楽浪幻想9:国家論 坎為水

メナール『ドゥルーズと精神分析』の翻訳に手間取ってしまった。メナールの文体およびその主張と格闘したと言ってもよいほどだ。7月中には脱稿できると思う。この翻訳の作業を通じて、「或る意味で」、あらためてドゥルーズ自身の諸テクストの改訳と注釈に力を入れる必要性を痛感した。

ドゥルーズの実質的な処女作は『経験論と主体性―――ヒュームにおける人間的自然についての試論』である。ドゥルーズは、いわゆる社会契約論を批判するヒュームに深い共感を抱いている。そして1968年のパリ5月革命の後、一種の社会主義者ガタリとともに、反精神分析の立場から『アンチ・オイディプス』を書く。ロールズなどとは異なる次元で差異の思想を展開するドゥルーズの社会契約論批判は、当然研究されるべきテーマである。

ところで、戦前の日本では、社会契約論は、言うまでもなく反デモクラシーに与する知識人たちから批判的に扱われていた。たとえば法哲学者・尾高朝雄は、『国家構造論』(昭和11年)において、社会契約論を国家成立論としては却下している。

尾高は、カール・シュミットにおける「憲法定立権力」の根本的性格を肯定する。「権力」と訳されているドイツ語は、Gewaltである。Gewaltは「暴力的強制力」をも意味する。そして尾高は、暴力における理念の現実化を力説する。

尾高は、『岩波講座・倫理学 第七冊』(昭和16年)に「国家哲学」を寄せ、こう述べることができた。「今日の独裁主義が、民主主義の政治を以て猜疑の政治であると非難し、国家活動の重点を信頼の政治に求めたのは、政治上の誇張は別として、原理的に肯定されて然るべき主張であると言ってよいであろう。・・・・これに反して、独裁制は、その本質上非常時向きの国家体制で・・・・失敗に対する強靭性に乏しく、・・・・常に平衡を保ち得るだけの復元力を持たない。・・・・「天皇中心」は、日本国体の根本義の第一である。・・・・天皇は、・・・・「神格」を以て統治の大権を総攬し給う「現人神」である。」

尾高はこのように述べて、日本の政治は、民主主義でもなく独裁主義でもなく、まさに「信仰」の政治であると主張する。

この頃、「全体主義体系」というシリーズが刊行されている。そこでは、「我々にとって必要なことは、現代における全体主義の普遍的な意義、その歴史的必然性を掴むことである」と宣言されている。その一冊に『国家・議会・法律』があり、シュミットの諸論文が集められている。訳者は、堀真琴と青山道夫である。堀は、戦後になってから、社会主義者として活躍した人物である。

他方、尾崎秀実は、昭和18年つまり死刑の前年、獄中から妻に、古事記、日本書紀、神皇正統記、本居宣長や平田篤胤の本の差し入れを頼んでいる。

私は、戦前の日本人や出版社を非難したいわけではない。私の関心は、なぜ日本の社会がひとつの傾向に支配されてしまうのか、これを明らかにする方法を追究することにある。

さて、話は大きく変わるが、昭和5年に、東京帝国大学文学部から『楽浪』という素晴らしい本が出版された。現在の平壌 の近くにあった楽浪郡治の発掘調査の記録である。その60頁に「式占天地盤」の出土が記されている。そして「図版112」として、その復元図が示されている。

その復元図によく似た図を、ネットで見ることができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E7%9B%A4
ttp://www.geocities.jp/yamauo1945/tatezuna.html
式占天地盤とは、「周易」のいわゆる後天図にもとづく占い用の器具である。

日本書紀の記述によれば、663年白村江で唐に敗れた日本は、その後9年間断続的に、郭務悰らが率いる唐軍に駐留されたのだが、671年末に天智天皇が亡くなり、672年に郭務悰らが日本を引き揚げるやいなや、大海人皇子(天武天皇)は挙兵を決意する(壬申の乱)。

吉野を脱出した大海人皇子(天武天皇)が横川の近くに着くと、天が不吉な黒雲に覆われた。そのとき大海人皇子(天武天皇)は、「式」を手にとってみずから占ったとある。

現在、この「式」を「筮竹」とする『日本書紀』がいくつか出版されているが、これは「筮竹」ではなく、まさに「式」、すなわち「栻 」であり、つまり陰陽師が用いた「式盤」であろう。私は、この「式」を、楽浪から伝えられた「式占天地盤」と夢想している。

さて、私は、この「式盤」をもっていないし、その使い方も知らない。そこで、メナールの翻訳に疲れてしまったいま、私は、やはり楽浪の漢人の末裔から伝えられたはずの「周易」によって占いをしてみた。

その結果、「坎為水」の、「六四」の爻(こう)を得た。

「坎為水」の「卦辞(卦の意味を教える言葉)」は「習坎有孚維心亨行有尚」である。

これを訳す。「坎(穴、困難)が重なる。孚(まこと)有れば、心は亨(とおる)。行けば、尊敬を受ける(優位に立つ)。」

六四の爻(こう)は「樽酒簋貮用缶納約自牖終无咎」である。

これを訳す。「樽酒(たるざけ)に、簋(き、すなわち穀物を入れる竹の器)が添えられてある。缶(ほとぎ、すなわち水などを汲む素焼きの器)を用いる。牖(明り取りの窓)より約(ひしゃく)を入れる。終りにおいて无(とが)は咎(ない)。」

解釈。「儀式は質素な樽酒と食物と食器でよい。むしろヒシャク(約束)を心の窓に入れよ。最後にはうまくゆく。」
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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