『差異と反復』第二章 第一段落 注釈2

注釈2

もちろん注釈には様々なリスクがある。特に『差異と反復』の文言の出典を明らかにする作業には独特の怖さがある。

たとえば、10行目で、ヒュームは〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの事例の反復をとりあげていると、ドゥルーズは言う。ドゥルーズは、第二章の原注1で、『人性論』の参照箇所を挙げているが、少なくともそこにその例はない。『人性論』すべてを読んでも、見当たらない。

しかしそれは私の見落としで、他の箇所あるいはヒュームの他の著作にあるのかもしれない。出典に関して注釈をしようとすると、間違いに陥る危険がつねにある。

だが、他方、出典を明確に指摘できたところで、ドゥルーズ自身の考え方つまり理論が把握できなければ意味がない。

ドゥルーズの方法論をもう一度引用しよう。「哲学史とは、哲学そのものの再生=再生産である。哲学史における報告は、正真正銘の分身=複製として振舞わなければならないだろうし、その分身=複製に固有の最高度の変容を包含しなければならないだろう。」

そしてドゥルーズは、これにこう続けている。「口髭をはやしたモナ・リザ〔マルセル・デュシャンのあまりにも有名な作品〕と同じ意味で、哲学的に髭をはやしたヘーゲル、哲学的に髭をそったマルクスを想像してみよう。」これを真に受けないドゥルーズ研究者は多い。

『差異と反復』に登場する哲学者たちは、実在した哲学者たち、あるいは従来の哲学史で扱われた哲学者たちの分身=複製、それもドゥルーズが創作した分身=複製ではないだろうか。たとえばヒュームが、そうなのだろう。

『差異と反復』は、「変容した分身=複製によって哲学を再生し再生産する作業=作品」であると言ってよいだろう。ここにまた、注釈のリスクがある。注釈が、『差異と反復』において過去の哲学がどのように変容させられたのかを厳密に明らかにしようとするなら、それは無理な話で、また、あまり意味がない注釈になるだろう。

だから私は、このブログの注釈において、『差異と反復』のコラージュ的な行論に素朴に問いかけ、その問いによって思索を展開しようと思う。私の問いと思索が、読者自身の思索に資するところがあれば幸いである。

今回は、能書きばかりで申し訳ない。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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