欲望学ノート5 志賀直哉と夏目漱石(1)

日本語としての「欲望」の現代的意味は何か。言い換えるなら、現代において日本語で生活してしてる私たちが「欲望」と言うとき、何を言おうとしているのだろうか。

無数の出版物から、「欲望」という言葉が出てくる文章をすべて探し出し、その文脈から「欲望」の意味を推測する・・・などということはできるはずがない。

問い方を変えよう。「欲望」という言葉は、何を指し示しているのだろうか。ドゥルーズは『差異と反復』の第二章のなかで、こう語っている―――行動主義心理学のおかげで、私たちは、動くものの観察しか信用しなくなり、「内観」と言われる仕方に過度の恐怖心を抱いている、と。

「内観」とは、簡単に言うなら、自分で自分の心の状態を観察することである。これは、今では古臭いと思われているヴントの心理学の方法である。心理学を経験科学として確立しようとしたブントはまた、要素主義の立場をとった。彼は、心あるいは意識の諸要素を分析し、その構成法則を追究した。

このような要素主義にもとづく内観の方法は、間もなくゲシュタルト心理学や行動主義心理学から強い批判を受けるようになる。これは、よく知られていることだ。

例えば志賀直哉が、電車にはねられて負傷し、その怪我をなおすために城崎温泉で養生していたとき、「その気がまったくないのに殺してしまった・・・イモリと自分だけになったような心持がしてイモリの身に自分がなってその心持を感じた(原文のまま)」と語る。

そして、自分が殺したイモリを「可哀想に想うと同時に、生き物の淋しさをいっしょに感じた」、さらに「自分は偶然に死ななかった。イモリは偶然に死んだ。自分は淋しい気持になって・・・」と言う。

「死ななかった自分はこうして歩いている。・・・生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。・・・それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。」これが、『城の崎にて』の末尾である。

私は久しぶりに志賀直哉を読んだ。本は集英社版日本文学全集24、『志賀直哉集』。これは、私が四十五年前に買った本である。当時学生であった私は、尾崎一雄による巻末の解説を信じた。「心境小説の名作として何人も賞賛を惜しまぬ短編である」ところの『城の崎にて』を、ひたすら、読むと言うよりは学習しようとしていた。

志賀直哉が34歳のときに書いた『城の崎にて』を、今年の夏、たまたま読み返した。「う~ん」と言う他はなかった。小林秀雄は、志賀の文体を直截であり精確であると評している。たしかにそう言ってよいだろう。しかし、くだらない内容も精確かつ直截に表現できる。

私は何も、太宰治の尻馬に乗って志賀直哉を批判したいわけではない。太宰は、「『暗夜行路』、大袈裟な題をつけたものだ。・・・いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである」と述べている(『如是我聞』)。太宰は、自分の作品が志賀から酷評されたものだから、その志賀に罵詈雑言を浴びせかけているのだが、「自己肯定」という志賀評はうなづける。しかも、この「自己」が甘い。

しかし問題は、志賀直哉が「淋しい気持」をどこに見たのかということだ。

志賀はまず、「生き物の淋しさを」自分が殺したイモリと「いっしょに感じた」と書いている。「いっしょに」とはイモリと志賀の「間」であると言えば、何だか現代思想に沿っているような感じもする。しかし、志賀自身の淋しさをイモリに投射し、あたかも死んだ「イモリ自身のなかに」淋しさがあるような印象を志賀がもったとすることもできる。

小さな子供がぶたれている。それを目撃すれば、その「子供のなかに」悲しさがあると、私たちは感じることができる。志賀は、自分が殺したイモリのなかに「淋しさ」を感じた。

つぎに、「イモリは偶然に死んだ。自分は淋しい気持になって・・・」と志賀が言うとき、「自分の淋しい気持」をどこに感じたのだろうか。「自分のなかに」感じたのだろうか。

顕微鏡で何かの標本を観察するという意味での「内観」ではなく、「自分のなかに」おのずから自分の気持が感じられるという意味での「内観」であれば、誰においても生じていることだろう。だが、「自分のなか」とはどこなのか。志賀が見る「イモリのなか」や、私たちが見る「子供のなか」と、自分が感じる「自分のなか」とでは、当然「なか」の意味が異なる。

もちろんいぜんとして、20世紀初頭の様々な現象学的思索は重要である。

さて、「欲望」は「内観」できるのだろうか。あるいは、内観される「欲望」とは何か。それを、太宰が罵る『暗夜行路』に探ってみよう。

(ドゥルーズとラカンに専念する前に、もう少しだけ『暗夜行路』と『明暗』における「欲望」について書かせていただきたい。)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授
連絡先:za10@hosei.ac.jp

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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