷けるところがないわけではない。
「・・・これらのテクスト(ドゥルーズとガタリの諸著作)には実に様々な科学のテーマが登場する。ゲーデルの定理、超限基数の理論、リーマン幾何学、量子力学などなど。しかし、これらの取り扱いはあまりにも短く表面的なので、すでにそのテーマに精通しているのでもない限り、読者は何一つきちんとしたことを学びえない・・・」

これは、『差異と反復』における過去の哲学作品からの引用にも言えそうなことである。この批判的な言葉を無視しないでドゥルーズを読んでいきたい。

能書きばかりを並べていないで、具体的に論ぜよという声が聞こえてきそうなので、今日は、問題生産機械としての『差異と反復』第二章第一段落に関していくつか問題を提起するだけにしよう。

さて、この第一段落の冒頭の文章、「反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神においては何かを変化させる。」は、ヒューム『人性論』における叙述のパラフレーズである。ドゥルーズの処女作にあたる『経験論と主体性』(一九五三)もヒューム論であり、そこにはすでにこの冒頭の文章とほぼ同じ叙述がある。

ところで、『経験論と主体性』刊行の直後、一九五五年に、若きドゥルーズは、彼自身が編纂した思想文献資料集を『本能と制度』という題名で出版している。そしてこの資料集は、マルクス『経済学・哲学草稿』からの抜粋で締めくくられている。

ドゥルーズが用いた『経済学・哲学草稿』のテクストは、一九五三年にフランスで初めて出版された仏訳のテクストである。ドゥルーズが抜粋した仏訳の箇所は、一九三二年に刊行されたいわゆるアドラツキー版のドイツ語テクストに合致している。それは、岩波文庫版『経済学・哲学草稿』p133で邦訳されている。

その頁の「享受」およびそこに付された訳注(11)を参照されたい。岩波文庫版の訳者は、この「享受」は、アドラツキー版では「精神 (Geist)」となっていたが、その後に出版されたいわゆるディーツ版では「享受(Genuss)」となっており、内容からしても「享受」の方が適合していると述べている。私は、ここに何らかのイデオロギー上の配慮が働いているのかどうかは知らないが、「精神」で何ら問題はないと思う。ともかくドゥルーズは、「精神(esprit)」を含む箇所を抜粋した。抜粋箇所は長くなるので、詳しい検討は次回に回そう。

ドゥルーズは、当然、『経済学・哲学草稿』をすべて読んでいるだろうから、「唯物論と科学を基礎づけた」というフォイエルバッハへのマルクスの賛辞やヘーゲル批判を知らないはずはない。言うまでもなく、この時期のマルクスはフォイエルバッハの強い影響のもとにあった。

またヒュームを唯物論の立場から不可知論者として手厳しく批判するレーニンの『唯物論と経験批判論』も知らないはずはないだろう。その仏訳はすでに、一九二八年に出版されているのだから。

ところが、『差異と反復』第二章のヒュームから始まる第一段落で提示されている物質の例は、現代物理学が問題にする何らかの物質ではなく、ライプニッツの瞬間的精神(メンス・モメンタネア mens momentanea )という或る種の形而上学精神である。このライプニッツの物質概念は「序論」ですでに言及されており、しかもヘーゲルのいわゆる『自然哲学』における「疎外された概念」、「疎外された精神」としての自然に関連づけられている。しかも、「結論」で再び「疎外された概念」が物質の定義として現れる。

マルクスもレーニンも読んでいたはずのドゥルーズは、何故ヒュームから哲学研究を開始し、精神という概念を強調するのだろうか(実際『差異と反復』では、レーニンへの言及がある)。

だから、当然。ドゥルーズにおける「物質」と「精神」は問題をはらむ言葉である。

だから、ドゥルーズは「物質」や「精神」をどう考えていたのだろうかという問いの立て方ではなく、ドゥルーズは「物質」や「精神」という言葉で、どのようなことを考えていたのだろうかと問う方がよい。

今後は、できるだけ1週あるいは2週に1回のペースでブログを書いていくつもりだ。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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