新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と解釈1

亀のように、のろのろとした歩みではあるが、本日から、あらためて『差異と反復』第二章の改訳と注釈を発表していこう。『差異と反復』でも、注目すべき語句を、本文全体に求めて、その使い方を確認していく。

この第二章は時間論である。その前半で、ドゥルーズは、おもに哲学と文学を渉猟して、三つの時間を、あたかも三つの段階を登るように描写していく。

1、時間の第一の総合:生ける現在、その現在のエレメントとしての過去と未来。
2、時間の第二の総合:純粋過去、その過去のエレメントとしての現在と未来。
3、時間の第三の総合:永遠回帰における未来、その未来のエレメントとしての過去と現在。

そして、第二章の後半では、その三つの時間が、精神分析の分野で反復される。

本日は、第二章の第1段落の訳文のみを公表する。注釈は次回で示す。

                        ∴

第二章 自分自身に向う反復【注1】

第一節 反復:何かが変化させられる【注2】

反復する事物のなかでは、反復によって何も変化しないが、しかし反復を観照する精神のなかでは、反復によって何かが変化する【注3】――ヒュームのこの有名な主張【注4】は、わたしたちを、或る問題の核心に連れてゆく。現前するそれぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味を、権利上【注5】、反復は含んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで、何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表現される――ひとつの〔先行する〕ものが消えなければ、もうひとつの〔後続する〕ものは現れない。瞬間的精神【注6】としての物質の状態が、その例である。それにしても、反復は出来あがるそばから壊れるのだから、どうして、「二番目」、「三番目」、また「それは同じだ」と言うことができようか。反復は、即自をもっていない【注7】。その代わり、反復は、反復を観照する精神のなかでは、何かを変化させる。それが、変更【注8】の本質である。ヒュームは、例として、事例の反復、すなわち〈AB、AB、AB、A・・〉というタイプの反復を取り上げている。どの事例も、どの客観的なシークエンス〈AB〉も、ほかの〈AB〉から独立している。反復は、(ただし正確には、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、事物のなかでは、つまり〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。その代わり、観照する精神のなかに、ひとつの変化が生じる。すなわち、或る差異が、何か新たなものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私はBの出現を待ち受ける【注9】。それはまさに、反復の対自【注10】なのだろうか。すなわち、必然的に反復の構成【注11】に関与せざるをえない或る根源的な主観性なのだろうか。反復のパラドックスとは、次のようなことではないだろうか。すなわち、ひとが反復を語ることができるためには、反復を観照する精神のなかにその反復が導入する差異つまり変化によるほかはないということ。つまり、精神が反復から抜き取る【注12】或る差異によるほかはないということ。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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