『差異と反復』第二章 第一段落 注釈5

第二章 それ自身へ向かう反復 

【原書p96】
反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】
1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神におい
2 ては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心につれ
3 てゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているというこ
4 とを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、〈瞬間的精神〔メンス・モ
7 メンタネア mens momentanea 〕としての物質〉の状態である。しかし、反復はできあ
8 がるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、「三番目のもの」、
9 また「それは同じものだ」と言えようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。その
10 かわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。その
11 ようなことが、〈変容〉の本質なのである。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
12 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観
13 的なシークエンス〈AB〉は、他の 事例つまりシークエンスから独立している。反復は、(た
14 だし正確には、ここではまだ反復を語ることはできないのだが)、対象においては、あるい
15 は〈AB〉という〈物の状態〉に おいては、何も変化させない。そのかわり、観照する精
16 神のなかに、〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新し
17 いものが、精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予
18 期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるを
19 えない〕或る根源的な主観性としての、反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドッ
20 クスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかに
21 その反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から〈抜き
22 取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ。

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注釈5

4行目の「権利上」の原語は、《en droit アン ドロワ》である。ドゥルーズはこの言い回しを頻繁に使う。なお、以下の注釈を読むにあたっては語学の知識は必要ないが、フランス語、ドイツ語、ラテン語の単語が出てくるので、多少の辛抱はしていただきたい。

こんなことを言うと、「読者をばかにするな」という声が飛んできそうだが、日本の学会では、原書,原語は素通りして翻訳本だけ読み、訳語だけでドゥルーズ研究を発表する研究者もいるのだから、あえてお節介な言動をしたくなるわけである。

ともかく、このドゥルーズの《en droit アン ドロワ》つまり「権利上」という言い回しは、カントの『純粋理性批判』のなかのラテン語《quid juris クイド ユーリス》に由来している(『差異と反復』ハードカバー版p34、p267、文庫版 上p46、下p26。)。このラテン語は、カントでは「権利問題」と訳されるのがふつうである。《quid クイド》が「問題」、《juris ユーリス》 が「権利」。西田幾多郎も「権利問題」という訳語を用いている。

というわけで、私は、カントに由来する《en droit アン ドロワ》を「権利上」と訳した。しかし、今では、「権利=法からして」と訳すのが、いっそう適切であるようにも思われる。が、これでは、くどい訳語になって読みにくいことも確かだ。また、以下で説明するように、『差異と反復』第二章では、そこまでこだわらなくてもよいかもしれない。

ところで、フランス語《droit ドロワ》は、その意味に関しては、ラテン語の《jus ユース、juris ユーリス》に、ドイツ語の《Recht レヒト》に相当するのだが。このフランス語も、ラテン語も、ドイツ語も、「法」と「権利」を意味している。

事実、《en droit アン ドロワ》を仏和辞典で引くと、たいてい「法的に」、「法律上」という意味が出てくる。では、「法」と「権利」では、どちらが基本になるのだろうか。私は、「法」が基本的な意味だと思っている。なぜなら「権利」とは、「法にもとづいて、利益を要求したり享受したりすることのできる資格」をいうのだから。

ともかく、「権利」の根底には、「法」の意味が響いている。

ではカントの「権利問題」とは何か。『純粋理性批判』におけるカントの説明を、岩波文庫上p162から引用しよう。ただし、一部、私の観点から訳文を修正する。

「法学者は、権限と越権を論じるとき、一個の法的な争い〔Rechtshandel レヒツハンデル 訴訟〕において次の二つの問いを区別する。すなわち、何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるかという問い(quid juris クイド ユーリス 権利問題)と、事実に関する問い(quid facti クイド ファクティ 事実問題)とをである。・・・・・たとえば幸福とか運命といった濫用されている概念もあり、なるほどこれらの概念は、ほとんど皆から大目に見られて広く使用されているが、それでもなお、時には、《quid juris クイド ユーリス 何が合法的か 》という問いにさいなまれるのである。」

少し細かい点に触れておくが、カントの用いるラテン語《quid juris クイド ユーリス〔何が合法的か〕》の《juris ユーリス》は、《 jus ユース、法》の属格であり、カントのドイツ語《何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるか》の《Rechtens レヒテンス》は、《Recht レヒト 法》の古いかたちの属格(2格)である。だからカントのドイツ語は、ラテン語の直訳とみなすことができる。したがってまた、従来「何が権利〔Rechtens レヒテンス〕であるか」と訳されてきたところは、「何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるか」と訳すべきであろう。

結局、私が言いたいのは、ここでカントが用いている《《Recht レヒト》の意味は「権利」というより「法」に近い。だから、従来「権利問題」と訳されてきた《quid juris クイド ユーリス》は、「合法性の問題」と訳すべきだろうということだ。

したがって、ドゥルーズの用いる《en droit アン ドロワ》は、「法からして」と訳すべきかもしれない。事実、『差異と反復』の独訳では、《von Rechts wegen フォン レヒツ ヴェーゲン》すなわち「法に従って」と訳されている。

他方、英訳では、《in principle 原理的には》と訳されていて、権利と法の曖昧さは投げ捨てられている。これはこれでまた根拠のある訳し方であるが、法と権利のグレーゾーンを残した訳の方が生産的な読みにつながると思ったりもする。

しかし、ドゥルーズ自身、《en droit アン ドロワ》を言い換えている。ハードカバー版p121下段、文庫版p201。
「どの一打も、どの振動あるいは刺激も、〈論理的には〉他のものから独立しており、瞬間的精神である。」この「論理的には logiquement ロジックマン」を、「権利上 en droit アン ドロワ 」の言い換えとみなすことができる。

では、「権利上」の代わりに、「法に従って」、「原理的には」、「理論的には」といいかえれば、ひとつの瞬間的物理現象は後続する物理現象に影響を及ぼさないという、ドゥルーズの主張を受け入れることができるのだろうか。この主張には、どのような権利、法、原理、論理が前提されているのだろうか。

物質あるいは物理現象は、「瞬間的精神」だと言われている。これは、もちろんライプニッツの言葉である。では、ドゥルーズは、物質をどう考えているのだろうか。
                                     (続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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