憲法第9条は変更するべきか

(改憲についての記事は今回でいったん打ち切り、次回は直ちに『差異と反復』の解説に戻るつもりである。)
           
*憲法第9条は変更するべきか。


今夏に予想される衆参同日選挙で(もちろん、同日選挙はあくまで予想であるが)、与党が衆参両院で議員の3分の2以上をとれば、改憲の歩みは速く強くなるだろう。

改憲の中心的テーマは、憲法第9条だろう。

各種の世論調査からすると、国民の多くは、今のところ自衛隊と個別的自衛権を認めていると言えるだろう。だが、問題は、国民が集団的自衛権をも認めるかどうかである。

たしかに、国会ではこの案件は通っており、安全保障関連法が3月29日に施行された。しかし、国民自身による審判は今夏の総選挙で下るだろう。

よく言われることだが、集団的自衛権が憲法違反であれば、その違憲状態を放置して、屁理屈による解釈で集団的自衛権の保持を正当化つまり合憲化しようとすれば、憲法の法的安定性が損なわれる。つまり、憲法違反を認めたままにするなら、そもそも憲法が無意味になるということだろう。

憲法に関心をもっている読者には、ほとんど周知の事実だろうが、憲法第9条をその成立の事情からあらためて考えてみよう。

日本国憲法の原理を決定したのは連合国軍最高司令官マッカーサーであったが、彼が言ったように、憲法第9条は平和の理想を表現したものであろうか。

さて、極東委員会(戦後の日本を管理する連合国の最高の政策決定機関、ワシントンに設置)と、その出先機関である対日理事会(連合国最高司令官マッカーサーに対する協議・勧告の機関、東京に設置)を、マッカーサーが、嫌悪していたことはよく知られている。

極東委員会および対日理事会は、戦後1945年12月に、アメリカ、イギリス、ソ連の外相会議でその設置が決定されたものである。ところが、それ以前の1945年8月に、マッカーサーは連合国軍最高司令官に任命され、同年10月には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置された。

マッカーサーにしてみれば、自分が最高権力者としてGHQを率い、ポツダム宣言にもとづいて、しかもおのれの方針に沿って、日本を民主化し、連合国に刃向かえない国家に改造するはずであったのに、GHQ設置の後になって、GHQの上位に極東委員会と対日理事会が置かれたのだから面白いはずがない。マッカーサーは、とりわけ極東委員会や対日理事会の構成国であったソ連の代表と対立したようだ。

対日理事会は、1946年4月1日、東京でその第一回会議が開かれた。マッカーサーは、その会議の冒頭で、次のように述べたそうである。すでに3月5日、現在の日本国憲法の原案である「憲法改正草案要綱」が決定されており、ワシントンでの極東委員会に既成事実として提示されていた。

「ここに提案された新憲法の全条文が重要であり、個々にまた集合的にポツダム宣言に表明された目的に通ずるものですが、私は、とくに戦争放棄に関する条項に言及したいと思います。

このような戦争放棄は、ある意味では、日本の潜在的な戦争遂行能力破壊の論理的帰結ですが、国際的領域において武力に訴える主権を引き渡すという点で、それ以上の価値を有します。

それによって日本国は、正義、寛容および普遍的な社会的、政治的 道徳の実効的法則によって支配される国際社会への信頼を宣言し、かつその国家の統合性をそのような社会に委ねたのです。

皮肉屋には、このような行動を幻想的理想に対する子どもじみた信念を表明したとしか映らないでしょうが、現実主義者は、そのなかにより深い意義を見いだすことでしょう。

日本国政府―――今や国家政策の手段として遂行した戦争が完全に失敗したことを知る理由を有する国民を支配していた政府―――の提案は、実際、人類の発展にとってさらに一歩を踏み出したことを認識せしめます。

すなわちそのもとで諸国は、戦争に対する相互の防衛のために、国際的、社会的、 政治的道徳のより高次な法則を発展させていくでしょう。

世界が諸国間の関係にさらに一歩を押し進める用意があるか、あるいは別の全面破壊戦争―――ほとんど皆殺しになる戦争―――が遂行されなければならないのかは、こんにち全国民が直面している重大問題であります。

私は、それゆえ戦争放棄という日本国の提案を世界の全国民の思慮深い検討に委ねたい。

国際連合機構は、まさに日本国が一方的にこの憲法を通じて達成しようとしていること―――主権の行使としての戦争廃止――をすべての諸国に実現させてのみ、その目的を達成できるのです。そのような戦争放棄は、同時的かつ普遍的でなければなりません。」
(http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/16923/kh06-02.pdfより)

以上のマッカーサー・スピーチにおいて、確認すべきは以下の諸点である。

①戦争放棄は、連合国による日本の潜在的な戦争遂行能力破壊の論理的帰結である。すなわち、「戦争放棄=武力に訴える主権」の放棄は、連合国によって日本の戦争遂行能力が破壊された結果、成立した事態である。

②日本は、戦争放棄によって、つまり武力を行使する主権の放棄によって、国際社会への信頼を宣言し、国家的統合性を国際社会に委ねることになる。すなわち、戦争放棄は、国際社会への日本のを信頼を意味し、国際社会によって日本が統一的国家として存立できることを意味する。

③戦争放棄は、幻想的理想への子どもじみた信念のように見える。

④しかし、そこには深い意義がある。すなわち、世界の諸国は、「戦争に対する相互の防衛のために」、国際的、社会的、 政治的道徳のより高次な法則を発展させていくということ。

⑤諸国間の関係がさらに押し進められることができるか、あるいは別の全面破壊戦争、つまりほとんど皆殺しになる戦争が遂行されなければならないのかは、今日、世界が直面している重大問題である。

⑥国際連合は、まさに日本が一方的にこの憲法を通じて達成しようとしていること、すなわち主権の行使としての戦争の廃止を、すべての諸国に実現させてのみ、その目的を達成できる。

⑦世界各国が戦争を放棄するのは、同時的かつ普遍的でなければならない。

たしかに、以上のマッカーサーのスピーチのなかの「日本は、国際社会への信頼を宣言し、国家的統合性を国際社会に委ねた」というくだりは、気になる部分である。日本の国家的統一性と独立が国際社会に委ねられると、解することができるのだから。

ところで、理想を語る言葉は、人を陶酔させやすいものだ。しかも、理想に酔う人間は、それが直ちに現実化できるかのように考えて、理想に殉じようとしがちである。

しかしそれにもかかわらず、結論を先に言うと、私は、第2章第9条は、変更せずに維持すべきであると考える。それが、世界中で一国も追随しない空想的理想の表現であっても、またそれが、後述するように偽善的な条項であっても、私は、保持すべきだと考える。

私は、第9条が、安全保障のもっとも効果的な方策であると考えるからではない。

たしかに、武力完全放棄は、安全保障の手段としては空想的であり、かえって危険であるという説がある。脅威となる外国と話し合うにしても、相手が侵略を思いとどまらせるだけの自衛力をそなえて、話し合いに臨むべきだと説く者もいる。

他方、以下で言及するが、かつての吉田茂首相のように、日本が防衛のためであろうと、戦力をもつと、戦争を惹起し、かえって危険であるから、戦力を完全に放棄するべきだという説がある。この場合、日本が戦力をもつと、国防という名目で日本が戦争を仕掛けるのだろうか、あるいは、相手国に日本から攻撃されると思わせてしまい、相手国から先制攻撃されてしまうのだろうか。その点は明確でなくても、いずれにせよ、まず話し合って相手の立場を尊重してやれば大丈夫だということなのだろう。

ところで、第9条の戦争放棄と戦力の不保持は、マッカサー自身が言い出して、あたかも日本の自発的な主張であるかのように見せかけたという説と、時の首相、幣原喜重郎がマッカーサーに提案したという説がある。後者の説は、マッカーサー自身の『回想記』などによっている。

さらに、日本は、戦争放棄と戦力の不保持を憲法に入れることで、アメリカの戦争への戦力供出要求を拒否することができ、かつアメリカに日本の防衛をさせ、こうして再軍備の費用を浮かせて経済再建に専念できた、という説がある。

幣原の後を継いだ吉田茂なら、そう考えただろうが、幣原も、こう考えて、1946年1月24日に、マッカーサーとの会談で戦争放棄と戦力の不保持を提言したのだろうか。

たとえそれが幣原の発案であったとしても、マッカーサーの指揮のもとに第9条を含む日本国憲法が成立したのだから、第9条の発案者が誰であったかは、今ではどうでもよい問題である。

真の問題は、できあがった日本国憲法第2章の題名「戦争の放棄」の意味と、第2章の内容としての第9条の二つの条項の意味にある。

それにしても、この「戦争の放棄」という日本語の表現は曖昧である。

1946年6月28日の、衆議院での共産党の野坂参三の質疑と首相吉田茂の答弁は、いわゆる吉田・野坂論争として、よく知られている。

野坂は、戦争放棄の条文に関して、2種類の戦争を区別した。正しい戦争と、不正な戦争。日本が満州事変以降に起した戦争は侵略戦争で、不正な戦争である。連合国の戦争は、防衛戦争であり正しい戦争である。したがって野坂は、たんなる戦争の放棄ではなく、侵略戦争の放棄とするべきだと主張した。

それに対して、吉田は、防衛戦争を正当なものとして認めるのは有害であると答える。近年の戦争の多くは、国防の名のもとに行われたのは事実である。防衛権を正当化することが、戦争を誘発する。したがって、野坂の主張は、有害無益である、と。

たしかに、一時、大学総長としてヒトラーに協力したあのハイデガー、すなわち日本人に崇拝者の多いドイツの哲学者ハイデガーは、『ドイツ的大学の自己主張』において、学生の務めと奉仕を次のように説明した。「民族共同体への献身。国防奉仕。国家への知的奉仕。」

ハイデガーは、第一次世界大戦後のドイツにとっては、国防の必要性があると認識していた。しかも、ハイデガーにとっては、ヒトラーが始める戦争も国防のための戦争であった。

さて、日本国憲法第9条を理解するためにその英文を参照しなければならないのは、日本人としては悲しいが、ともかく内閣官房や法務省のサイトで公表されている英文日本国憲法(日本国憲法の公式な英語版)にそくして、第2章第9条を考えてみよう。

和文日本国憲法よりも、英文日本国憲法のほうが権威があるというわけではないにしても。和文日本国憲法は、英文日本国憲法の翻訳として読めるからである。

「戦争の放棄」に相当する英文は、《 RENUNCIATION OF WAR 》である。「戦争」は、もちろん《WAR》に相当する。

放棄されるべきこの《WAR》は、第三者的な視点から見た「国家間の戦争」というより、「他国に対する自国の戦い」を意味するだろう。それは、「放棄」に相当する《 RENUNCIATION 》という英語からわかる。

《 RENUNCIATION 》は「(権利などを公式に)放棄すること」、「(欲望などを)捨てること」などを意味する。したがって、「戦争の放棄」とは、英文には、「権利としての交戦権を放棄すること」あるいは「戦争する欲望を捨てること」という意味合いがる。

だからこそ、第二章「戦争の放棄」の内容である第9条は、「国の交戦権は、これを認めない」で締めくくられている。

そこで、第9条の和文と、それがもとづいている英文を比較してみよう。ともに、悪文と言ってよい。

和文:「①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
   ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

英文:《 ①Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

②In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.》

さて、日本国憲法が現在の形にまとまるまでの紆余曲折について、すでに多くの優れた歴史的研究が発表されているが、ここでは英文と和文の言語上の対応関係だけを見ていこう。

たとえば、英文①における《Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order、》と、英文②における《In order to accomplish the aim of the preceding paragraph,》の部分は、GHQ原案への日本側による追加と言われている。

道理で、特に②の英文が悪文であるわけだ。本文が受動態で書かれているのに、In order to accomplish(達するため)は能動的な意味を持つ。accomplish(達する)という英語動詞が意味する能動的な行為の主体が不明確である。私の語感からすれば、この②の受動態の本文は命令文に近い。

まず、英文①(第9条第1項)の私の直訳を示す。「日本国民は、正義と秩序にもとづく国際平和を心から切望するので、国際紛争を解決する手段としての、《国家の主権としての戦争と武力による威嚇または武力の行使を》永久に放棄する。」

文意をはっきりさせるため、《》を入れて訳してみた。なぜなら「として(as)」が2回出てきて、修飾関係が曖昧な英文であるからだ。

要するに、「国家の主権としての(as)戦争(条文では「国権の発動たる戦争」)、および「武力による威嚇または武力の行使」を、「国際紛争を解決する手段としては(as)」放棄する、ということだ。

この訳が正しいとすると、あくまでも、「国家の主権としての戦争」と「武力による威嚇または武力の行使」とを、「国際紛争を解決する手段」である限りにおいて、放棄するということになる。

逆に言うと、「国際紛争を解決する手段」でなければ、戦争や武力による威嚇または武力の行使は、放棄する必要はないということになるだろう。

では、「国際紛争を解決する手段」ではない戦争、つまり放棄しなくてもよい戦争とは、どのような戦争だろうか。

まず、野坂参三が言う上記の「連合国の防衛戦争」、つまり「正しい戦争」が考えられる。

ところで、日本国憲法制定の原則を示したいわゆる「マッカーサー・ノート」第2原則では、「国際紛争を解決する手段として、かつ日本自身の安全を保持するためでさえも、戦争を放棄する」、となっていた。

だが、後に、この「日本自身の安全を保持するためでさえも」という部分が削除された。削除したのは、GHQのケーディス大佐だと言われている。

とすれば、マッカーサーも、2種類の戦争を区別していた、と言えるだろう。

「国際紛争を解決する手段としての戦争」と、「日本自身の安全を保持するための戦争」。

そして、日本国憲法では、結局、「国際紛争を解決する手段としての戦争」のみが放棄されることになった。

では、「日本自身の安全を保持するための戦争」も放棄され「なければならない」のだろうか。そうした放棄は義務であろうか。第9条の条文に、それを明示する文言はない。少なくとも、「日本自身の安全を保持するための戦争は禁止されていない」ことは確かである。

英文②(第9条第2項)を訳してみる。「上記の文章の目的を成就するためには、陸海空軍ならびにその他の戦争能力は決して維持されてはならない。国家の交戦権は承認されてはならない。」

《will never》、《will not》を、「ならない」と強く訳した。

「上記の文章の目的を成就するためには(条文では「前項の目的を達するため」)」=《In order to accomplish the aim of the preceding paragraph》という文言は、日本側が追加したもので、いわゆる「芦田修正」として知られている。

芦田修正の経緯についても、すでに多くの解説が世に出ているが、ともかく、芦田均(憲法改正小委員会委員長)は、第9条第2項に、「前項の目的を達するため」を挿入したのは、「無条件に戦力を保持しない」ではなく、「一定の条件の下に戦力を保持しない」にするためだと証言している。

では、「国際紛争を解決する手段」ではない戦争、たとえば「自衛のための戦争」とそのための戦力は、放棄してはいけない(保持するべき)ということか、それとも放棄しなくても放棄しても、どちらでもよいということか。

憲法の条文で、当初の「マッカーサー・ノート」第2原則のように、「自国の安全を保持するためでさえも、防衛力を放棄し、戦争を放棄する」とはっきり規定しておけば、自衛隊は合法化されなかっただろう。

けれども、そのように規定しておけば、日本は自衛隊をもたなかっただろうか。

だが、人間の自己保存の本能は、権利であるよりも前に、理屈や法律で抑えられない人間本性である。

たとえ、第9条が「マッカーサー・ノート」第2原則のまま、「自国の安全を保持するためでさえも、防衛力を放棄し、戦争を放棄する」と憲法に書いたとしても、日本人が外国からの侵攻の差し迫った危機を感じたときは、防衛の戦力を求めるだろう。

だから、この防衛本能を、たんに抑えつけないこと、ヒステリックな状態に高めないこと、うまくコントロールすることが必要だろう。

すでに、日本国民は、自衛隊と個別的自衛権の合憲性を認めていると言えるからである。

では、集団的自衛権はどうか。

たしかに、集団的自衛権も国連憲章で認められている。

上記の吉田・野坂論争でも、野坂は、第二次世界大戦における連合国の戦争は正しい戦争としている。

連合国の戦争は、まさに集団的自衛権にもとづいた戦争であろう。

太平洋戦争において、日本の軍隊は、集団的自衛権にもとづく連合国の攻撃によって、壊滅させられたのであった。

マーカーサーは、対日理事会の第一回会議で、世界各国は、「戦争に対する相互の防衛のために」、国際的、社会的、 政治的道徳のより高次な法則を発展させていくべきだ、と述べ、集団的自衛権を正当化している。

同時に、「世界各国が戦争を放棄するのは、同時的かつ普遍的でなければならない」、とも述べている。

こうした戦争放棄は、結局、世界各国の同時的かつ普遍的な放棄という不可能な目標を目指している。そして、それまでは、つまり不可能な目標の実現までは、集団的自衛の戦争の必要性を含意している。

したがって、今のところ、世界各国が戦争を同時的かつ普遍的に放棄するというのは、実現不可能であるから、世界各国は、侵略に対して集団的に防衛しなければならないと言うことができるだろう。 

だから私は、第9条は偽善的な条項であると言った。第9条は、たとえ日本人がマッカーサーに提案したものであろうと、マッカーサーによって認可された条項である。

マッカーサーは、日本の戦争放棄がアメリカの覇権にとって好都合であり、好都合だからこそ、日本人によって言い出された理想だということにして、戦争放棄を認可したと、推測したくなる。

戦後長いこと、アメリカとソ連という2大覇権追求国の押し合う線が、日本の北方に引かれていた。

しばらくして、ソ連が自己崩壊してロシアとなり、その後、覇権争いに中国が加わって、日本の近辺に、3大覇権追求国がぶつかり合う複雑な線が引かれるようになった。

それでもなお。日本の政治権力は、長きにわたって、ポツダム宣言の精神を受け入れてきた。つまりアメリカの覇権のもとに安住してきた。国民の大多数も、一貫してアメリカの覇権の内部で生きることを選んできたと言えるだろう。少なくとも最近までは、そうであった。

繰り返すが、問題は、集団的自衛権にある。国会ではこの案件は通っているが、今夏の総選挙で、国民自身による審判が下る。

与党が参院で3分の2の議員を獲得すれば、国民は集団的自衛権を認めたことになる。もしそうなったとしたら、憲法学者たちが、集団的自衛権の違憲性を理論的に展開したところで、国民は、事実上、集団的自衛権を合憲と認めたことになる。

そのとき、憲法の法的安定性が損なわれると、憲法学者が学者言葉で批判しても、もはや、第9条を変更あるいは削除する必要はなくなってしまう。

しかし、その場合、武力行使の新3要件の「必要最小限度の実力を行使する」という規定があっても、実際に戦闘が始まってしまったら、現場でも、官邸でも、どこまでが必要最小限度なのかを考える余裕はないだろう。まず負けてはならないからだ。

また、3月29日に施行された安全保障関連法によれば、日本と連携して活動する外国の軍隊を自衛隊が守ることが可能になり、日本周辺に限らず、外国の軍隊のための後方支援が可能になる。

しかし、実際に戦闘が始まってしまったら、軍事活動における日本と同盟国アメリカ等のその都度の具体的な連携が正当であるかどうかを吟味する余裕はないだろう。

つまり、安全保障関連法を言葉のうえでどれだけ精密に規定したところで、政府は、戦闘の最中に、自衛隊の行動が安全保障関連法に正確に合致しているかを検討する余裕はないということだ。

つまり、安全保障関連法が戦争を開始させないという保障はないわけだ。

さらにまた、日本から遠く離れたところで、たとえば奇奇怪怪な「アメリカおよび有志連合の対IS戦闘」で、アメリカが日本に後方支援や武力行使を要請したら日本は断れるだろうか。

しかも、ロシアや中国と同様に、アメリカは自国の利害と覇権を最優先する国家である。だから、アメリカがたとえば中国と対立を深めているようであっても、いつ豹変するかわからない。

はしごを外されてバカを見ることのないように気を配るぐらいの賢明さをもつ政治家が、日本にもいるとは思うが。

だから、国民は、政府と現場の自衛隊がうまくやってくれることを期待するほかはない。

ところが、福島第一原子力発電所で津波被害を予想できなかったのではなく、しなかったため、つまり無視したために電源喪失という致命的な事故を招いたこと、その後の政府の取り組みのお粗末さ、責任追及の欠如を見ると、太平洋戦争での日本政府と軍部官僚の無責任ぶりが思い起こされ、私たちは不安になる。

結局、問題は、国民が、一般に政府の言動を信用できるかどうかにある。

今夏の総選挙で根本的問われるのは、この政府は責任を取る政府なのか、賢明な政府なのか、でなければならないだろう。

私は、憲法第1章第1条(象徴天皇)と第2章第9条(戦争の放棄)は変更せずにそのまま維持すべきだと考える。

それは、天皇の象徴性と戦争抑止の問題を国民が繰り返し考えるため、そして敗戦の意味を今後も考え続けるためである。これは、いわゆる「自虐的」な自己批判ではない。

尊大な態度で日本人のプライドを説くようでいて、実は父の威を借りるために、父なる者をつくり、その父を利用しようとする狐たちがいる。こんな狐たちが権力を振りかざすことのないようにと、私は願うからである。

そればかりでなく、「同時的かつ普遍的な戦争放棄という幻想的理想」と、「国民主権国としての日本」を、敢えて世界に向けて言い続けるためである。

なお、天皇の象徴性については、このブログで、折に触れて論じる予定である。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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