新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と注釈5

一昨年、パリのミラボー橋の近くに滞在していた。アポリネールの詩に詠われたミラボー橋、詩人パウル・ツェランが身を投げたと言われるミラボー橋。

 

いささか食傷気味ではあるが、その一節を、堀口大學の名訳で引用しよう。

 

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る

 

現在、ミラボー橋そのものは同じでも、そこを通る車の量は東京の街中と同じように多い。この橋でアポリネールの詩に浸ろうとしても、排気ガスと騒音が邪魔をする。

 

そして日本では、アポリネール、ミラボー橋という、かつてフランス文化への憧憬を呼び起こしたカタカナの固有名詞は、いまは説明抜きでは使えない言葉になったようだ。

 

このブログの注釈では、当然『差異と反復』のフランス語を問題にしなければならない。だがそうなると、たいていの読者には迷惑な話になる。日本では、言うまでもなくフランス語はマイナーな外国語であるからだ。私は一応フランス語で食っているつもりでいるのだが、私の本務校では、「あなたフランス語ができるんですって!?」と驚かれるほどである。

 

このブログで私が行おうとしているのは、『差異と反復』の第二章の重要な語、文、あるいは文章群のすべてに、私の母語つまり日本語で注釈をほどこし、その第二章の注釈の網のなかで『差異と反復』全体を捉えるという試みである。

 

しかし、私はフランス語に堪能な専門家に向けてこのブログの記事を書いているのではない。日本で日本語のみを用いる大多数の人々に、どのようにドゥルーズのフランス語を解説すればよいのだろうか。試行錯誤を続けるほかはないだろう。

 

                 ∴

 

パリ第8大学で研究していたとき、哲学科の責任者であるヴェルメラン教授から、ドゥルーズについて講義してみないかと誘われた。フランス語でも英語でもよいと言われた。けれどもそのときは、荷が重すぎると感じたのでお誘いを断った。

 

日本からフランスに来たばかりの人間が、フランス現代思想をフランスの学生たちに英語で講義する・・・。そのとき、世界共通語は、事実上、英語であることをあらためて痛感した。

 

そして、ヴェルメラン教授のお誘いが、ずっと気になっている。ドゥルーズに関して、私の母語である日本語と、私にとって外国語であるフランス語や英語を使うこと。実を言うと、いつか、このブログの英語版、仏語版を制作できればと空想している。(「母語」における「母」という言葉の使用に関するジェンダー論からの問題提起は、いまは脇に置こう。)

 

ともあれ、まず日本語で注釈を継続することが肝要だ。

 

 

                 ∴

 

「第二章 それ自身へ向かう反復【※1の 注釈の続き

 

 

注釈【※1


④の引用の続き。p196上段~下段(p164

 

「永遠回帰は、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異の世界から派生する。いずれのセリーも、たんにそのセリーを折り込んでいる他の諸セリーのなかに環帰するだけでなく、それ自身へ向かってもまた環帰する・・・。・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在。それを言い換えるなら、起源は差異であると特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。」

以上の引用のなかで、

それ自身へ向かって」は、第二章の表題「それ自身へ向かう」と同じであり、

フランス語では《 pour elle-même (「プル エル メム」と発音する)であり、

英語では《 for itself 》になる。

 

向かう」は、

フランス語では《 pour 》(「プル」と発音する)、

英語では《 for 》。

即自的」は、

フランス語では《 en soi 》(「アン ソワ」と発音する)、

英語では《 in itself 》。

Paul Pattonの英訳は一部変更する。)

 

即自」は、

フランス語では《 l’en-soi 》(「ラン ソワ」と発音する)、

英語では《 the in-itself 》。

 

対自」は、

フランス語では《 le pour-soi 》(「 プル ソワ」と発音する)、

英語では《 the for-itself 》。

  

以上から、とりあえず、

「それ自身へ向かう」=《 pour elle-même 》=「プル エル メム」と、

「対自」=《  pour-soi 》=「プル ソワ」(定冠詞省略)が、

きわめて近い関係にあると言えよう。(なお、「対自」という訳語はほぼ定着しているので、これを採用した。)

さて、前者の《 pour 》は「向かう(向かって)」と訳し、後者の《 pour 》は「対」と訳したのだが、ここから問題を展開しなければならないだろう。

さらに、第二章の表題「それ自身に向かう反復」は、

ニーチェの「力の意志」すなわち「差異」と、「永遠回帰」すなわち「反復」を示唆しており、

さらにヘーゲルの「即自」と「対自」の概念に深く関係していることがわかる。 

 

たとえば、注釈【※1の③における

反復は、それ〔反復〕自身へ向かってはそれ〔差異〕自身における差異であるという文章と、

 

④における

「差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である」という文章を、

 

ヘーゲル、ニーチェとの関連で、しかもドゥルーズの反ヘーゲル主義の立場で、解釈しなければならない。



それ自身へ向かう(プル エル メム)」は「対自(プル ソワ)」だろうか。

それ自身における(アン エル メム)」は「即自(アン ソワ)」だろうか。

話がごちゃごちゃしてきたが、さらに具体的に考えていこう。

 

(注釈、続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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