『ドゥルーズと精神分析』1

モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(2005年)の訳稿を、河出書房新社に定期的に送り始めた。そこで、このブログで、断片的に、この著書の紹介もしていきたい。このブログの本来のテーマに取り組むのがさらに遅れるが、致し方ない。

この書の異常に長く複雑な文章を砕いて、日本語として読んでわかる訳文に変換するのに手間取っている。また、フロイト、ラカン、ドゥルーズの三者に通じている読者はそれほど多くないと思われるので、本書に出てくる精神分析用語とドゥルーズの哲学用語について訳注で平易な解説を加えたいとは思っているのだが、どの程度まで訳注を付ければよいか、少し迷っている。


この書は、ドゥルーズによる精神分析批判とりわけラカン批判に対する、メナールからの、つまり精神分析の側からの検討というかたちをとっている。メナールは、ドゥルーズに対して、いきり立った「反論」をしているのではなく、治療実践としての精神分析の観点から、ドゥルーズ哲学さらには哲学一般を批判的に検討しようとしている。したがって、スピノザ哲学に対しても批判的な立場をとる。ただしメナールは、必ずしもラカンの精神分析理論にべったり寄り添ってはいない。

メナールは、ドゥルーズの主要な著書に目を通しているのだが、ドゥルーズのニーチェ論、ベルクソン論に直接には触れていない。

メナールが取り上げているドゥルーズの著書は、おもに、『マゾッホとサド』、『差異と反復』(とりわけ第二章の時間論)、『意味の論理学』、『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、そして『哲学とは何か』である。さらに彼女は、アラン・バディウの『ドゥルーズ 存在の喧騒』に踏み込んで考察している。(私も、いずれこのブログで、このバディウの著作を批判的に検討したいと思っている。)

まず、『ドゥルーズと精神分析』のテーマを紹介しよう。それは、「精神分析における否定的〔ネガティヴ〕なものに対するドゥルーズによる哲学的批判と、哲学に対する精神分析からの持続的な衝撃とのあいだのジグザグの諸関係を吟味すること」である。

そして、メナールは、ラカンにおける「存在欠如」とドゥルーズにおける「欲望には何も欠如していない」を対立させて、精神分析理論とドゥルーズ哲学を比較対照していく。「存在欠如」は、たとえば『エクリⅢ』弘文堂、p627、「欲望には何も欠如していない」は、ドゥルーズ『アンチ・オイディプス上』河出文庫、p58参照。

ラカンべったりではないメナールの微妙な態度は、つぎの文章によく現れている。「精神分析学者たちと哲学者たち、とりわけドゥルーズは、一九五〇年代から一九七〇年代にかけて、ラカンを読みながらもフロイトを読んだ・・・。しかも、ドゥルーズによる精神分析批判の全体は、〔ラカンの〕存在欠如としての欲望に関する様々な考え方に対する批判であって、それは、ラカンのテクストをフロイトのテクストに持ち込んだうえでの批判である。したがって、こう問う必要がある―――ラカンはこの点について何を言っているのか、そして、それはフロイトが言っていることなのか。そしてドゥルーズが精神分析について論じていることは、そのすべての点において、ラカンによるフロイト読解に依存しているのか。」
(続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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