『差異と反復』読解再開1

はじめに

『差異と反復』第二章の読解を再開する。段落ごとに改訳し、精読に耐える訳文をつくるよう務める。とはいうものの、文体は文庫版の訳文をできるだけ生かすようにする。

『差異と反復』の拙訳は、すでに2万部以上発行されている。多くの図書館も購入しているだろうが、およそ2万人以上の個人の読者が購入されたはずだ。その方々は、おそらく、ドゥルーズについて書かれた「ドゥルーズ本」からではなく、『差異と反復』そのもので、ドゥルーズの思想を理解したいと思われているのではないだろうか。そのためにも、重ねて言うが、私には、精読に耐える訳文をつくる義務があるだろう。

このブログでは、一行ごとに番号を付し、注釈でどの語句が問題にされているのかが、すぐ把握できるようにした。それぞれの行をなるべく文庫版の行に合わせるようにしたが、訳文の変更や、文庫版における抜けの箇所の修正のため、、多少のズレが生じるはずである。

注釈は、文庫版にあるような無味乾燥なものではなく、エセーのようなかたちで叙述することにした。

『差異と反復』の第二章から始めるが、第二章が済めば、序論に戻って、すべての章を順に改訳しながら、注釈していく予定である。

『差異と反復』における「精神分析」論と、「数学」論は、世界的にも未開拓な分野である。私は、精神分析の専門家でも数学の専門家でもないが、ドゥルーズの「精神分析」論と「数学」論の検討に着手するつもりである。

いま、昨年「日本ラカン協会」で口頭で発表したものに手を加えて論文を制作しているところである。その目的は、処女作『経験論と主体性』から『アンチ・オイディプス』までを通覧して「欲望(désir)」の言葉遣いを分析し、ドゥルーズの欲望概念を明確化することである。これが、ドゥルーズの「精神分析」論の検討につながるはずである。

問題は、ドゥルーズの「数学」論である。私は、『差異と反復』第4章で、畏友荻原真氏の協力を得て、数学に関する訳注を付しておいたが、その後、翻訳の仕事に追われたこともあって、ドゥルーズの「数学」論に立ち入る気力がなかなか出てこなかった。

ところで、ドゥルーズの前期著作の『ベルクソンの哲学』(その重要性はどれほど強調しても強調しすぎることはない、だからこそ、徹底的な改訳が望まれる)で、フロイトの無意識とベルクソンの無意識が比較検討されている。そこでは、ベルクソンの持続概念に関して、リーマンの多様体概念が引き合いに出されている。

ドゥルーズは原注で、リーマンの著作のほか、ヘルマン・ワイル(ヴァイル)の『空間・時間・物質』の仏訳を参照するよう指示している。その邦訳は、ドイツ語原書第五版にもとづいて、1973年に出版されており、現在は文庫本で再刊されている。

ところが、その『空間・時間・物質』冒頭の「第五版に対する序」が、次のような文章で締めくくられている。「本書の第4版の仏訳と英訳が出ている。しかしながら仏訳は“自由な”訳なので私は部分的にはそれの内容に関してあらゆる責任を拒絶せざるを得ない。」これには、参った。

ドゥルーズの多様体論は、ヴァイルが責任を拒絶した仏訳に依拠しているのだろうか。ヴァイルが責任をもてないと言う仏訳はまだ私の手もとに届かないが、それがドゥルーズの多様体理解に影響を及ぼしているのかどうかを、いずれ、ドイツ語原文と仏訳とを比較検討することによって、このブログで報告できるだろう。もちろん、たとえ仏訳が不適切な翻訳であったとしても、ドゥルーズの着想に意味があれば、それでいいわけだが。

たしかに、ドゥルーズの「数学」論を扱うのは、私には勝った仕事であるが、『差異と反復』はそのすべてが数学的な観念のなかに浸っており、わたしのような数学の素人が、たとえばリーマンやカントルに関するドゥルーズの議論の注釈を行うのは、必ずしも無駄な努力ではないと自分に言い聞かせている。

ドゥルーズの「数学」論に取り組む必要性を、あらためて感じさせてくれたのは、例のソーカル事件によってである。いや、ソーカル事件そのものというより、ソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』と題された翻訳本によってである。不愉快な翻訳本であったので、ほったらかしにしておいたが、『差異と反復』の読解を再開するにあたって読み返し、やはりソーカルらのドゥルーズ批判に何らかの対応をすべきだと考えた。

ソーカルらのドゥルーズ批判の要点は、彼らの次のような文章によく現れている。「これらの〔ドゥルーズの〕テクストのなかには、ひとにぎりの判読可能な文章がある。陳腐なものもあれば、間違っているものもある。・・・・・要は、すでに150年以上も前に完全に解決された数学の問題について、人を煙にまくような議論を展開する意味がどこにあるのかということだ。」

しかし、ソーカルたちよ、また翻訳者の方々よ、もう少しフェアな態勢をとってもよいのではないか。ドゥルーズは、『差異と反復』のなかで、以上のような批判にすでに答えている。そして彼らは、その答えになる部分をそっくり削除して、引用を行っているのである。『「知」の欺瞞』p217の引用の8行目である。

そこで削除されたドゥルーズの文章は、こうである。「したがって、野蛮だとか、学問以前的だとか言われる、微分法の昔の解釈のなかには、或る宝が存在するのであって、これを無限小という不要鉱物から取り出さなければならないのである。・・・それら三人(マイモン、ロンスキ、ボルダス=ドゥムーラン)には多大なる哲学的な富があり、これは現代の学問上のテクニックの犠牲にされてはならない。・・・・・」(『差異と反復』、ハードカバー版p263、文庫版下p18)

ドゥルーズは、微分法に関して、たんなる数学的問題に取り組んでいるのではない。『差異と反復』は哲学書であることを、ソーカルらは十分に理解していないようだ。いや、理解しているからこそ、このドゥルーズの叙述を削除して引用したのだろう。

ソーカルらのドゥルーズに対する無理解ぶりは、以下の文章にもよく現れている。「もちろんドゥルーズが、好むなら、これらの言葉を二つ以上の意味で使うのは歓迎だが、そうしたいならば二つの(あるいはより多くの)意味をきちんと区別し、それらの用法の関係を明確に説明する議論を示す必要がある。」(同書、p222)

ここまでくると、申し訳ないが愚者たちよと言いたくなる。ドゥルーズは、言葉を一種のポリフォニー的に使用して哲学的議論をしている場合が多いことを、ソーカルらは知らないようだ。彼らは、『差異と反復』のうち、自分らでもこなせそうなところだけを読んで速断し、ドゥルーズ批判をしているが、そんなことをしてもしょうがないだろうに。ドゥルーズ批判をしたいのなら、ドゥルーズは、ポリフォニー的な言葉遣いによって思考を解放しようとしていることぐらい知っておくべきだ。ドゥルーズは、既存の知を教える教科書を書いているのではないぐらいのことを。

ソーカルらは、哲学に理解を示すかのような発言をしているが、結局は哲学嫌いなのだろう。ところで、ドゥルーズが参照しているヘルマン・ヴァイルは、『連続体 (Das Kontinuum)』という本を書いている。邦訳は2016年2月に出た。そこには、直観主義を批判する次のような文章がある。

「その直観で与えられたような連続体は数学的な学問分野の基礎にはなりえない。・・・・・この数学的な概念世界の、直截的に経験された現象学的時間( la durée )の連続性に対する、深刻な異質性を、強調して示唆したことは、ベルクソンの哲学の貢献である。〔数学な概念世界と、直截的に経験された現象学的時間(持続)の連続性とは、異質であるということを、ベルクソンは示唆したということ。―――財津の補い〕(例えば概念が論理的な存在と成るようには)意識によって与えられたものが単純に存在とはならず、常に持続して変貌をとげ続ける現在―――主体がこれが現在だと言えるという意味で―――は既に現在ではない、というのは何によるのか?」(邦訳p88~89)

数学者ヴァイルは、おのれのあるべき立場を追求して、哲学と対話しているのである。根本的なところで新たな視界を開こうとするとき人は哲学する、ということのよい例である。

先ほど私は、ソーカルたちばかりでなく、その翻訳者たちにも苦言を呈した。なぜかと言うと、『「知」の欺瞞』の訳注で、彼らは、『差異と反復』の拙訳の不備を指摘して、私が数学に無知であるかのような印象付けを行っているからである。

まず、邦訳『「知」の欺瞞』p206の原注(197)で、ソーカルらは、カントルの「超限基数」に関するドゥルーズの(くだらない?)議論の例として、ドゥルーズの『哲学とは何か』の箇所を出している。このソーカルらの書のフランス語版と英語版もまだ私の手もとに届いていないので、原書でどうなっているのかわからないが、その原注では、『哲学とは何か』の英訳の頁数が示されており、おそらく訳者らの手によって私の拙訳ハードカバー版(1997年)の頁数も指示されている。

邦訳『「知」の欺瞞』は日本向けの本であろう。日本のドゥルーズ研究者はドゥルーズをフランス語原書で読んでいる、英訳などには頼っていない。だから、ドゥルーズの著書の英訳の頁数をそのまま記しても意味がない。なぜ、訳者らは、ドゥルーズのフランス語原書の頁数を出さなかったのだろうか。これは、私にとって、後述するようにささいな問題ではない。

以下いささか細かい議論になるが、邦訳『「知」の欺瞞』p206の原注(197)で指摘されたドゥルーズの『哲学とは何か』におけるカントル論の箇所で、私はフランス語《 puissance 》をピュイサンスというルビをふって「濃度」と訳した。当たり前の訳し方である。また《 puissance du continu 》を「連続体の濃度」と訳しておいた。(ハードカバー版p171、 文庫版p204)『「知」の欺瞞』の訳者らは、拙訳の頁数を挙げているのだから、当然拙訳のこの部分を読んでいるはずだ。

他方、すでに『差異と反復』でも《 puissance du continu 》というフランス語が使われており、ここではそれを私は「連続体の力=累乗」と訳した。つまり、《 puissance 》を数学用語「濃度」ではなく「力=累乗」というドゥルーズ用語として訳した。(ハードカバー版p85、 文庫版p138)

ドゥルーズは、ほかに、《 puissance du 》という表現を様々に使用している。たとえば、《puissance du faux》、《puissance du fantasme》など、前者は「〈偽〉の力」、後者は「幻想の力」と訳した。 私は、『差異と反復』では、ドゥルーズのポリフォニー的な言葉遣いと、訳語の統一との兼ね合いに苦しんだ。「連続体の力=累乗」には、当然、訳注を付け、数学的観点からは「連続体の濃度」と訳すべきであることを示すはずであった。

しかし、『差異と反復』の翻訳が完成に近づいた頃、出版社から訳注が多すぎるのではないか、特に数学に付した訳注は過大ではないかとの指摘を受け、私は数学に関する訳注を大幅にカットしてしまった。その作業で、たしかに混乱はあった。

さて、邦訳『「知」の欺瞞』p216で、『差異と反復』の上記の「連続体の力=累乗」が引用されており、それに原注(210)が付され、その原注のなかで書かれた訳注に、次のような文章がある。
「文中で「連続体の力=累乗」と訳されているpuissance du continuum の数学用語としての訳は「連続の濃度」である。英語のpowerと同様に、フランス語のpuissance は日常的な意味での「力」などのほかに、数学では「べき乗(累乗)」の意味と集合論での「濃度」の双方の 意味で用いられる。」

教えてくれるものだ。しかし、指摘しておかなければならないことがある。まず、『差異と反復』原文では、《puissance du continuum》ではなく、《puissance du continu》というフランス語が使われている。人にイチャモンをつけたいのなら、引用ぐらい正確にしておくべきだろう。またドゥルーズは、《 puissance 》という語を、日常的な意味での「力」で使っているのではなく、その語の根底に、ニーチェの「力の意志(権力への意志)」における「力 Macht=puissance」の意味を、もちろんドゥルーズによる解釈のニーチェ的「力」の意味を響かせている。

『哲学とは何か』で私が「濃度」という訳語を使用しているのを彼らは知りながら、あたかも、私が数学に無知であるかのように見せかける彼らのやり方には、いかなる意図があるのだろうか。

《puissance 》に数学的「濃度」の意味があることぐらい、仏和辞典や、数学辞典を引けば、だれでもわかることだ。

さらに不愉快なやり方は、邦訳『「知」の欺瞞』p220の原注(211)のなかで書かれた訳注である。たしかに、私は、「依存してはならない」と訳すべきところを、「依存してはいない」という訳文を作ってしまった。(『差異と反復』)(ハードカバー版p263下段6行目、文庫版p19、4行目)こうなったのは、「(否定文では)~してはならない」を意味する《 devoir 》という語を見逃してしまったためである。

かれらは、その原注(211)のなかの訳注で、上記の箇所に関して、「数学の立場から読むと、・・・・・「依存してはならない」と解釈できる」と指摘する。ここで、私がフランス語の動詞を一つ見逃すというミスを犯したことを、私が「数学の立場から読」めていないとしたいわけだ。

とはいうものの、拙訳『差異と反復』の最近の版でも、語句の見逃しや抜けはすべて修正されていない。また、訳語や訳文そのものを修正したい箇所もある。それには長い時間がかかるので、ブログで『差異と反復』の訳文の全面的見直しと、注釈を遂行したいと思うわけである。

なお、今回は、訳文を提示するだけにして、近日中に注釈を掲載するつもりである。

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『差異と反復』訳と注釈

凡例
〈 〉は、文意をとりやすくするために、あるいは重要な語句だと訳者が判断した場合に、訳者が補った記号。
〔 〕は、訳者が補った文章や言葉を示す。
訳文のイタリック太字は、原文でのイタリック体を示す。  
:は、原書に記されている記号。
各行に番号を付した。ただし、原書の行に対応しているわけではない。文庫版『差異と反復』の行にできるだけ合致するようにした。

第二章 それ自身へ向かう反復 

反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、原書p96、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】

1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神に
2 おいては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心に
3 つれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているという
4 ことを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、瞬間的精神としての〈物質の状態〉
7 である。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、
8 「三番目のもの」、また「それは同じものだ」という言い方ができようか。反復は、即自を有していないのだ。
9 そのかわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。
10 そのようなことが、〈変容〉の本質である。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
11 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観的な
12 シークエンス〈AB〉は、ほかの事例つまりシークエンス〔AB〕から独立している。反復は、
13 (ただし正確には、ここでは まだ反復とは言えないのだが)、対象においては、つまり
14 〈AB〉という〈物の状態〉 においては、何も変化させない。そのかわり、観照する精神のなかに、
15 〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、
16 精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。
18 これこそが、反復の構成に必然的に関与せざるをえない或る根源的な主観性としての、
19 反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。
20 すなわち、反復を 観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、
21 すなわち、精神が反復から〈抜き取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ.。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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