『差異と反復』第二章、第二段落、注釈3 齟齬のロジック 時間の総合の美学的意味

今後、前回の精読箇所(第二段落前半)の各文章を切り離し、さらに「時間の三つの総合」の諸段落(第二章前半部)から時間規定をピックアップして考察を進める。(なお、文庫版や旧ハードカバー版におけるピックアップした文章のページ数は示していない。また、引用文には絶えず細かい修正を加えている)

このようにして、各時間規定が齟齬しているのかどうかを見ていく。もし齟齬しているのなら、その齟齬を肯定するドゥルーズ的ロジックがあるかもしれないからだ。そうではないとすれば、われわれが齟齬と思うのはわれわれの読みが浅いからだろう。

しかし、ライプニッツがデカルトの「明晰‐判明」という認識論的規則に対抗して提唱した「明晰‐混雑」、「判明‐曖昧」という認識論的‐存在論的原理を、ドゥルーズは重要視している。これをドゥルーズはライプニッツ以上に深く解釈し、根本的な原理と考えている。明晰な観念はそれ自体からして混雑しており、判明な観念はそれ自体からして曖昧である、ということだ。

こうした「明晰‐混雑」、「判明‐曖昧」という原理が、『差異と反復』の原理でもあるとすれば、『差異と反復』のテキストから齟齬を解消するために「明晰‐判明」な理解を求める読みは、『差異と反復』が展開しているかもしれない生産的な「齟齬のロジック」を取り逃がすことになるだろう。

ところで、第二章における時間の第一の総合と第二の総合は「受動的総合」と呼ばれている。そして、第一の受動的総合(現在論)は経験的なレベルの時間の総合であり、第二の受動的総合(過去論)は先験的(超越論的)なレベルの時間の総合である。

しかし時間の第三の総合(未来論)は受動的総合ではない。ジョー・ヒューズは、三つの総合をすべて受動的総合とみなしているが、そうではない ( Joe Hughes《 Deleuze´s Difference and Repetition 》)。

『差異と反復』の「結論」から、時間の三つの総合の美学的意味に関する文章を引用しておこう。
「・・・美学的問題には、日常生活のなかへの芸術の組み込みという問題しか存在しない。われわれの日常生活が、消費物のますます加速された再生産に服従して、常同的なものにされ、規格化されているということが明らかになればなるほど、芸術は、・・・・この文明の現実的な本質をなしているもろもろの錯覚や欺瞞を美的に再生産しなければならない。どの芸術もそれぞれ、瓦状に重なり合った〔注:『悲しき熱帯』におけるレヴィ=ストロースの用語〕それなりの反復技法をそなえており、この技法の批判的かつ革命的な力能は、われわれを、陰気な〈習慣の反復〔=時間の第一の総合〕〉から深い〈記憶の反復〔=時間の第二の総合〕〉へと、さらには、われわれの自由が賭けられている最後の〈死の反復〔=時間の第三の総合〕〉へと導くために、最高の域に達することができる。われわれは、三つの例〔ベルクのオペラ『ヴォツェック』、ウォーホルのたとえば、キャンベルスープ缶やマリリン・モンローなどの「セリジェニックsérigénique(シリアル serial)」な作品のシリーズ、そしてビュトールの小説『心変わり』あるいはアラン・ロブ・グリエ脚本、アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートで』〕を、どれほど異なっていようとも、どれほど齟齬していようとも、ともかく指示するだけにしておこう。」

この文章が示唆しているように、時間の三つの総合は、芸術論、文明論、精神分析理論の性格をもっている。

ところで、『差異と反復』のアメリカ版の序文で、ドゥルーズはこう語っている。
「哲学は、科学からも芸術家からも独立してつくられることなどあるわけがない。」

たしかに、ヘルマン・ヴァイルを高く評価するドゥルーズの思索には、量子力学を思わせるイメージがある。ヘーゲルまでの近代哲学に対するドゥルーズ哲学の関係は、広い意味で、古典力学に対する量子力学の関係に似ているところがあると言えるだろう。(もちろん、これに対してはソーカルらの批判はある。)

ところが、『差異と反復』(原書)刊行からおよそ半世紀経過した現在、量子テレポーテーションの実験が成功するや、情報機器メーカーや光学機器メーカーがこれに注目し製品開発に乗り出している。そして、いずれ量子テレポーテーションは兵器に応用されるだろう。自然科学はどれほど発達しようとも、この文明つまり資本主義文明を超えることはできないということだ。「われわれの日常生活が消費物のますます加速された再生産に服従する」という資本主義文明の本質的事態に対して、自然科学は批判の役割を果たしえない。

だから私は、ドゥルーズ哲学を、現代科学との類縁性に着目して称揚するつもりはない。では、ドゥルーズが言う「この文明の現実的な本質をなしているもろもろの錯覚や欺瞞」とは何か。それは、ドゥルーズが、『差異と反復』を読むわれわれに課す問題だろう。私は逃げているわけではない。私はドゥルーズの代弁などするつもりはないし、そんなことはできるはずもない。

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前回の精読箇所から

「➂厳密に言うなら、縮約は時間の総合を成している。」

「⑥時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合〔=受動的総合〕のなかでしか構成されない。」

「⑦この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。」

「⑧このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成する。」

「⑨そして、時間は、まさにその現在のなかで広がる。」

「⑩過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。」

「⑪すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属し、未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。」

「⑫過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの生ける現在の〔二つの〕次元を意味している。」

「⑬その生ける現在は、過去から未来へ行くために、自分の外に出る必要はない。」

「⑭したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成する過去から未来へ行く・・・」


以上についての考察と問題提起。
(続く)


『差異と反復』第二章、第2段落、注釈2 ブログでの精読のスタイル

ブログ画面での精読を新たなスタイルで試みる。前回の精読部分すなわち第2段落の冒頭はほとんどそのままコピーして貼り付けておく(一部は変更する)。今回は、第2段落のおよそ半分を改訳し、文章一つひとつに番号をつけて考察する。

【文庫版198~200頁】
時間の第一の総合—――生ける現在

① そのような変化〔=反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化〕は、どうなっているのだろうか。ヒュームの説明によれば、互いに独立した同一のあるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合する。想像力は、ここではひとつの縮約能力として、言わば〔古典的な写真機の〕感光版として定義される。想像力は、新たなものが現れてきても、以前のものを保持している。


② 想像力は、等質な諸事例、諸要素、諸振動、諸瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくる。Aが現れると、すでに縮約されているすべてのABの質的印象に応じた力で、われわれはBを予期するのである。それは、断じて記憶ではなく、知性の働きでもない、つまり縮約は反省ではないということだ。
〔以上、前回の精読部分〕

〔以下、今回の精読部分〕
➂厳密に言うなら、縮約は時間の総合を成している。④瞬間の継起は時間をつくらない、それどころか、時間をこわしてしまう。⑤言い換えるなら、瞬間の継起は、時間が生まれようとしてはつねに流産してしまう点を示しているだけである。⑥時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合のなかでしか構成されない。⑦この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。⑧このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成する。⑨そして、時間が広がるのは、まさにその現在のなかにおいてである。⑩過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。⑪すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属し、未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。⑫過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの生ける現在の〔二つの〕次元を意味している。⑭現在は、過去から未来へ行くために、自分の外に出る必要はない。⑮したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成する過去から未来へ進む・・・【第2段落途中】

 【考察:私は前回の記事で次のように言った;『差異と反復』第二章における三つの「時間の総合」という名称にはハイデガーの『カントと形而上学の問題』からの影響が見られる。ハイデガーは、カント『純粋理性批判』第一版におけるいわゆる三段の総合、すなわち「直観における覚知の総合」、「構想力における再生の総合」、「概念における再認の総合」に、それぞれ現在性、過去性、未来性をあてがっている。

もちろん、三段の総合は時間にもとづいて成立することを、カント自身が注意している。

『カントと形而上学の問題』のドイツ語原書は、一九二九年に出版され、一九五三年に仏訳されている。ドゥルーズは『差異と反復』第四章でこの仏訳に言及し、かなりの量の文章を引用している(原注17参照)。けれども、『カントと形而上学の問題』におけるカントの三段の総合のハイデガー的解釈には触れていない。しかしドゥルーズはこのハイデガーの書を熟読しているはずだ。

では、『差異と反復』第二章の「三つの時間」の総合は、カントの「三段の総合」のハイデガー的解釈にもとづいて理解されるのだろうか。いや、そんなことはない。

また、ドゥルーズが、以上の点に関して、カントやハイデガーをどれほど正確に理解できているのかと問うのも無意味である。

まず、ドゥルーズの「時間の総合」で何が言われているのかを追究することから始めなければならない。

「時間の総合」とは、「時間を総合する」ということだろうか。では、ここで言われている「時間」とは何か、「総合」とは何か。

上の精読部分でさえ、話が込み入っている。時間は構成されるものであり、現在も構成されるものである。そして、現在のなかで時間は広がる。

われわれは慎重に考えていかなければならない。
(考察続く)

『差異と反復』第2章、第2段落、注釈1 精読は面白い

ここでもやはり、第2段落を細かく区切って精読し、問いを立てていく。やや詳しい注釈をつけ、多少の議論もするが、詳しくは、いずれ拙論「『差異と反復』の解析と再構成の試み1」の続編で論じる予定である。


【文庫版198頁~】
時間の第一の総合—――生ける現在

【注、ここから三つの「時間の総合」が論じられていくのだが、「時間の総合」という名称にはハイデガーの『カントと形而上学の問題』第32節以下からの影響が見られる。ハイデガーは、カントの構想力(想像力)に「現在・過去・未来」の時間的性格を見いだし、さらにカント『純粋理性批判』第一版におけるいわゆる三段の総合、すなわち「直観における覚知の総合」、「構想力における再生の総合」、「概念における再認の総合」に、それぞれ現在性、過去性、未来性をあてがっている。カントの三つの「総合」が「時間の総合」と呼ばれることがあるのは、おそらくこのようなハイデガーの解釈の影響によってであろう。
また、後ほど指摘するが、ドゥルーズの「受動的総合」という名称は、フッサールの『デカルト的省察』第38節「能動的発生と受動的発生」における「受動的総合」という名称を借用したものと推測できる。さらにまた、後で指摘するが、ドゥルーズは、ベルクソンの『思想と動くもの』やフッサールの『内的時間意識の現象学』に出てくる語を使っている。断定的な物言いになるが、ドゥルーズは、ハイデガーやフッサールより、ベルクソンをはるかに深く読み込んでいると言えよう。これについても、他の機会に論じるほかはない。】

① そのような変化は、どうなっているのだろうか。ヒュームの説明によれば、互いに独立した同一のあるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合する。想像力は、ここではひとつの縮約能力として、言わば〔古典的な写真機の〕感光版として定義される。想像力は、新たなものが現れてきても、以前のものを保持している。

【注、「縮約 contraction コントラクシオン」について。ドゥルーズはすでに、『ベルクソンにおける差異の概念』のなかで、ベルクソンにおける有名な物質と持続のそれぞれの定義をとりあげている。すなわち、前者は「弛緩 relâchement ルラ-シュマン」、後者は「縮約contraction コントラクシオン」である。「contraction コントラクシオン」は、ベルクソンにおいては、「収縮」と訳されることが多い。だが、このベルクソンの諸定義は、それほどわかりやすいものではない。『物質と記憶』の該当する文章をすべて精読する必要がある。しかし、ベルクソン精読は他の機会に譲ろう。それはともかく、『差異と反復』における「contraction コントラクシオン」という語の二つの意味については、『差異と反復』文庫版上207頁を参照していただきたい。この箇所にもとづいて、「contraction コントラクシオン」を「縮約」と訳した。】

② 想像力は、等質の諸事例を、諸要素を、諸振動を、諸瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくる。Aが現れると、すでに縮約されているすべてのABの質的印象に応じた力で、われわれはBを予期するのである。それは、とりわけ記憶ではなく、知性の働きでもない。つまり縮約は反省ではないということだ。

【注、ここから第3段落にかけて、フッサールの『内的時間意識の現象学』の時間論と、ベルクソンの『思想と動くもの』所収「形而上学入門」の時間論を思わせる議論が繰り広げられる。ドゥルーズがフッサールやベルクソンに言わば乗って論じているのは、確かだ。問題は、ドゥルーズの時間論の独自性がどこにあるかだ。これについても、注釈から独立したかたちで論じなければならない。ともかく、精読を進めよう。】
(続く)

『差異と反復』第2章、第1段落、注釈11、ドゥルーズを精読してドゥルーズを理解する。

第2章、第1段落の精読

精読が容易になるように、第1段落を七つに区切る。強調するためにアンダーバーを付加する。〈 〉によって修飾関係を明確化る。訳者の判断で〔 〕を用いて原文を補足する。

① 反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。

② ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。


③ 反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔=反復〕は即自を有していないのだ。

そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔=抜き取られた差異・・・文庫版上p219〕の本質である。


⑤ ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〔チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック・・・・・〕〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例つまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。

そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかで生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかで生じるのである。


⑦ Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔=予期〕こそが、それ〔=反復〕の構成 のなかに必然的に入らざるをえない或る根源的な主観性としての反復の対自〔反復という対自〕であるのだろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。


今回のブログ記事に「ドゥルーズを精読してドゥルーズを理解する」というタイトルを付けたのだが、『差異と反復』に関するかぎり、「理解する」とは「これはどういうことなのかと自問しながら、テキストを読み返す」ということだ。だから、一つの段落を七つに区切ったり強調記号を付加したりしたのは、私自身が理解するつまり自問するためでもある。

では自問して答えは得られるのだろうか。答えは読者に委ねられていると、私は言いたい。私にできることは、読者が精読できる訳文をつくること、注釈というかたちでお節介を焼くことである。だが、どこまで注釈すればよいのか、という問題は残る。

まず、私自身、『差異と反復』を全文にわたって完全に理解しているわけではないということがある。したがって、完璧な注釈は私には不可能である。

つぎに、たとえばこの第2章第1段落の読解においても、ヒューム、ライプニッツ、ヘーゲル、ベルクソンに関する或る程度の知識が前提されている。そこで私が、この哲学者たちについて入門的な解説を注釈のなかで行えばそれは冗長になってしまうだろうし、改訳が遅れてしまう。

さらに、たとえば上記の訳文の後ろから2行目に「(反復から差異を)抜き取る」とあるが、反復から差異を抜き取るとはどのような事態なのか、ここでは説明がない。原語は《 soutirer スティレ》である。《 soutirer スティレ》を何と訳すべきか、私はかなり迷ったのだが、ドゥルーズは、第2章はもとより、序論、結論で、折に触れて《 soutirer スティレ》という語を使っている。それらをすべて読み合わせて、私は「抜き取る」と訳した。「反復から差異を抜き取る」ということが論じられている箇所はそれほど多くないので、その都度、「反復から差異を抜き取る」という事態に言及しよう。

だが、「精神」についてはどうか。この語は、『差異と反復』全体で、しかも様々な文脈のなかでおよそ50箇所出てくる。文脈ごとそのすべてを列挙すれば、小さな本ができるほどだ。

たとえば、序論で、「精神と自然の関係」という西洋哲学の古くからの大問題が扱われており、そこで「概念の阻止」という現象が論じられている。この議論は、伝統的な論理学の概念論や、フロイトの無意識概念が前提されている。しかし、論理学やフロイトに馴染んでいない読者のための説明は、注釈の域を越えてしまう。

したがって、『差異と反復』が前提している従来の哲学理論については(たとえば、ヘーゲルにおける疎外された精神の概念や対自概念については)、つまり『差異と反復』の理解に資する従来の哲学理論については、さらに従来の哲学理論と『差異と反復』との関係については、このブログとは関係のない雑誌等で論じることにして、その後、それをかみ砕いたかたちでこのブログに再録しようと思う。

以上で『差異と反復』第2章のイントロである第1段落の注釈を終えることにして、次回から、第2段落の改訳と注釈に移ろう。「時間の総合」と名付けられた、カントとフッサールとハイデガーから影響を受けているドゥルーズの論述群を解析したい。

『差異と反復』第2章、第1段落、注釈10、ジョージ・フリードマン『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン』

「反復の対自」を「反復という対自」と訳し変えるべきかどうか考えているうちに、記事執筆がストップしてしまい申し訳ない。原文を何度も読み返しているうちに、ハードカバー版旧訳はもとより、文庫版修正訳も、『差異と反復』の日本語訳の文章が持たざるを得ない或る不十分さに気が付いた。そこで「反復の対自」の問題はいったん脇に置き、今日は少し回り道をして『差異と反復』に戻ろう。

以前(2015年に安倍首相がアメリカ議会で演説することになったころ)、アメリカの政治的指導層の対日観を知りたいと思い、またその参考になるのではないかと考えて、ジョージ・フリードマン/メレディス・ルバードの『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン「第二次太平洋戦争」は不可避だ』(翻訳、原書ともに1991年)という突飛な題名の本を読んだ。ジョージ・フリードマンがアメリカのシンクタンクStratfor の創立者であることは言うまでもない。

本書は、80年代末における日本企業によるロックフェラー・センターの買収に象徴されるような、アメリカに対する当時の日本経済の強い影響と、その後日本が陥った経済危機という状況のなかで書かれた本である。

たしかに、著者たちの言うように、本書の論議は結論ほど荒唐無稽ではない。(少なくとも、最近辞任した防衛大臣の言動ほど、狂信的でも無責任でもない。)過去の日米戦争、戦後のアメリカの日本占領、その後の日本経済の復興などについての地政学的分析は新味はないが冷静である。

そして、第4章における著者たちの判断、すなわち、アメリカはもう気前の良い勝利者ではない、このようなアメリカに日本はもう甘えられない、にもかかわらず甘えられると思って日本がおのれの利益を追求するなら日米間の対立は高まらざるをえないという判断は、なるほど単純ではあるが、これもひとつのアメリカ的な考え方であることに変わりはない。もちろん著者たちは戦争を煽り立てているわけではない。

けれども、著者たちの一見緻密な資料分析は、国家間の経済的緊張の高まりは必ず戦争を引き起こすという前提のもとになされており、議論は結局のところ、新たな日米戦争の勃発というあらかじめ設定された結論に収斂していく。

どれほど荒唐無稽であろうと、私のような日本人がこの結論とそれを補強する議論から読み取れるのは、、現在の日米軍事同盟の目的が、シーンレーンの確保や、西太平洋のアメリカ支配への日本による手助けや、アメリカによる日本の防衛ということだけではない。日本の急速な軍事力の向上をアメリカは野放しにしないというのも、日米軍事同盟のアメリカ側のひとつの目的だろう。

風雲急を告げる東アジアの情勢は、日米の軋轢を隠しているが、ともかくこの情勢をリアルタイムで知るには、日本のメディアの貧弱で遅い情報よりも、まずアメリカのしかるべきメディアやしかるべきシンクタンクの報告を読まなければならないというのは残念なことだ。

ところで、経済人トランプの2016年の大統領選挙活動中の日本に関する発言が本書のいくつかの主張とよく似ているのには驚いた。

本書では、たとえば「・・・この(貿易均衡の)要求を出さないことには、アメリカは日本の成長政策によって永久に利用されるだけなのである。だからこそアメリカはこれを要求しなくてはならず、日本はそれに抵抗しなくてはならないのだ」(426頁)、「・・・実際、デトロイトの効率を上げるより、日本車の輸出を規制し、アメリカ車の輸入を増やすことを日本に強制するほうが易しいのだ。」(436頁)と主張されている。

トランプは、19991年刊行のこの本から影響されているのではないかと思えるほどである。いやむしろ、アメリカの経済人たちは、25年前から現在に至るまで変わることなくそのように考えてきたのではないだろうか

話を戻そう。地政学的研究の本書とドゥルーズの哲学書『差異と反復』には、どのような関係があるのか。何の関係もない。関係は、本書の訳し方と、『差異と反復』の私の訳し方にある。

フリードマンらの『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン(来るべき日本との戦争)』の「まえがき Preface」の第1段落は、「想像せよ Imagine」から始まる。その後、imagineという動詞が5回繰り返される。しかも、「想像力 imagination」という名詞が末尾に置かれてこの段落が締めくくられる。

欧米の文章をそのまま日本文に移し変えるのは不可能だとは、よく言われることだ。けれども、原文のニュアンスをできるだけ汲み取ってやろうとする努力はできるはずだし、そうするのは翻訳者の務めである。訳文を精読しようとする読者は依然として存在するのだから。

だが、本書の訳者は、imagineという動詞に、「想像する」という訳語を一貫して採用せず、なぜか途中で「予想する」という訳語を使っている。これでは、原文が言わんとすることが損なわれてしまう。

本書によれば、その学問的な研究方法(methodology)は「想像力 imagination」である。著者たちは、20年後の世界を「思い描く envision」ために、この上なく不正確な「想像力」を用いる。したがって、誤る危険性は高い。しかし、20年後の世界が現在とほとんど同じようだと予測する者は、著者たちよりもはるかに間違う危険が大きいと、著者たちは言う。(10頁)

こうして、本書は、imagineという動詞を反復している。

さて、問題は、『差異と反復』の私の翻訳にある。私は、自然な日本語の訳文を作ろうと心がけたあまり、原文における語句の反復を見逃していたし、それに気づいたときでも、その反復を訳文に反映させることができなかった。

これは、たんなる翻訳上のテクニックの問題ではなく、訳文から原文のニュアンスを読み取ることは可能かという問題である。

具体的に説明しよう。『差異と反復』第2章第1段落で、《dans l’esprit ダン レスプリ》という語句が5回反復されている。そして、第2段落では2回反復されている。しかも第1段落でも、第2段落でも、イタリック体で強調されている《dans ダン(なかで) 》がある。

《dans l’esprit ダン レスプリ》は、「精神のなかで」と訳すことができる。けれども、「精神 (esprit エスプリ)」という語がそもそも何を意味するのかについては説明がない。したがって、読者は、ここまで読んでも、自分の手持ちのイメージや理解で、「精神」を分かったつもりになるほかはない。

ところが、第3段落の末尾に原注が付いていて、そこで(原書では同じページの下部で)、《dans l’esprit ダン レスプリ》が、ベルクソンに由来する、あるいは深く関係する表現であることが示唆されている。

私は、《dans l’esprit ダン レスプリ》を、一貫して「精神のなかで」と訳すことをしなかった。そのため、ハードカバー版旧訳でも、文庫版修正訳でも、ドゥルーズが強調しているこの表現を読者が読み取ることは難しくなっている。

では、一貫して「精神のなかで」と訳すなら、この表現は際立つだろうか。日本語訳の文章は縦書きで、しかも、日本語だから漢字も仮名もくっついている。欧米語のように、単語が離されていない。よほど精読しなければ、一目で、「精神のなかで」がしつこく強調されていることを見て取ることができないだろう。

その上、この表現がベルクソン哲学に由来するとなると、ベルクソン哲学に通暁している読者でなければ、ドゥルーズが言わんとしているところを十分に押さえることは難しいだろう。

さて、どうするか・・・。とにかく、「精読」に値する訳文を作らなければならない。
(続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈10

気持ちとしては一、二週間に一度はブログを書くつもりなのだが、起承転結のあるまとまったものを書こうとするので、それが実現できないでいるのだろう。だから、多少断片的なメモのようなかたちになっても、とにかく書いていこう。注釈が、かなり細部にこだわるようになってきたので、読みにくく感じている読者もいるだろうが、この調子で続けていきたい。

注釈と改訳との作業を同時に進めており、しかも2年前に大病をしたので、疲れやすくなっている。というわけで、ブログ執筆がさらにスローモーになってしまったが、いずれ、もっと整理して読みやすい論文に仕上げるつもりではいる。

他方、改訳の必要な箇所が予想以上に多くあることがわかった。これについても書いていこう。

さて、ドゥルーズの言う「対自(プルソワ pour-soi)」とは何か。『差異と反復』第4章原注14で、ドゥルーズは、ヘーゲル『精神現象学』における即自と対自の関係を参照せよと指示している。これからもわかるように、ドゥルーズの「対自」は、ヘーゲルのそれを踏まえた概念である。

しかし『差異と反復』の「はじめに」で言われているように、「一般化した反ヘーゲル主義」という時代の雰囲気のなかで哲学するドゥルーズであってみれば、ヘーゲルの考えをそのまま踏襲しているはずはないだろう。

ドゥルーズは、ヘーゲル『精神現象学』における即自と対自の関係を参照するために『精神現象学』のどの箇所を読めばいいのかは明示していないが、周知のように(とはいっても、もはや周知のことではなくなったが)その「序論」ですでに即自と対自の関係が論じられている。

長くなり面倒なので引用はしないが、例えば中央公論社『世界の名著 ヘーゲル』「精神現象学序論」の104頁を読んでいただきたい。ここは、『精神現象学』に対立する『差異と反復』の立場をわれわれによくわからせてくれる箇所だ。(これについても論じるべきなのだが、寄り道していると注釈が先に進めなくなってしまうので、それについてはいつか書くことにしよう。)

だから、ドゥルーズにおける「反復の対自」の「対自」を、ヘーゲルのそれに還元するのではなく、『差異と反復』そのもの記述から考えてみよう。

「対自」という語は、『差異と反復』の序論、第1章、第2章に、数え方にもよるが8か所出てくる。しかも「対自」の概念が漸進的に掘り下げられて論じられるのではなく、一見バラバラに言及されている。

そこでまず、『差異と反復』(文庫版)の53頁を見てみよう。
(続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈9

『差異と反復』第二章全体のイントロをなす第1段落を四つのセクションに分ける。(絶えず以前の訳文を推敲しているので、以下の訳文はその推敲の結果である。)

① 反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。

② ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔抜き取られた差異・・・文庫上p219より〕の本質である。

③ ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例からつまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。

④ Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔?〕こそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての〈反復の対自〉なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。

セクション①は、もちろん、この第一段落全体のイントロである。

セクション①の冒頭の文章「反復は、・・・その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」は、セクション②で、「そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」と反復される。

そのセクション②の文章「そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」は、セクション③で「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。」と反復される。

観照する精神のなかに生じる「変化」とは、「差異」、「何か新しいもの」と言い換えられている。

そのセクション③の文章「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる」は、セクション④で引き継がれる。「・・・反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化」。すなわち「反復はその反復を観照する精神のなかに差異つまり変化を導き入れる」ということである。

要するに、「何かを変化させる」とは、「変化が生じる」ということであり、「差異つまり変化を導き入れる」ということである。

では「生じる変化、差異、何か新しいもの」とは何か。セクション③の末尾からセクション④の冒頭を続けて読もう。

「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。」

持続する精神がこれまで〈AB、AB、AB、〉を観照していた。そしてAが現れると、いまや「私」は、Bの出現を予期する。すなわち〈AB、AB、AB、A〉の観照の直後に「私」なるものが〈B〉の出現を予期するのである。

以上の文脈からすれば、「観照する精神のなかに生じる変化、差異、何か新しいもの」は、「私はBの出現を予期する」あるいは「私は予期する」を指すと読める。

反復を観照する精神のなかに生じる差異(何か新しいもの)は、「私は(Bの出現を)予期する」である。

もう一度ドゥルーズの文章を読もう。

「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔原語は何でも受けられる代名詞 ce ス〕こそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての〈反復の対自〉なのであろうか。」

では、「それ〔原語は何でも受けられる代名詞 ce ス〕は、何を受けているのだろうか。やはり以上の文脈からすれば、「それ」は、「私は(Bの出現を)予期する」という主観性である。「私は(Bの出現を)予期する」という主観性は、差異(何か新しいもの)である。

さらに、「私は(Bの出現を)予期する」という主観性は、「反復の対自」であるとされる。

では「反復の対自」とは何を意味するのか。そもそも、ドゥルーズの言う「対自 pour-soi プール・ソワ」とは何を意味するのか。これについては、『差異と反復』の序論「反復と差異」で論じられている。
(続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈8

第二章第一段落の解析と問題提起2

「反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神にのなかでは何かを変化させる」というヒュームの主張は、すでにドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社版)のp92で言及されている。ヒュームそのものでは『人性論(一)』(岩波文庫)のp212や、p255前後の叙述の内容にほぼ合致する。

ほぼ合致するのであって、ヒューム自身の論旨に忠実に沿って取り上げられているのではない。むしろ、このヒュームの主張なるものは、ドゥルーズ自身の議論の進行のなかでは、ベルクソンの『時間と自由(意識の直接的所与についての試論)』や『意識と生命』、そしてフッサールの『内的時間意識の現象学』に流れ込んでいく。

しかし、この問題について論じるのは、ブログの記事の限界を超えてしまうし、『差異と反復』改訳のための時間を奪ってしまうので、別の機会を得て論じるほかはない。

ちなみに、「観照する」の原語は、「コンタンプレ contempler」という仏語であるが、ヒューム自身の英語では「contemplate」に相当するだろう。これは、『人性論(一)』では「熟視」と訳されている。とりわけp260を参照されたい。ヒュームでは「観察する observe」と同義で使われることが多い。

けれども私は、ドゥルーズの「コンタンプレ contempler」に、受動的な視の意味を含ませようとして「観照する」と訳した。

さて、この第一段落には、「われわれ」、「ひと」、「私」という人称代名詞が使われている。

「ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく」

「反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか」

ひとはまだ反復を語ることはできない」

「Aが現れると、いまやは、Bの出現を予期する」

ここでは、「われわれ」はドゥルーズ自身と読者を指しているだろう。

「ひと」の原語は「オン on」である。この「オン on」は、文法からすれば、「われわれ」とも、「君たち」とも、「人々」とも訳せるし、文章全体を受動態にして訳して、能動態の主語を明示しないこともできる。

だが私(財津)は、「オン on」を「ひと」と訳した。この「ひと」が誰なのかを考えよう。そして、なぜ「私」が登場するのかをも。


『差異と反復』第二章 第一段落 注釈7

最近、初めてスマホでこのブログの画面を見たところ、パソコン(windows)で作った画面がそのまま再現されず、やや崩れていることがわかった。

訳文の各行に番号を付し、注釈の際どの文章を問題にしているのかをすぐに見て取れるようにするつもりだったのだが、スマホの画面ではその番号付けがほとんど無意味になってしまっている。

他方、一応3年後を目指して『差異と反復』全体の改訳をすすめているのだが、版権の問題があり、またその他に思うところもあって、今後はこのブログで改訳の訳文は公表しないことにした。もちろん、抜けや訳語・訳文の不適切な箇所はそのつど指摘する。

ただし、何度も言うが、第二章の第一段落は第二章全体の序論に相当すると思われるので、ここだけは公表しておいたほうがよいだろう。そう思って、あらためて第一段落を原文と訳文で精読してみたら、やはり不満足なところが出てきたので、再度手を入れた訳文を発表することにする。

今後、文庫版あるいはオンライン版の『差異と反復』を参照できるようにしていただくと、第2段落からの注釈において訳文のどの箇所を問題にしているのかがわかりやすくなるだろう。


第二章第一段落改訳【文庫上p197~198】

【原書p96】

反復〔注1〕 : 何かが変化させられる

反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神にのなかでは何かを変化させる〔注2〕。ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性という決まりごとは、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔注3〕の本質である。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例からつまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。そのかわり、ひとつの変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての、反復の対自なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。

〔注1〕「反復する」という訳語は、おもに自動詞として使う
〔注2〕訳文の修飾関係があいまいにならない限りで直訳を心がけるが、文脈から以下のように意訳してもよいだろう:反復する対象のなかでは、反復によって何の変化も生じないが、その反復を観照する精神のなかでは、反復によって何らかの変化が生じる。
〔注3〕変容の原語は、modification〔モディフィカシオン〕。文庫版上p219および訳注(9)参照。


第二章第一段落の解析と問題提起

まず、「反復する対象」と「反復を観照する精神」が区別される。

反復する対象とは、「反復する事例」と「反復する要素」である。

「反復する事例」とは、〈AB,AB,AB,A...〉という「開いた型の反復」における〈AB〉というシークエンスである。具体例では、〈チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック...〉における〈チック・タック〉である。〈AB〉つまり〈チック・タック〉は、「物の状態」である。

このような物質的反復には、「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」という不連続性と瞬間性がある。これは、「物質の状態」である。

ちなみに、「反復する要素」とは、たとえば〈A、A、A、A〉あるいは〈チック、チック、チック、チック〉という「閉じた型の反復」における〈A〉つまり〈チック〉である。

したがって、「反復する対象」と「反復を観照する精神」の区別は、「物質界」と「精神界」の区別だと言ってよいだろう。「物質界」と「精神界」が区別されているのだ。だが、ここでは物質も或る種の精神である。

物の状態、物質の状態は、現代物理学における物理現象を意味しているわけではない。ここで言われている物、物質は、ライプニッツにおける瞬間的精神とされていることからわかるように、形而上学的な意味での物質である。というより、むしろ、ベルクソンが問題にしているライプニッツの瞬間的精神であろう。

「・・・すべての物体は瞬間的精神又は想起を欠く精神であり、・・・従って物体は記憶を欠く。・・・」ライプニッツ『抽象的運動論』、『人類の知的遺産38、ライプニッツ』p274

「ライプニッツが物質とは「瞬間的精神」であると言ったときには、かれが欲した否かにかかわらず、物質は無感覚だということを宣言しているのではないでしょうか。そこで、意識〔精神〕は記憶であります。」ベルクソン『意識と生命』、『ベルクソン全集5、精神のエネルギー』p16

【続く】
追伸:斜体にすべき文字が斜体にならない。いつか修正する。

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈6 「『差異と反復』の解析と再構成の試み」

4月からの担当授業は大学院での1コマだけになり、来年は定年を迎える。非常勤講師になって以来、初めて執筆に専念できる身の上になる。そう思うと、やりたい様々なことが頭のなかで渦を巻き、長期間ブログの執筆を中断してしまった。

改めてドゥルーズ哲学への取り組み方を考えていたが、同時に、ドゥルーズ哲学にこだわらずに、「精神、身体、生 そして死」について自分自身の考えを反芻していた。反芻といってもウツ状態になっていたわけではない。

最近ラカンの『《盗まれた手紙》についてのセミナー』の新たな訳が発表されたが、我々には我々なりの解釈があるので、我々の訳と注釈(全体の3分の1程度)は、今年の冬か来年の春に、法政大学の公式の雑誌に公表したいと思う。その上で、我々の訳と注釈をこのブログでさらに詳しく検討するつもりでいる。

戦前の「国民道徳要領」の分析も中断している。最近教育現場に強制されようとしている浅薄な道徳教育からすれば、すなわち戦前の道徳教育の問題点を学んでいない道徳教育からすれば、この「国民道徳要領」の批判的吟味はますます緊急かつ重要になっている。

だが、『差異と反復』全体をおよそ三年かけて改訳すると一応出版社に約束したので、これを最優先の仕事にしなければならない。

これが終われば、論文形式ではないかたちで、自由に自分自身の考えを発表していきたいと思っている。

他方、法政哲学会の雑誌「法政哲学13号」に、「『差異と反復』の解析と再構成の試み1」を投稿した。今後、『差異と反復』を改訳するだけでなく、コラージュもしくは離散多様体としての『差異と反復』を言わば暴力的に解析して、『差異と反復』内部の連続する諸要素を連関させる予定である。

そればかりでなく、『差異と反復』の諸要素と、『差異と反復』に至るまでのドゥルーズの諸著作の諸要素にラインを引こうと考えている。ドゥルーズは、『差異と反復』のアメリカ版の序文(『狂人の二つの体制1983-1995』所収)でこう語っているからである。

「・・・・私を襲い熱狂させたヒューム、スピノザ、ニーチェ、プルーストを研究したあと、私は「哲学すること」を試みたのだが、その最初の著作こそ、『差異と反復』であった。その後の私の仕事はすべて、この書物に繋がっていた。ガタリとの共著でさえそうである・・・」

とりあえず、『差異と反復』とそれ以前のドゥルーズ諸著作を比較検討していこう。

たしかに、ソーカルらが言うことに頷けるところがないわけではない。
「・・・これらのテクスト(ドゥルーズとガタリの諸著作)には実に様々な科学のテーマが登場する。ゲーデルの定理、超限基数の理論、リーマン幾何学、量子力学などなど。しかし、これらの取り扱いはあまりにも短く表面的なので、すでにそのテーマに精通しているのでもない限り、読者は何一つきちんとしたことを学びえない・・・」

これは、『差異と反復』における過去の哲学作品からの引用にも言えそうなことである。この批判的な言葉を無視しないでドゥルーズを読んでいきたい。

能書きばかりを並べていないで、具体的に論ぜよという声が聞こえてきそうなので、今日は、問題生産機械としての『差異と反復』第二章第一段落に関していくつか問題を提起するだけにしよう。

さて、この第一段落の冒頭の文章、「反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神においては何かを変化させる。」は、ヒューム『人性論』における叙述のパラフレーズである。ドゥルーズの処女作にあたる『経験論と主体性』(一九五三)もヒューム論であり、そこにはすでにこの冒頭の文章とほぼ同じ叙述がある。

ところで、『経験論と主体性』刊行の直後、一九五五年に、若きドゥルーズは、彼自身が編纂した思想文献資料集を『本能と制度』という題名で出版している。そしてこの資料集は、マルクス『経済学・哲学草稿』からの抜粋で締めくくられている。

ドゥルーズが用いた『経済学・哲学草稿』のテクストは、一九五三年にフランスで初めて出版された仏訳のテクストである。ドゥルーズが抜粋した仏訳の箇所は、一九三二年に刊行されたいわゆるアドラツキー版のドイツ語テクストに合致している。それは、岩波文庫版『経済学・哲学草稿』p133で邦訳されている。

その頁の「享受」およびそこに付された訳注(11)を参照されたい。岩波文庫版の訳者は、この「享受」は、アドラツキー版では「精神 (Geist)」となっていたが、その後に出版されたいわゆるディーツ版では「享受(Genuss)」となっており、内容からしても「享受」の方が適合していると述べている。私は、ここに何らかのイデオロギー上の配慮が働いているのかどうかは知らないが、「精神」で何ら問題はないと思う。ともかくドゥルーズは、「精神(esprit)」を含む箇所を抜粋した。抜粋箇所は長くなるので、詳しい検討は次回に回そう。

ドゥルーズは、当然、『経済学・哲学草稿』をすべて読んでいるだろうから、「唯物論と科学を基礎づけた」というフォイエルバッハへのマルクスの賛辞やヘーゲル批判を知らないはずはない。言うまでもなく、この時期のマルクスはフォイエルバッハの強い影響のもとにあった。

またヒュームを唯物論の立場から不可知論者として手厳しく批判するレーニンの『唯物論と経験批判論』も知らないはずはないだろう。その仏訳はすでに、一九二八年に出版されているのだから。

ところが、『差異と反復』第二章のヒュームから始まる第一段落で提示されている物質の例は、現代物理学が問題にする何らかの物質ではなく、ライプニッツの瞬間的精神(メンス・モメンタネア mens momentanea )という或る種の形而上学精神である。このライプニッツの物質概念は「序論」ですでに言及されており、しかもヘーゲルのいわゆる『自然哲学』における「疎外された概念」、「疎外された精神」としての自然に関連づけられている。しかも、「結論」で再び「疎外された概念」が物質の定義として現れる。

マルクスもレーニンも読んでいたはずのドゥルーズは、何故ヒュームから哲学研究を開始し、精神という概念を強調するのだろうか(実際『差異と反復』では、レーニンへの言及がある)。

だから、当然。ドゥルーズにおける「物質」と「精神」は問題をはらむ言葉である。

だから、ドゥルーズは「物質」や「精神」をどう考えていたのだろうかという問いの立て方ではなく、ドゥルーズは「物質」や「精神」という言葉で、どのようなことを考えていたのだろうかと問う方がよい。

今後は、できるだけ1週あるいは2週に1回のペースでブログを書いていくつもりだ。

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈5

第二章 それ自身へ向かう反復 

【原書p96】
反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】
1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神におい
2 ては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心につれ
3 てゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているというこ
4 とを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、〈瞬間的精神〔メンス・モ
7 メンタネア mens momentanea 〕としての物質〉の状態である。しかし、反復はできあ
8 がるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、「三番目のもの」、
9 また「それは同じものだ」と言えようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。その
10 かわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。その
11 ようなことが、〈変容〉の本質なのである。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
12 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観
13 的なシークエンス〈AB〉は、他の 事例つまりシークエンスから独立している。反復は、(た
14 だし正確には、ここではまだ反復を語ることはできないのだが)、対象においては、あるい
15 は〈AB〉という〈物の状態〉に おいては、何も変化させない。そのかわり、観照する精
16 神のなかに、〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新し
17 いものが、精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予
18 期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるを
19 えない〕或る根源的な主観性としての、反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドッ
20 クスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかに
21 その反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から〈抜き
22 取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

注釈5

4行目の「権利上」の原語は、《en droit アン ドロワ》である。ドゥルーズはこの言い回しを頻繁に使う。なお、以下の注釈を読むにあたっては語学の知識は必要ないが、フランス語、ドイツ語、ラテン語の単語が出てくるので、多少の辛抱はしていただきたい。

こんなことを言うと、「読者をばかにするな」という声が飛んできそうだが、日本の学会では、原書,原語は素通りして翻訳本だけ読み、訳語だけでドゥルーズ研究を発表する研究者もいるのだから、あえてお節介な言動をしたくなるわけである。

ともかく、このドゥルーズの《en droit アン ドロワ》つまり「権利上」という言い回しは、カントの『純粋理性批判』のなかのラテン語《quid juris クイド ユーリス》に由来している(『差異と反復』ハードカバー版p34、p267、文庫版 上p46、下p26。)。このラテン語は、カントでは「権利問題」と訳されるのがふつうである。《quid クイド》が「問題」、《juris ユーリス》 が「権利」。西田幾多郎も「権利問題」という訳語を用いている。

というわけで、私は、カントに由来する《en droit アン ドロワ》を「権利上」と訳した。しかし、今では、「権利=法からして」と訳すのが、いっそう適切であるようにも思われる。が、これでは、くどい訳語になって読みにくいことも確かだ。また、以下で説明するように、『差異と反復』第二章では、そこまでこだわらなくてもよいかもしれない。

ところで、フランス語《droit ドロワ》は、その意味に関しては、ラテン語の《jus ユース、juris ユーリス》に、ドイツ語の《Recht レヒト》に相当するのだが。このフランス語も、ラテン語も、ドイツ語も、「法」と「権利」を意味している。

事実、《en droit アン ドロワ》を仏和辞典で引くと、たいてい「法的に」、「法律上」という意味が出てくる。では、「法」と「権利」では、どちらが基本になるのだろうか。私は、「法」が基本的な意味だと思っている。なぜなら「権利」とは、「法にもとづいて、利益を要求したり享受したりすることのできる資格」をいうのだから。

ともかく、「権利」の根底には、「法」の意味が響いている。

ではカントの「権利問題」とは何か。『純粋理性批判』におけるカントの説明を、岩波文庫上p162から引用しよう。ただし、一部、私の観点から訳文を修正する。

「法学者は、権限と越権を論じるとき、一個の法的な争い〔Rechtshandel レヒツハンデル 訴訟〕において次の二つの問いを区別する。すなわち、何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるかという問い(quid juris クイド ユーリス 権利問題)と、事実に関する問い(quid facti クイド ファクティ 事実問題)とをである。・・・・・たとえば幸福とか運命といった濫用されている概念もあり、なるほどこれらの概念は、ほとんど皆から大目に見られて広く使用されているが、それでもなお、時には、《quid juris クイド ユーリス 何が合法的か 》という問いにさいなまれるのである。」

少し細かい点に触れておくが、カントの用いるラテン語《quid juris クイド ユーリス〔何が合法的か〕》の《juris ユーリス》は、《 jus ユース、法》の属格であり、カントのドイツ語《何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるか》の《Rechtens レヒテンス》は、《Recht レヒト 法》の古いかたちの属格(2格)である。だからカントのドイツ語は、ラテン語の直訳とみなすことができる。したがってまた、従来「何が権利〔Rechtens レヒテンス〕であるか」と訳されてきたところは、「何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるか」と訳すべきであろう。

結局、私が言いたいのは、ここでカントが用いている《《Recht レヒト》の意味は「権利」というより「法」に近い。だから、従来「権利問題」と訳されてきた《quid juris クイド ユーリス》は、「合法性の問題」と訳すべきだろうということだ。

したがって、ドゥルーズの用いる《en droit アン ドロワ》は、「法からして」と訳すべきかもしれない。事実、『差異と反復』の独訳では、《von Rechts wegen フォン レヒツ ヴェーゲン》すなわち「法に従って」と訳されている。

他方、英訳では、《in principle 原理的には》と訳されていて、権利と法の曖昧さは投げ捨てられている。これはこれでまた根拠のある訳し方であるが、法と権利のグレーゾーンを残した訳の方が生産的な読みにつながると思ったりもする。

しかし、ドゥルーズ自身、《en droit アン ドロワ》を言い換えている。ハードカバー版p121下段、文庫版p201。
「どの一打も、どの振動あるいは刺激も、〈論理的には〉他のものから独立しており、瞬間的精神である。」この「論理的には logiquement ロジックマン」を、「権利上 en droit アン ドロワ 」の言い換えとみなすことができる。

では、「権利上」の代わりに、「法に従って」、「原理的には」、「理論的には」といいかえれば、ひとつの瞬間的物理現象は後続する物理現象に影響を及ぼさないという、ドゥルーズの主張を受け入れることができるのだろうか。この主張には、どのような権利、法、原理、論理が前提されているのだろうか。

物質あるいは物理現象は、「瞬間的精神」だと言われている。これは、もちろんライプニッツの言葉である。では、ドゥルーズは、物質をどう考えているのだろうか。
                                     (続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈4

言うまでもないが、いま、注釈は第1段落について行っている。第1段落の本文(訳文)と注釈とを読み比べやすいように、注釈ごとに、毎回、冒頭に第1段落の訳文全体を掲載することにする。

なお、訳文は絶えず見直しているので、前回までの訳文が変更される場合がある。今回もそうだ。

ところで、『差異と反復』の独訳(Joseph Vogl訳)が1992年の春ごろに発行され、やはり1992年の秋に私の翻訳の初校ゲラが出たとき、それを手に入れることができた。しかし、もう時間がなく、この独訳を十分に参照することができなかった。だが、今回『差異と反復』を全面的に見直すにあたって、仏語原文と独訳とを完全に比較しながら、改訳の作業を進めるつもりである。

なお、英訳(Paul Patton訳)が1994年に発行されたが、賛成できない訳し方があり、この英訳を参照すべきかどうか迷ったが、学べる点があるかもしれないので、やはり参照することにした。

独訳、英訳で、注目すべきところがあれば、このブログで論じてみたい。



凡例
1、〈 〉は、文意をとりやすくするために、あるいは重要な語句だと訳者が判断した場合に、訳者が補った記号。
2、〔 〕は、訳者が補った文章や言葉を示す。
3、訳文のイタリック太字は、原文でのイタリック体を示す。  
4、:は、原書に記されている記号。
5、各行に番号を付した。ただし、原書の行に対応しているわけではない。文庫版『差異と反復』の行にできるだけ合致するようにした。
6、原文の代名詞(「それ」)や所有形容詞(「それの」)は、それらが指している語が自明だと思われるものは、くどいようだがその語に置き換えて訳したが、「それ」と訳してその直後に〔〕を置いて、その代名詞等が指していると思われる語を補った場合もある。

第二章 それ自身へ向かう反復 

【原書p96】
反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】
1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神におい
2 ては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心につれ
3 てゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているというこ
4 とを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、〈瞬間的精神〔メンス・モ
7 メンタネア mens momentanea 〕としての物質〉の状態である。しかし、反復はできあ
8 がるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、「三番目のもの」、
9 また「それは同じものだ」と言えようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。その
10 かわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。その
11 ようなことが、〈変容〉の本質なのである。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
12 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観
13 的なシークエンス〈AB〉は、他の 事例つまりシークエンスから独立している。反復は、(た
14 だし正確には、ここではまだ反復を語ることはできないのだが)、対象においては、あるい
15 は〈AB〉という〈物の状態〉に おいては、何も変化させない。そのかわり、観照する精
16 神のなかに、〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新し
17 いものが、精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予
18 期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必 然的に入らざるをえない〔関与せざるを
19 えない〕或る根源的な主観性としての、反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドッ
20 クスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかに
21 その反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から〈抜き
22 取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

注釈4
 
精神と物質を、あるいは心と物をビシッと定義した上で、そこから両者の差異や、それぞれの特徴を説明していく、という論じ方をドゥルーズはしない。概してドゥルーズは、定義されていない、あるいは意味が自明ではない言葉を用いて、散文と詩の中間のような文体で論を進めてゆく。だから、ドゥルーズの論述に対して、わかりにくい、あるいは説明不足だという抗議が寄せられることがある。

たしかに私も、『差異と反復』を訳しているとき、絶えず、もう少し説明してくれてもいいのではないかという気持ちをもっていた。

だが、読み込むうちに、それは、ないものねだりだと思うようになった。私がドゥルーズの思考の展開に追いついてゆけないので、そんな気持ちをもってしまったのだろう。

しつこく何故だ、どうしてなんだ、と問いかけながら読む以外に、ドゥルーズに対応する方法はない。もちろん、『差異と反復』を読む上で、哲学史や精神分析や自然科学に関する基本的な教養は必要ではあるが。

たしかに、ドゥルーズを利用できれば、それでよいと触れ回る人もいる。しかし、私はそのような人には関心がない。

人々が、ドゥルーズという名前を聞いいただけで威光を感じるうちはよい。だが、私が恐れるのは、ドゥルーズ自身の文章を読んでも何がなんだかわからないという評価が世間に定着して、いつかドゥルーズ自身が読まれなくなってしまうことだ。

私自身、『差異と反復』を完全に理解できているわけではない。けれども、この書には、多くの人が感じているように何か尋常ならざるものがある。それを追究したいと思うばかりだ。その結果がどう出ようと、私にできるのはそれを甘受することだけである。

                        *

さて、物理現象の反復とは何か。いま私は、物理現象と言ったが、もちろんドゥルーズはこのような表現はしない。

ドゥルーズは、冒頭で、「反復は、反復する対象において、何も変化させない」と語る。この「反復する対象」を物理現象とみなそう。

「対象」とは「物の状態」である。「対象においては、あるいは〈AB〉という〈物の状態〉に おいては」と言われている(14~15行目)。

だから、「対象」たる「物の状態」が反復する。例えば「AB」、「チックタック」が反復する。

他方、「物質の状態」という言い方もある(7行目)。

「物質の状態」とは、瞬間的であり不連続な反復である。それは、「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」と言われる(5~6行目)。したがって、「物質の状態」とは、「物の状態」、「AB」、「チックタック」の反復であろう。

「物の状態」とは、反復するはずの「対象」、「AB」、「チックタック」を指している。「物質の状態」とは、瞬間的、非連続的な反復、つまり「物の状態」の反復を指している。

けれども「物の状態」も「物質の状態」も、結局、同じことになる。なぜなら、「物質の状態」としての反復では、瞬間ごとに同じひとつの「物の状態」つまり同じひとつの「AB」しか現れていないはずであるから。

先立つ瞬間における「物の状態」、「AB」は、後続する瞬間においては保存されずに消えてしまう。

結局、「物質の状態」という反復のどの瞬間においても、「物の状態」としてのABしか現れていないのだ。

だからこそ、物理現象の反復、つまり「物の状態」の反復は「反復する対象において、何も変化させない」と言えるのだろう。

けれども、こんな単純な瞬間説にもとづいて、「反復は、反復する対象において、何も変化させない」と言ってよいのだろうか。

自然界において、時間を瞬間の連続と考え、先行する瞬間における物理現象は後続する瞬間における物理現象に何の影響も与えない、と言ってよいのだろうか。

だが、ここで「権利上」という哲学用語が生きる。ドゥルーズはこう言う。「反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているということを権利上折り込んでいる」(3~4行目)。

では、ドゥルーズが言う「権利上」とは何を意味するのか。
                                                                   (続く)

                                           

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈3

注釈3   

この第一段落の哲学史的背景には、ヒュームはもちろん、スコラ哲学、ロック、ライプニッツ、ヘーゲル、キルケゴール、ベルクソン、フッサールなどがたたずんでいる。ドゥルーズの極度に繊細な叙述がどのように「ドゥルーズ自身の理論」を提示するのか、これを見極めるのは、たしかに難しい。おそらく、「ドゥルーズ自身の理論」という観点からドゥルーズを読もうとすること自体が、そもそも的外れな態度なのかもしれない。以下で考察するように、ドゥルーズの「ずらし方」に、ドゥルーズのクリエイティブな理論構成が潜んでいるのだろう。たとえば、髭をはやしたヒューム(変容させられたヒューム)を見るのではなく、ヒューム理論がずらされて、他の哲学者の理論に接続されていく仕方を見るということだ。

しかし、とにかく読んでいこう。

1行目は反復する対象(物理現象)と、反復を観照する精神とを区別している。そして対象には変化は何も生じないが、精神には何らかの変化が生じるとされている。

これは、おそらく、次のようなヒュームの叙述にもとづく主張だろう。
「さて上述のように、力能観念を起す若干の類似する諸事例は、互いに何らの影響も持たず、諸観念の原型となり得る如何なる新しい性質をも事物〔自身〕のうちに産むことは決してできない。しかもそれにも拘らず、この類似の観察は、心のうちに力能観念の真の原型である新しい印象を産むのである。」【岩波文庫『人性論』(一)p255】

(注)ヒュームの言う「力能 power」とは、原因が結果を起す作用原理を意味している。たとえば一つの玉が他の玉にぶつかって運動を伝える場合である。

ところで、ヒュームの言う心のうちに産まれる「新しい印象」とは、類似する諸事例の一つであるのでも、その部分であるのでもない。つまり、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉と来て、Bの出現を予期する、ということではない。

ドゥルーズは、こう述べている(13行目以下)。「反復は、対象においては、あるいは〈AB〉という〈物の状態〉においては、何も変化させない。そのかわり、観照する精神のなかに、〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。」

しかしヒュームは、「類似する諸連接(conjunctions)の若干の事例は、心を導いて力能および必然性の念(notion)に到らせる。」【同書p255】と述べている。

すなわち、ヒュームにおいては、玉どうしの衝突の反復から、力能や必然性というまったく新たな印象(ひいては観念)が心のなかに産まれるとされているのだが、ドゥルーズにおいては、反復する事例(諸要素の組み合わせ、つまりABに含まれるひとつの要素Bの出現の「予期」が、新たなものであり、そう意味での新たなものが精神のなかに生じるのである。

しかし、ヒュームも、一筋縄ではいかない哲学者である。
「先ず第一に言えることであるが、未来が過去に類似するという仮定は、如何なる種類の証明も根底とせず、その由って来るところは全く、在来の慣れ来った事物系列と同じ事物系列を未来にまで期待するように心を限定する(determine)習癖(habit)である。この過去を未来に転移する習癖ないし限定は、遺漏なく完全である。」【同書p212】

ヒュームはここでは、過去の反復によって、心は、何か新たなものではなく、過去と類似したものが未来において出現するのを期待するようになると主張している。こうしてみると、

ドゥルーズがここで、ヒュームを口実にして問題にしているのは、
1、反復の効果は、反復する物理現象にもたらされるのではなく、反復を観照する精神にもたらされるということ、
2、反復は、時間(過去から未来へ向かうこと)に深く関わっているということ
であろう。

その問題の展開は、反復がもたらす「新たなもの」の意味をずらせることによって可能になっている。

では、物理現象としての反復とはどのようなことか。そして、精神とは何か。
                                (続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈2

注釈2

もちろん注釈には様々なリスクがある。特に『差異と反復』の文言の出典を明らかにする作業には独特の怖さがある。

たとえば、10行目で、ヒュームは〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの事例の反復をとりあげていると、ドゥルーズは言う。ドゥルーズは、第二章の原注1で、『人性論』の参照箇所を挙げているが、少なくともそこにその例はない。『人性論』すべてを読んでも、見当たらない。

しかしそれは私の見落としで、他の箇所あるいはヒュームの他の著作にあるのかもしれない。出典に関して注釈をしようとすると、間違いに陥る危険がつねにある。

だが、他方、出典を明確に指摘できたところで、ドゥルーズ自身の考え方つまり理論が把握できなければ意味がない。

ドゥルーズの方法論をもう一度引用しよう。「哲学史とは、哲学そのものの再生=再生産である。哲学史における報告は、正真正銘の分身=複製として振舞わなければならないだろうし、その分身=複製に固有の最高度の変容を包含しなければならないだろう。」

そしてドゥルーズは、これにこう続けている。「口髭をはやしたモナ・リザ〔マルセル・デュシャンのあまりにも有名な作品〕と同じ意味で、哲学的に髭をはやしたヘーゲル、哲学的に髭をそったマルクスを想像してみよう。」これを真に受けないドゥルーズ研究者は多い。

『差異と反復』に登場する哲学者たちは、実在した哲学者たち、あるいは従来の哲学史で扱われた哲学者たちの分身=複製、それもドゥルーズが創作した分身=複製ではないだろうか。たとえばヒュームが、そうなのだろう。

『差異と反復』は、「変容した分身=複製によって哲学を再生し再生産する作業=作品」であると言ってよいだろう。ここにまた、注釈のリスクがある。注釈が、『差異と反復』において過去の哲学がどのように変容させられたのかを厳密に明らかにしようとするなら、それは無理な話で、また、あまり意味がない注釈になるだろう。

だから私は、このブログの注釈において、『差異と反復』のコラージュ的な行論に素朴に問いかけ、その問いによって思索を展開しようと思う。私の問いと思索が、読者自身の思索に資するところがあれば幸いである。

今回は、能書きばかりで申し訳ない。

『差異と反復』第二章第1段落注釈1

第二章 それ自身へ向かう反復 

反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、原書p96、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】

1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神に
2 おいては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心に
3 つれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているという
4 ことを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、瞬間的精神としての〈物質の状態〉
7 である。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、
8 「三番目のもの」、また「それは同じものだ」という言い方ができようか。反復は、即自を有していないのだ。
9 そのかわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。
10 そのようなことが、〈変容〉の本質である。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
11 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観的な
12 シークエンス〈AB〉は、ほかの事例つまりシークエンス〔AB〕から独立している。反復は、
13 (ただし正確には、ここでは まだ反復とは言えないのだが)、対象においては、つまり
14 〈AB〉という〈物の状態〉 においては、何も変化させない。そのかわり、観照する精神のなかに、
15 〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、
16 精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。
18 これこそが、反復の構成に必然的に関与せざるをえない或る根源的な主観性としての、
19 反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。
20 すなわち、反復を 観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、
21 すなわち、精神が反復から〈抜き取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ.。


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『差異と反復』第二章 第一段落 注釈

以下の注釈は、「注釈」とは言っても、ドゥルーズのテクストの「解読」である。そこには、テクストについての私の視点からする疑問の提起と、その疑問をめぐる私自身の考察が含まれる。したがって、この注釈は『差異と反復』についての、弱点が目につく解読である。

【】の記号のなかは出典などを示しているので、読むのが煩わしい読者は、省略してさしつかえない。


注釈1

1~2行目の「反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神においては何かを変化させる。」という文章は、その直後に「ヒュームのこの有名なテーゼ」とあるように、ヒュームの『人性論』の叙述を指している。ドゥルーズは、早くも、彼の処女作『経験論と主体性』において、同様のことを述べていた。【ドゥルーズ『経験論と主体性』河出書房新社p92、ヒューム『人性論』(一)岩波文庫、第一編第三部の第十二節~第十四節、とりわけ『人性論』(一)p212、241~242、p254~255、p260を参照。】

ドゥルーズは、『人性論』のごちゃごちゃした叙述を選択的に問題にしている。ここでは、ドゥルーズは、「物質の状態」あるいは「物の状態」と「精神」とを区別して、両者における「事例の反復」を比較対照しながら、二種類の反復、物質における反復と精神における反復の特徴を記述する。もちろん、物質と精神の区別の根拠はどこにあるのか、いや、そもそも物質とは何か、精神とは何かと、問わなければならないだろう。これについては、以下で、考察しよう。

「反復する事例や要素」の「事例(フランス語ではcas)」とは、具体的には〈AB、AB、AB、A・・・・・〉という反復における〈AB〉である。さらに具体的には〈チックタック、チックタック、チックタック、チック・・・・・〉の〈チックタック〉が事例である。この「事例の反復」は開いている。つまり最後の〈チック〉の後に何が来るか、あらかじめ決定されていない。

それに対して、「要素」とは、第二章の第4段落で示されるように,ベルクソンにおける〈A、A、A、A〉というタイプの反復における〈A〉を指す。さらに具体的には〈チック、チック、チック、チック〉の〈チック〉を指す。これは、ベルクソンの『意識に直接与えられているものについての試論』の例である。【白水社『ベルクソン全集1』、p119参照】この反復は、閉じている。ベルクソンの説明では、時刻を知らせる時計の打音である。4時の打音が問題にされている。つまり、音が四つなったら終わりである。しかしそれにしても、時刻を知らせる時計の打音が〈チック〉だというのは、少し変ではないかと思われるかもしれないが、以下に述べるように、ドゥルーズはちゃんと考えて、このような例を提示している。

「反復を観照する精神」の「観照する」とは、どのようなことをすることだろうか。その原語は《 contempler コンタンプレ》である。私は、ドゥルーズが用いるこのフランス語を「観照する」と訳した。訳語「観照する」で、科学的な意味での観察でもなく、私たちが日常行っている意志的な観察でもなく、たんなる写生主義の「視」でもない、或る受動的な「見える」、「聞こえる」という状態を指し示そうとした。

ちなみに、ヒューム自身は、《 observe 》、《 contemplate 》という英語を用いている。岩波文庫訳では、「観察する」、「熟視する」と訳されている。『人性論』の文脈では適切な訳である。

では、精神とは何か、そして、瞬間的精神としての「物質の状態」とは何か。

表に出されていないが、ここでドゥルーズが参照している著作は、ベルクソンの『精神のエネルギー』の冒頭に置かれた「意識と生命」という論文(英語での講演にもとづく)の「意識・記憶・予想」という節である。

ドゥルーズは、ヒュームの文脈に、いきなり断りもなくベルクソンの話をつなげているのだが、そうしたやり方は、『差異と反復』という哲学書の書き方(コラージュ)なのである。

『差異と反復』の「はじめに」では、こう述べられている。「哲学史は、絵画における或るコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきだと、わたしたちには思われる。哲学史とは、哲学そのものの再生=再生産である。哲学史における報告は、正真正銘の分身=複製として振舞わなければならないだろうし、その分身=複製に固有の最高度の変容を包含しなければならないだろう。」【ハードカバー版p17、文庫版上p18、ただし訳文を少し修正した。今後、訳文の修正については、言及しない】

さて、ドゥルーズの視点から、ヒューム/ベルクソンにおける「精神」と「物質の状態」に話を戻そう。

(次回に続く。できるだけ勤勉に、しかし寿命を縮めないようなペースで、注釈を書いていくつもりである。なお、すでに書いた文章を、後になって変更する場合もある。)                       


『差異と反復』読解再開1

はじめに

『差異と反復』第二章の読解を再開する。段落ごとに改訳し、精読に耐える訳文をつくるよう務める。とはいうものの、文体は文庫版の訳文をできるだけ生かすようにする。

『差異と反復』の拙訳は、すでに2万部以上発行されている。多くの図書館も購入しているだろうが、およそ2万人以上の個人の読者が購入されたはずだ。その方々は、おそらく、ドゥルーズについて書かれた「ドゥルーズ本」からではなく、『差異と反復』そのもので、ドゥルーズの思想を理解したいと思われているのではないだろうか。そのためにも、重ねて言うが、私には、精読に耐える訳文をつくる義務があるだろう。

このブログでは、一行ごとに番号を付し、注釈でどの語句が問題にされているのかが、すぐ把握できるようにした。それぞれの行をなるべく文庫版の行に合わせるようにしたが、訳文の変更や、文庫版における抜けの箇所の修正のため、、多少のズレが生じるはずである。

注釈は、文庫版にあるような無味乾燥なものではなく、エセーのようなかたちで叙述することにした。

『差異と反復』の第二章から始めるが、第二章が済めば、序論に戻って、すべての章を順に改訳しながら、注釈していく予定である。

『差異と反復』における「精神分析」論と、「数学」論は、世界的にも未開拓な分野である。私は、精神分析の専門家でも数学の専門家でもないが、ドゥルーズの「精神分析」論と「数学」論の検討に着手するつもりである。

いま、昨年「日本ラカン協会」で口頭で発表したものに手を加えて論文を制作しているところである。その目的は、処女作『経験論と主体性』から『アンチ・オイディプス』までを通覧して「欲望(désir)」の言葉遣いを分析し、ドゥルーズの欲望概念を明確化することである。これが、ドゥルーズの「精神分析」論の検討につながるはずである。

問題は、ドゥルーズの「数学」論である。私は、『差異と反復』第4章で、畏友荻原真氏の協力を得て、数学に関する訳注を付しておいたが、その後、翻訳の仕事に追われたこともあって、ドゥルーズの「数学」論に立ち入る気力がなかなか出てこなかった。

ところで、ドゥルーズの前期著作の『ベルクソンの哲学』(その重要性はどれほど強調しても強調しすぎることはない、だからこそ、徹底的な改訳が望まれる)で、フロイトの無意識とベルクソンの無意識が比較検討されている。そこでは、ベルクソンの持続概念に関して、リーマンの多様体概念が引き合いに出されている。

ドゥルーズは原注で、リーマンの著作のほか、ヘルマン・ワイル(ヴァイル)の『空間・時間・物質』の仏訳を参照するよう指示している。その邦訳は、ドイツ語原書第五版にもとづいて、1973年に出版されており、現在は文庫本で再刊されている。

ところが、その『空間・時間・物質』冒頭の「第五版に対する序」が、次のような文章で締めくくられている。「本書の第4版の仏訳と英訳が出ている。しかしながら仏訳は“自由な”訳なので私は部分的にはそれの内容に関してあらゆる責任を拒絶せざるを得ない。」これには、参った。

ドゥルーズの多様体論は、ヴァイルが責任を拒絶した仏訳に依拠しているのだろうか。ヴァイルが責任をもてないと言う仏訳はまだ私の手もとに届かないが、それがドゥルーズの多様体理解に影響を及ぼしているのかどうかを、いずれ、ドイツ語原文と仏訳とを比較検討することによって、このブログで報告できるだろう。もちろん、たとえ仏訳が不適切な翻訳であったとしても、ドゥルーズの着想に意味があれば、それでいいわけだが。

たしかに、ドゥルーズの「数学」論を扱うのは、私には勝った仕事であるが、『差異と反復』はそのすべてが数学的な観念のなかに浸っており、わたしのような数学の素人が、たとえばリーマンやカントルに関するドゥルーズの議論の注釈を行うのは、必ずしも無駄な努力ではないと自分に言い聞かせている。

ドゥルーズの「数学」論に取り組む必要性を、あらためて感じさせてくれたのは、例のソーカル事件によってである。いや、ソーカル事件そのものというより、ソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』と題された翻訳本によってである。不愉快な翻訳本であったので、ほったらかしにしておいたが、『差異と反復』の読解を再開するにあたって読み返し、やはりソーカルらのドゥルーズ批判に何らかの対応をすべきだと考えた。

ソーカルらのドゥルーズ批判の要点は、彼らの次のような文章によく現れている。「これらの〔ドゥルーズの〕テクストのなかには、ひとにぎりの判読可能な文章がある。陳腐なものもあれば、間違っているものもある。・・・・・要は、すでに150年以上も前に完全に解決された数学の問題について、人を煙にまくような議論を展開する意味がどこにあるのかということだ。」

しかし、ソーカルたちよ、また翻訳者の方々よ、もう少しフェアな態勢をとってもよいのではないか。ドゥルーズは、『差異と反復』のなかで、以上のような批判にすでに答えている。そして彼らは、その答えになる部分をそっくり削除して、引用を行っているのである。『「知」の欺瞞』p217の引用の8行目である。

そこで削除されたドゥルーズの文章は、こうである。「したがって、野蛮だとか、学問以前的だとか言われる、微分法の昔の解釈のなかには、或る宝が存在するのであって、これを無限小という不要鉱物から取り出さなければならないのである。・・・それら三人(マイモン、ロンスキ、ボルダス=ドゥムーラン)には多大なる哲学的な富があり、これは現代の学問上のテクニックの犠牲にされてはならない。・・・・・」(『差異と反復』、ハードカバー版p263、文庫版下p18)

ドゥルーズは、微分法に関して、たんなる数学的問題に取り組んでいるのではない。『差異と反復』は哲学書であることを、ソーカルらは十分に理解していないようだ。いや、理解しているからこそ、このドゥルーズの叙述を削除して引用したのだろう。

ソーカルらのドゥルーズに対する無理解ぶりは、以下の文章にもよく現れている。「もちろんドゥルーズが、好むなら、これらの言葉を二つ以上の意味で使うのは歓迎だが、そうしたいならば二つの(あるいはより多くの)意味をきちんと区別し、それらの用法の関係を明確に説明する議論を示す必要がある。」(同書、p222)

ここまでくると、申し訳ないが愚者たちよと言いたくなる。ドゥルーズは、言葉を一種のポリフォニー的に使用して哲学的議論をしている場合が多いことを、ソーカルらは知らないようだ。彼らは、『差異と反復』のうち、自分らでもこなせそうなところだけを読んで速断し、ドゥルーズ批判をしているが、そんなことをしてもしょうがないだろうに。ドゥルーズ批判をしたいのなら、ドゥルーズは、ポリフォニー的な言葉遣いによって思考を解放しようとしていることぐらい知っておくべきだ。ドゥルーズは、既存の知を教える教科書を書いているのではないぐらいのことを。

ソーカルらは、哲学に理解を示すかのような発言をしているが、結局は哲学嫌いなのだろう。ところで、ドゥルーズが参照しているヘルマン・ヴァイルは、『連続体 (Das Kontinuum)』という本を書いている。邦訳は2016年2月に出た。そこには、直観主義を批判する次のような文章がある。

「その直観で与えられたような連続体は数学的な学問分野の基礎にはなりえない。・・・・・この数学的な概念世界の、直截的に経験された現象学的時間( la durée )の連続性に対する、深刻な異質性を、強調して示唆したことは、ベルクソンの哲学の貢献である。〔数学な概念世界と、直截的に経験された現象学的時間(持続)の連続性とは、異質であるということを、ベルクソンは示唆したということ。―――財津の補い〕(例えば概念が論理的な存在と成るようには)意識によって与えられたものが単純に存在とはならず、常に持続して変貌をとげ続ける現在―――主体がこれが現在だと言えるという意味で―――は既に現在ではない、というのは何によるのか?」(邦訳p88~89)

数学者ヴァイルは、おのれのあるべき立場を追求して、哲学と対話しているのである。根本的なところで新たな視界を開こうとするとき人は哲学する、ということのよい例である。

先ほど私は、ソーカルたちばかりでなく、その翻訳者たちにも苦言を呈した。なぜかと言うと、『「知」の欺瞞』の訳注で、彼らは、『差異と反復』の拙訳の不備を指摘して、私が数学に無知であるかのような印象付けを行っているからである。

まず、邦訳『「知」の欺瞞』p206の原注(197)で、ソーカルらは、カントルの「超限基数」に関するドゥルーズの(くだらない?)議論の例として、ドゥルーズの『哲学とは何か』の箇所を出している。このソーカルらの書のフランス語版と英語版もまだ私の手もとに届いていないので、原書でどうなっているのかわからないが、その原注では、『哲学とは何か』の英訳の頁数が示されており、おそらく訳者らの手によって私の拙訳ハードカバー版(1997年)の頁数も指示されている。

邦訳『「知」の欺瞞』は日本向けの本であろう。日本のドゥルーズ研究者はドゥルーズをフランス語原書で読んでいる、英訳などには頼っていない。だから、ドゥルーズの著書の英訳の頁数をそのまま記しても意味がない。なぜ、訳者らは、ドゥルーズのフランス語原書の頁数を出さなかったのだろうか。これは、私にとって、後述するようにささいな問題ではない。

以下いささか細かい議論になるが、邦訳『「知」の欺瞞』p206の原注(197)で指摘されたドゥルーズの『哲学とは何か』におけるカントル論の箇所で、私はフランス語《 puissance 》をピュイサンスというルビをふって「濃度」と訳した。当たり前の訳し方である。また《 puissance du continu 》を「連続体の濃度」と訳しておいた。(ハードカバー版p171、 文庫版p204)『「知」の欺瞞』の訳者らは、拙訳の頁数を挙げているのだから、当然拙訳のこの部分を読んでいるはずだ。

他方、すでに『差異と反復』でも《 puissance du continu 》というフランス語が使われており、ここではそれを私は「連続体の力=累乗」と訳した。つまり、《 puissance 》を数学用語「濃度」ではなく「力=累乗」というドゥルーズ用語として訳した。(ハードカバー版p85、 文庫版p138)

ドゥルーズは、ほかに、《 puissance du 》という表現を様々に使用している。たとえば、《puissance du faux》、《puissance du fantasme》など、前者は「〈偽〉の力」、後者は「幻想の力」と訳した。 私は、『差異と反復』では、ドゥルーズのポリフォニー的な言葉遣いと、訳語の統一との兼ね合いに苦しんだ。「連続体の力=累乗」には、当然、訳注を付け、数学的観点からは「連続体の濃度」と訳すべきであることを示すはずであった。

しかし、『差異と反復』の翻訳が完成に近づいた頃、出版社から訳注が多すぎるのではないか、特に数学に付した訳注は過大ではないかとの指摘を受け、私は数学に関する訳注を大幅にカットしてしまった。その作業で、たしかに混乱はあった。

さて、邦訳『「知」の欺瞞』p216で、『差異と反復』の上記の「連続体の力=累乗」が引用されており、それに原注(210)が付され、その原注のなかで書かれた訳注に、次のような文章がある。
「文中で「連続体の力=累乗」と訳されているpuissance du continuum の数学用語としての訳は「連続の濃度」である。英語のpowerと同様に、フランス語のpuissance は日常的な意味での「力」などのほかに、数学では「べき乗(累乗)」の意味と集合論での「濃度」の双方の 意味で用いられる。」

教えてくれるものだ。しかし、指摘しておかなければならないことがある。まず、『差異と反復』原文では、《puissance du continuum》ではなく、《puissance du continu》というフランス語が使われている。人にイチャモンをつけたいのなら、引用ぐらい正確にしておくべきだろう。またドゥルーズは、《 puissance 》という語を、日常的な意味での「力」で使っているのではなく、その語の根底に、ニーチェの「力の意志(権力への意志)」における「力 Macht=puissance」の意味を、もちろんドゥルーズによる解釈のニーチェ的「力」の意味を響かせている。

『哲学とは何か』で私が「濃度」という訳語を使用しているのを彼らは知りながら、あたかも、私が数学に無知であるかのように見せかける彼らのやり方には、いかなる意図があるのだろうか。

《puissance 》に数学的「濃度」の意味があることぐらい、仏和辞典や、数学辞典を引けば、だれでもわかることだ。

さらに不愉快なやり方は、邦訳『「知」の欺瞞』p220の原注(211)のなかで書かれた訳注である。たしかに、私は、「依存してはならない」と訳すべきところを、「依存してはいない」という訳文を作ってしまった。(『差異と反復』)(ハードカバー版p263下段6行目、文庫版p19、4行目)こうなったのは、「(否定文では)~してはならない」を意味する《 devoir 》という語を見逃してしまったためである。

かれらは、その原注(211)のなかの訳注で、上記の箇所に関して、「数学の立場から読むと、・・・・・「依存してはならない」と解釈できる」と指摘する。ここで、私がフランス語の動詞を一つ見逃すというミスを犯したことを、私が「数学の立場から読」めていないとしたいわけだ。

とはいうものの、拙訳『差異と反復』の最近の版でも、語句の見逃しや抜けはすべて修正されていない。また、訳語や訳文そのものを修正したい箇所もある。それには長い時間がかかるので、ブログで『差異と反復』の訳文の全面的見直しと、注釈を遂行したいと思うわけである。

なお、今回は、訳文を提示するだけにして、近日中に注釈を掲載するつもりである。

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『差異と反復』訳と注釈

凡例
〈 〉は、文意をとりやすくするために、あるいは重要な語句だと訳者が判断した場合に、訳者が補った記号。
〔 〕は、訳者が補った文章や言葉を示す。
訳文のイタリック太字は、原文でのイタリック体を示す。  
:は、原書に記されている記号。
各行に番号を付した。ただし、原書の行に対応しているわけではない。文庫版『差異と反復』の行にできるだけ合致するようにした。

第二章 それ自身へ向かう反復 

反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、原書p96、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】

1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神に
2 おいては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心に
3 つれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているという
4 ことを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、瞬間的精神としての〈物質の状態〉
7 である。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、
8 「三番目のもの」、また「それは同じものだ」という言い方ができようか。反復は、即自を有していないのだ。
9 そのかわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。
10 そのようなことが、〈変容〉の本質である。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
11 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観的な
12 シークエンス〈AB〉は、ほかの事例つまりシークエンス〔AB〕から独立している。反復は、
13 (ただし正確には、ここでは まだ反復とは言えないのだが)、対象においては、つまり
14 〈AB〉という〈物の状態〉 においては、何も変化させない。そのかわり、観照する精神のなかに、
15 〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、
16 精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。
18 これこそが、反復の構成に必然的に関与せざるをえない或る根源的な主観性としての、
19 反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。
20 すなわち、反復を 観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、
21 すなわち、精神が反復から〈抜き取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ.。

『差異と反復』注釈再開1

胃の粘膜下腫瘍と便潜血をさらに精密検査するため、先日、口と肛門から内視鏡を入れて精密検査をしてもらったが、悪性ではないとの診断であった。今後は様子を見ていくほかはないとのことである。無理はできない体になったようだ。

気がつけば私は、西洋哲学の呪縛が解けてしまったようだ。同時に私は、「日本的なもの」という強迫観念からも解放された。

だからといって、西洋思想や「日本的なもの」と疎遠になりたいわけではない。むしろ、哲学、思想、「日本的なもの」を、人間的かつ自然的「現象」として分析したい。

歩みはのろいが、まず、ドゥルーズの『差異と反復』の注釈を再開しよう。
ラカンの「〈盗まれた手紙〉についてのセミナー」の翻訳と注釈については、ある程度まとまったものを、来年の夏過ぎに、まず法政大学の公式の雑誌で公表してから、このブログに再録したいと思う。
ハイデガーの『存在と時間』についても、少しずつ解釈していこう。

戦前の「国民道徳」という現象については、もっと広く深く調査してから本格的に論じたい。そのとき、国民道徳の合成要素としての西洋思想と東洋思想が分析されるはずである。その間、考えた事を折に触れて書いていこう。

「楽浪幻想」の記事も中断してしまった。ところで、私はなぜ万葉集のなかの「楽浪」とい漢字を問題にするのか。

「国民道徳」においては、「明治維新」は「大化の改新」の反復とみなされている。改新を完成した天武朝で編纂された「古事記」、「日本書紀」は、天武天皇を神格化する書である。「万葉集」にもその傾向をもつ歌が収められている。「国民道徳」は、この三つの文献に「日本的なもの」を見出そうとした。だが、それらはすべて漢文あるいは漢字で書かれている。

いつか述べたように、日本における漢字使用能力は天武朝にピークを迎えた。隋から帰国した留学生たちや、何よりも日本にたどりついた、あるいは日本が迎え入れた漢人の末裔たちの力が大きかったと思われる。

「万葉集」において、「ささなみ」という「やまとことば」で読ませる「楽浪」はまた、「楽浪郡」の「楽浪」でもある。天武朝を称える役割を与えられた楽浪の末裔たちが、滅亡した「ささなみ」の近江朝に、滅亡した楽浪を読み込むことができたとすれば、かつて記紀、万葉集に求められた「日本的なもの」とは、いったい何であろうか。

この私の話は、たとえば丸山眞男の言う「超国家主義の論理と心理」とは何の関係もない。シュミット、ホッブズ、トーマス・マン、ヘーゲル・・・がどうしたというのだ。私は、ヨーロッパ近代思想を手本にして「国民道徳」を分析したいわけではない。丸山はすでにさんざん批判されていることだし、あらためて私があれこれ言う事もないだろう。

誤解されるかもしれないが、私は、戦前の「国民道徳」を人間的かつ自然的「現象」として分析するつもりである。

さて、ドゥルーズ哲学をドゥルーズ現象として注釈しよう。

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『差異と反復』
翻訳                                   注釈
 
第二章 それ自身へ向かう反復                 

反復、それは、何かが変えられること

 【段落1】反復は、反復する対象に、何の変化         【段落1】この最初に登場する「反復」は、物理
ももたらさないが、その反復を観照する精神に        現象としての反復である。後で例示されるように、
は何らかの変化をもたらす。ヒュームのこの有        物質たとえば時計や鐘が発する振動を指す。
名なテーゼは、わたしたちを問題の核心に連れ       ヒュームにおける「チックタック、チックタック・・・」
てゆく。反復には、権利上、提示=現前化され       という反復の「チックタック」が事例、ベルクソンに
る個々のものはそれぞれ完全に独立している        おける「チック、チック、チック、チック」の「チック」
という意味が含まれている以上、どうして反復        が「要素」とされている。「権利上」という表現は、
は、反復する事例や要素に何らかの変化をも        後で「論理上」と言い換えられている。物理的反復
たらすことがあろうか。反復における不連続性        においては、先行する事例や要素は、後続する
と瞬間性の規則を定式化するなら、それは、〈        それらに影響を与えないという、いわば論理的な
一方が消えてしまわなければ、他方は現れな        前提から、ドゥルーズは出発する。
い〉と表現することができる。
(続く)

新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と注釈5

一昨年、パリのミラボー橋の近くに滞在していた。アポリネールの詩に詠われたミラボー橋、詩人パウル・ツェランが身を投げたと言われるミラボー橋。

 

いささか食傷気味ではあるが、その一節を、堀口大學の名訳で引用しよう。

 

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る

 

現在、ミラボー橋そのものは同じでも、そこを通る車の量は東京の街中と同じように多い。この橋でアポリネールの詩に浸ろうとしても、排気ガスと騒音が邪魔をする。

 

そして日本では、アポリネール、ミラボー橋という、かつてフランス文化への憧憬を呼び起こしたカタカナの固有名詞は、いまは説明抜きでは使えない言葉になったようだ。

 

このブログの注釈では、当然『差異と反復』のフランス語を問題にしなければならない。だがそうなると、たいていの読者には迷惑な話になる。日本では、言うまでもなくフランス語はマイナーな外国語であるからだ。私は一応フランス語で食っているつもりでいるのだが、私の本務校では、「あなたフランス語ができるんですって!?」と驚かれるほどである。

 

このブログで私が行おうとしているのは、『差異と反復』の第二章の重要な語、文、あるいは文章群のすべてに、私の母語つまり日本語で注釈をほどこし、その第二章の注釈の網のなかで『差異と反復』全体を捉えるという試みである。

 

しかし、私はフランス語に堪能な専門家に向けてこのブログの記事を書いているのではない。日本で日本語のみを用いる大多数の人々に、どのようにドゥルーズのフランス語を解説すればよいのだろうか。試行錯誤を続けるほかはないだろう。

 

                 ∴

 

パリ第8大学で研究していたとき、哲学科の責任者であるヴェルメラン教授から、ドゥルーズについて講義してみないかと誘われた。フランス語でも英語でもよいと言われた。けれどもそのときは、荷が重すぎると感じたのでお誘いを断った。

 

日本からフランスに来たばかりの人間が、フランス現代思想をフランスの学生たちに英語で講義する・・・。そのとき、世界共通語は、事実上、英語であることをあらためて痛感した。

 

そして、ヴェルメラン教授のお誘いが、ずっと気になっている。ドゥルーズに関して、私の母語である日本語と、私にとって外国語であるフランス語や英語を使うこと。実を言うと、いつか、このブログの英語版、仏語版を制作できればと空想している。(「母語」における「母」という言葉の使用に関するジェンダー論からの問題提起は、いまは脇に置こう。)

 

ともあれ、まず日本語で注釈を継続することが肝要だ。

 

 

                 ∴

 

「第二章 それ自身へ向かう反復【※1の 注釈の続き

 

 

注釈【※1


④の引用の続き。p196上段~下段(p164

 

「永遠回帰は、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異の世界から派生する。いずれのセリーも、たんにそのセリーを折り込んでいる他の諸セリーのなかに環帰するだけでなく、それ自身へ向かってもまた環帰する・・・。・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在。それを言い換えるなら、起源は差異であると特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。」

以上の引用のなかで、

それ自身へ向かって」は、第二章の表題「それ自身へ向かう」と同じであり、

フランス語では《 pour elle-même (「プル エル メム」と発音する)であり、

英語では《 for itself 》になる。

 

向かう」は、

フランス語では《 pour 》(「プル」と発音する)、

英語では《 for 》。

即自的」は、

フランス語では《 en soi 》(「アン ソワ」と発音する)、

英語では《 in itself 》。

Paul Pattonの英訳は一部変更する。)

 

即自」は、

フランス語では《 l’en-soi 》(「ラン ソワ」と発音する)、

英語では《 the in-itself 》。

 

対自」は、

フランス語では《 le pour-soi 》(「 プル ソワ」と発音する)、

英語では《 the for-itself 》。

  

以上から、とりあえず、

「それ自身へ向かう」=《 pour elle-même 》=「プル エル メム」と、

「対自」=《  pour-soi 》=「プル ソワ」(定冠詞省略)が、

きわめて近い関係にあると言えよう。(なお、「対自」という訳語はほぼ定着しているので、これを採用した。)

さて、前者の《 pour 》は「向かう(向かって)」と訳し、後者の《 pour 》は「対」と訳したのだが、ここから問題を展開しなければならないだろう。

さらに、第二章の表題「それ自身に向かう反復」は、

ニーチェの「力の意志」すなわち「差異」と、「永遠回帰」すなわち「反復」を示唆しており、

さらにヘーゲルの「即自」と「対自」の概念に深く関係していることがわかる。 

 

たとえば、注釈【※1の③における

反復は、それ〔反復〕自身へ向かってはそれ〔差異〕自身における差異であるという文章と、

 

④における

「差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である」という文章を、

 

ヘーゲル、ニーチェとの関連で、しかもドゥルーズの反ヘーゲル主義の立場で、解釈しなければならない。



それ自身へ向かう(プル エル メム)」は「対自(プル ソワ)」だろうか。

それ自身における(アン エル メム)」は「即自(アン ソワ)」だろうか。

話がごちゃごちゃしてきたが、さらに具体的に考えていこう。

 

(注釈、続く)

新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と注釈4

 『差異と反復』において、「それ自身へ向かう」の原語《  pour elle-même 》が現れる箇所は、全部で11ある。
そのすべてにわたって注釈していくと、諸問題が発散して、いま読み始めたばかりの第二章の本文に入れなくなる恐れがある。
そこで、
【※1については、以下の④の注釈で止めておこう。

他の箇所は、どれも重要な問題が扱われているのだが、ハードカバー版訳書の頁数のみ挙げておく。
⑤、p216 「それ自身へ向う反復」
⑥、p232 「おのれ自身のために」
⑦、p346  「それ自体として」
⑧、p371  「それ自体として」
⑨、p425  「おのれ自身に向って」

⑩、p428 「おのれ自身のため」
⑪、pXII       「それ自体として」


                                                                       


「第二章 それ自身へ向かう反復【※1の 注釈の続き

注釈【※1


p196上段~下段(p163164

 

まず引用するが、長くなるので分ける。改訳含む。

 

〔同時に展開する〕二つのセリーの間の、つまり二つの物語/歴史〔 histoires 〕の間の内的差異がどれほど小さくても、どちらかが他方の再生になっていることはなく、またどちらかが他方にとってモデルになっていることもない。類似と同一性があるとしても、それはこの差異の働きの結果/効果でしかない。システムのなかで起源的であるのは、この差異だけである。」

 

「したがって、システムが、起源的なものと派生的なものとの割り振りを排除する言うのは、すなわち最初のものと二番煎じのものとの割り振りを排除すると言うのは、まさに当を得たことである。なぜなら、差異こそが唯一の起源であり、その差異こそが、異なるもの〔一方のセリー〕と異なるもの〔他方のセリー〕を、あらゆる類似から独立して共存させ、それら異なるものどうしを関係させるからである。」

 

(④における注釈、続く)

新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と解釈3

8月と9月は、『差異と反復』第二章の改訳と注釈に専念したい。

 

すでに述べたように、『差異と反復』のなかでは、諸用語が地下茎のように四方八方に伸びている。これから、その地下茎の伸び方をひたすら追い求めながら注釈をつくっていく。もちろん、始めから地下茎の全体像を描くことは不可能である。

したがって、言葉たちを追い求めては、その都度、その結果を少しずつ書いていこう。

 

               ∴

 

「第二章 それ自身へ向かう反復【※1の 注釈の続き

 

注釈【※1

 

③、p153下段(p126)。

 

前回の記事では、『差異と反復』ハードカバー版訳書のp153下段、後から8行目~3行目を、以下のように改訳した。

 

 

「反復を、差異がそこから『抜き取られて』くる当のものに仕立てあげるのではなく、また反復を、差異を変種として含むものに仕立てあげるのでもなく、かえって反復を、『絶対に異なるもの』の思考およびその生産に仕立てあげること―――反復は、反復自身へ向かってはそれ〔差異〕自身における差異である、という事態をしつらえること・・・」

 

「差異が抜き取れられる」については、この第二章第一段落の終わりに現れるので、そのときに問題にしよう。

 

「絶対に異なるもの」については、『差異と反復』における他の箇所を示すだけにする。p30上段12行目、および p340下段1行目。後者の箇所の訳は、「絶対に思考とは異なるもの」である。ただし、この訳は再検討を要する。

 

上記の「反復は、反復自身へ向かっては、それ自身における差異である」は、「時間の第三の総合」つまり「未来論」のなかに現れるのだが(p153)、この文章は何を意味しているのだろうか。

ドゥルーズが肯定的に論じる「未来における反復」すなわち行動的反復は、ニーチェの永遠回帰を、それもドゥルーズによるニーチェ的永遠回帰を指している。

 

ここでは、永遠回帰はたんに同じものを永遠に反復するということではない、永遠回帰においては何か新たなものがつまり異なるものが生産される、それは差異による肯定である、とだけ言っておこう。

 

そのようなドゥルーズの解釈は、もちろん、ハイデガーのニーチェ解釈に対する根本的な批判になっている。しかしここではまだ、何もかもいっぺんに論じることはできない。

とにかく、「反復自身へ向かって」つまり「それ自身へ向かう」とは、どのようなことを意味しているのだろうか。

 

それを考えるために、この言葉が現れる次の箇所を見なければならない。p196上段、後から1行目。さらに、それに続く文章。

 

(注釈、続く)

新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と解釈2

『荘子 内篇』(朝日新聞社、1966)の「新訂本はしがき」によれば、その著者福永光司は、高校で週20数時間に及ぶ授業を受けもち、深夜の宿直室でその原稿を書いたそうである。私の方は、6月になって週8コマ(12時間)の授業を担当し、授業直後に続く或る重要な業務のため、週2回は夕食の時間もなく仕事をしていた。

 

福永から比べれば、私の大学での仕事量など大したことはないが、展覧会出品のための作品制作と仕舞上演のための稽古に週末の時間を費やし、体を休めることができなかった。もちろん、絵画制作と仕舞の稽古は義理でやっているのでないから誰にも文句は言えない。

 

展覧会では予想通り私の絵の前で足をとめる観客はいず、能舞台では舞の始めから所作を間違えて地謡の女性陣にご迷惑をかけてしまった。

 

食事と休息を十分に取らなかったせいか強いめまいと後頭部の痛みが続き、CTスキャンなどの精密検査をしたが、幸運なことに器質的には異常がないとのことであった。

 

『差異と反復』の訳了が迫っていた頃はまだ40歳台で、椅子で寝る日が続いても身体機能に変調はきたさなかったが、65歳になったいま、つくづく無理がきかない体になったと思う。

 

                 ∴

 

学部の授業ではカントの『実践理性批判』とコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』を翻訳で精読し、大学院では『差異と反復』を原書で精読している。

 

フランス現代思想へのコジェーヴの影響の大きさは、すでによく知られている。たとえば、サルトルの『存在と無』における「即自」と「対自」の定義は、コジェーヴによる定義を一字一句そのまま引き写したものだ。ラカンのヘーゲル理解も多くはコジェーヴに拠っているようだ。

 

『ヘーゲル読解入門』と『差異と反復』を同時進行で精読していると、ドゥルーズも、たとえば「欲望」や「時間/歴史」などに関して、やはりコジェーヴををよく読んでいるなと思う。それについては折に触れて言及するつもりである。もちろんドゥルーズは、『差異と反復』においてヘーゲルの超克をもくろんでいる。

 

たしかに、時間軸上に登場した諸哲学、諸思想は理論闘争の歴史を形作っているのだが、現在の私はそれにこだわらない。ドゥルーズに関しては、その革命者としての役割に拘泥していない。

 

 

                 ∴

 

『差異と反復』、『エクリ』、『存在と時間』のなかの言葉(原文)は、ほぼ完全に検索することができるようになっている。重要だと思われる語を検索してみると、そのなかでも『差異と反復』は、とんでもなく複雑で精密な構造をしていることがあらためてわかる。

 

ドゥルーズによればこの書は一種のコラージュの技法で構成されているのだが、読者としては『差異と反復』は絵画的コラージュだと言って済ませるわけにはいかない。

 

『差異と反復』のなかの多くの重要な言葉は、この書全体にわたって距離を置いて鏤(ちりば)められている。それらの語の意味をできる限り「明晰・判明」に理解しようとするならば、その言葉たちが含まれるやはり多くの箇所の文脈を把握しなければならない。

「明晰・判明」とはデカルトの概念であるが、ドゥルーズは、その概念を肯定せず、むしろプニッツの立場に与する。すなわち、ものごとの認識は、明晰であればあるほど判明ではなくなるということだ。

 

コラージュの材料である数多くの言葉を分類し整理して、その意味を明確化しようとするのは、『差異と反復』そのもののスタイルに反するやり方ではある。だが、私はドゥルーズを代理するつもりはないのだから、このブログの記事も『差異と反復』の代理ではない。

 

『差異と反復』の代理ではない注釈、解説には、途方もなく長い時間がかかるだろうが、それは仕方のないことだ。

                 ∴

 

訳文の文体は、必要に応じて、あるいはその時々の私の考えに従って変化する場合がある。

 

注釈には、語学的な考察も含まれるが、これは読み飛ばしていただいて結構である。

 

                       
第二章 それ自身へ向かう反復
【※1

第一節 反復:何かが変化させられる【※2

【第一段落の冒頭】反復する事物のなかでは、反復によって何も変化しないが、しかし反復を観照する精神のなかでは、反復によって何かが変化する【※3

 

 

★財津による問題提起。

もちろん、この第二章全体を読まなければ結論は出せないが、「それ自身へ向かう反復」と訳した文章は、どのような事態を指しているのだろうか。さらに、「向かう」とはどのようなことだろうか。

「変化」とは、どのような事態だろうか。ドゥルーズは、「同一」や「類似」の価値を重く見ない。「差異」、それも、ものごとを成立させる「微小な差異」を重視する。

では、「同一」や「類似」を否定して「変化」を語ることはできるだろうか。固い岩でも数百万年以上の長いタイムスパンで見るならば流動的な物質に生成する、とドゥルーズは語っている。では、岩から流動物への変化に一切の「同一」や「類似」を見ないとすれば、変化する前の岩と変化した後の流動物の両者に、連続性を想定することはできるだろうか。連続性が想定できないところに、変化を語ることはできるだろうか。

「微小差異」にもとづくドゥルーズ独特の変化概念があるはずだし、そうでなければならない。

反復する事物を物質あるいは物理現象とし、反復を鑑賞するものは精神であるとするならば、「物質」と「精神」は、どのような意味をもつのだろうか。そして両者は、どのような関係にあるのだろうか。

(この問題を考えるには、ベルクソンの『物質と記憶』を参照しなければならない。しかも、ドゥルーズ独特のベルクソン解釈がある。『差異と反復』、『シネマ』、『哲学とは何か』などを読むためには、『物質と記憶』そのものの理解が必要である。このブログで、『物質と記憶』におけるあの逆立ちした円錐形(記憶の図)の構造的意味を解説する予定である。)

 

 

注釈【※1
 

「それ自身へ向かう反復」の「向かう」の言語は《 pour 》であるが、「向かう」という訳語はいまだ暫定的なものである。

 

「向かう」の原語には、他の箇所では、「として」、「ために」、「対して」という訳語を当てた。

 

また、「反復の対自」における「対自」つまり《 le pour soi》との関連を考慮に入れなければならないのだが、その関連は「対自」の注釈で考えよう。

 

「それ自身へ向かう」の原語《 pour elle-même 》という表現が現れる箇所を列挙する。まずハードカバー版の訳書の頁数を示し、原書のそれを()内に示す。

 

①、 p454原注(p44)。 pour 》は「として」と訳した。『差異と反復』原注での、オディロン・ルドン(『私自身に』)からの引用文のなかの言葉。 ルドンは「客観的に、それ自体として知覚される造形的なかたち」と述べている。同じ原語(elle-même)を、「それ自身へ向かって」と訳すより、「それ自体として」と訳した方が、文脈から考えてしっくりすると感じたからである。

 

②、p145上段(p119)。 pour 》は「ために」と訳した。「即自〔イデアという純粋過去〕の国を、おのれのために保存しあるいは再び見いだすすべを知っていた魂」。elle-même 》は「魂」を指す。「おのれ」と訳し、「それ自身」と訳さなかったのは、「それ自身」と訳すと、「即自の国」を指すのか、「魂」を指すのかが曖昧になるからである。

 

なお、p145上段で、この文章に続く次の文章を、変更する。変更箇所を赤字で示す。

「それでもなお、《イデア》は、継起的な諸現在が時間の円環のなかで組織されるための根拠として存在し、その結果・・・」

 

③、p153下段(p126)。「反復は、反復自身に対して、それ自身における差異である」。このように訳したが、迷うところである。「反復自身に対して」は、「それ自身にとって」、「それ自身のために」、「それ自身へ向かって」、「それ自身として」と訳すこともできるだろう。

 

ここは決定的に重要な箇所ではあるのだが、その直前の訳文に不適切なところがあるので、改訳する。

「反復を、差異がそこから『抜き取られて』くる当のものに仕立てあげるのではなく、また反復を、差異を変種として含むものに仕立てあげるのでもなく、かえって反復を、『絶対に異なるもの』の思考およびその生産に仕立てあげること―――反復は、反復自身へ向かってはそれ〔差異〕自身における差異である、という事態をしつらえること・・・」。

 

注釈【※1】続く)

新・ドゥルーズ『差異と反復』改訳と解釈1

亀のように、のろのろとした歩みではあるが、本日から、あらためて『差異と反復』第二章の改訳と注釈を発表していこう。『差異と反復』でも、注目すべき語句を、本文全体に求めて、その使い方を確認していく。

この第二章は時間論である。その前半で、ドゥルーズは、おもに哲学と文学を渉猟して、三つの時間を、あたかも三つの段階を登るように描写していく。

1、時間の第一の総合:生ける現在、その現在のエレメントとしての過去と未来。
2、時間の第二の総合:純粋過去、その過去のエレメントとしての現在と未来。
3、時間の第三の総合:永遠回帰における未来、その未来のエレメントとしての過去と現在。

そして、第二章の後半では、その三つの時間が、精神分析の分野で反復される。

本日は、第二章の第1段落の訳文のみを公表する。注釈は次回で示す。

                        ∴

第二章 自分自身に向う反復【注1】

第一節 反復:何かが変化させられる【注2】

反復する事物のなかでは、反復によって何も変化しないが、しかし反復を観照する精神のなかでは、反復によって何かが変化する【注3】――ヒュームのこの有名な主張【注4】は、わたしたちを、或る問題の核心に連れてゆく。現前するそれぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味を、権利上【注5】、反復は含んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで、何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表現される――ひとつの〔先行する〕ものが消えなければ、もうひとつの〔後続する〕ものは現れない。瞬間的精神【注6】としての物質の状態が、その例である。それにしても、反復は出来あがるそばから壊れるのだから、どうして、「二番目」、「三番目」、また「それは同じだ」と言うことができようか。反復は、即自をもっていない【注7】。その代わり、反復は、反復を観照する精神のなかでは、何かを変化させる。それが、変更【注8】の本質である。ヒュームは、例として、事例の反復、すなわち〈AB、AB、AB、A・・〉というタイプの反復を取り上げている。どの事例も、どの客観的なシークエンス〈AB〉も、ほかの〈AB〉から独立している。反復は、(ただし正確には、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、事物のなかでは、つまり〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。その代わり、観照する精神のなかに、ひとつの変化が生じる。すなわち、或る差異が、何か新たなものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私はBの出現を待ち受ける【注9】。それはまさに、反復の対自【注10】なのだろうか。すなわち、必然的に反復の構成【注11】に関与せざるをえない或る根源的な主観性なのだろうか。反復のパラドックスとは、次のようなことではないだろうか。すなわち、ひとが反復を語ることができるためには、反復を観照する精神のなかにその反復が導入する差異つまり変化によるほかはないということ。つまり、精神が反復から抜き取る【注12】或る差異によるほかはないということ。

『差異と反復』のわかりやすい読解3

7月の暑さで、帰国直後からの激務(?)の疲れが出て、自宅では休息をとるようにしていたが、ここ数日の涼しさで気力と体力が戻ってきたようだ。ブログの執筆に復帰しよう。

ドゥルーズについても、ラカンについても、「欲望学」についても、論究は長丁場になるだろうから、身体的には無理をしないで仕事をすすめたい。どれだけ生きられるのかわからないが、この仕事のなかで死んでいければ、そしてこの仕事が誰かの役に立つのであれば、この上なき幸せである。

ところで、明日、千葉雅也さんと、「欲望」や「性」についてトークする(Naked Loft)。私の「欲望学」が「超越論的」という概念の超克をも目指していること、これを話そうと思っている。


さて、『差異と反復』第二章、第1段落の解説と考察をおこなう。
2012-07-15に発表した訳文(原書p96の本文の1行目から20行目、ハードカバー版訳書119頁、文庫版「上」197~198頁)について。

まずドゥルーズは、ヒュームにもとづいて、物質(あるいは物体)の領域での「反復」と、精神の領域での「反復」とを区別する。要するに、物理的現象と精神的現象の二つの領域が区別されている。(ただしここでは、私は、この「現象」という言葉を常識的な意味で使っており、現象学の専門用語としての「現象」を指すつもりはない。)

物質と精神とのドゥルーズ=ヒュームにおける区別は、デカルトの場合のような実体的区別ではない。デカルトでは、物質(つまり物体=身体)と、精神とが、それぞれ独立した存在者(「実体」)として考えられている。そして、物体=身体という実体と精神という実体のあいだに共通点はないとされている。

しかし、『差異と反復』を読み進めれば、このドゥルーズ的な区別は、もちろん、デカルト的な心身の区別ではないことが明らかになる。

しかし、わたしたちから見ると、この区別が問題になるだろう。デカルト、ヒューム、ベルクソンにおける心身の区別あるいは連続は、いぜんとして追究されるべきテーマである。これについては、今後、少しずつ論じていこう。

まず、ドゥルーズの『経験論と主体性』(新訳)から、ヒュームにおける唯物論への共感と躊躇に関する文章を引用しておこう。このヒュームの態度に、若きドゥルーズの立場が重ね合わせられていたのではないだろうか。

「彼ら〔良識ある著者たち〕はただ、〔恒常性も普遍性もないとみなされる〕精神にひとつの自然〔本性〕を与える諸要因の規定に関してのみ意見を異にしているのである。すなわち一方では、それらの要因は物体であり物質であって、このとき心理学は生理学に席を譲らなければならないとされる。他方では、それらの要因はいくつかの特殊な原理であり、物質との心的な等価物であって、この心的な等価物のうちに心理学は、おのれの唯一の可能な研究対象と、おのれの科学的条件とを同時に見いだすとされる。ヒュームは、連合諸原理をたずさえて、もっとも難しくもっとも大胆な後者の道を選んだ。そこに、唯物論に対する彼の共感と、同時にまた彼の躊躇が由来するのである。」(17頁)
(続く)

『差異と反復』のわかりやすい読解2

最初に訳文を示し、次にその訳文が「言おうとしていること」を聞き取ろうと努力する。つまり、このドゥルーズの文章(訳文)は何を言っているのだろうかと考え、理解しようと務める。

今回のブログでは、訳文のみを公開する。なお、今年の5月にこのブログで発表した『差異と反復』第二章の訳文を、独訳を参照しながら、さらに改訳し、できるかぎりふつうの日本語の文章に転換した。次回に、この訳文の読解や考察を書く。

〔〕内の語句は、訳者の補い。
〈〉は、文意を取りやすくするために訳者が加えた記号。
イタリック体の原文は、太字の日本語に転換する。
第二章のなかの「小みだし」については、すでに訳書の「凡例」に示した方針を踏襲する。



訳文(原書p96の本文の1行目から20行目、ハードカバー版訳書119頁、文庫版「上」197~198頁)
「 第二章 それ自身へ向う反復

反復、すなわち、何かが変化するということ

反復する〔物理的な〕事物のなかでは、反復によって何も変化しないが、反復を観照する精神のなかでは、反復によって何かが変化する――ヒュームのこの有名な主張は、わたしたちを、或るひとつの問題の核心に連れていく。それぞれの現前化〔たとえば現前するそれぞれの音〕は互いに完全に独立しているという意味が、権利上、〔物理的な〕反復に含まれているのだから、反復することによって、どうして、反復する事例や要素のなかで何かが変化するだろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表現される――ひとつのものが消えなければ、もうひとつのものは現れない。例を挙げるなら、瞬間的精神としての〈物質の状態〉である。反復は出来あがるそばから壊れてゆくのだから、じっさい、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、また「それは同じだ」と言うことができようか。反復は即自をもっていない〔訳者のコメント:フランス語の独立した文章は、ふつう大文字で始まるが、この文章の原文は小文字で始まっている。たんなる誤植か、あるいは原文の前に何らかの抜けがあったのか?〕。それに対して、反復を観照する精神のなかでは、反復によって何かが変化する。そのようなことが、モディフィカシオンの本質である〔訳者のコメント:モディフィカシオン=modification。このフランス語は、スピノザ『エチカ』のラテン語モディフィカティオ=modificatioに対応する。岩波文庫版では、「様態的変状」と訳されている。このスピノザの言葉については、もちろんドゥルーズが『スピノザと表現の問題』のなかで論じている。さらに、いわゆる「ヌーヴォー・ロマン」の作家、ミシェル・ビュトールの作品の題名でもある。『心変わり』と訳されている。『差異と反復』ハードカバー版435頁、 文庫版「下」325頁参照〕。ヒュームは、たとえとして、〈AB、AB、AB、A・・〉というタイプの反復、つまり事例の反復を取り上げている。どの事例も、すなわち、どの客観的なシークエンス〈AB〉も、ほかの〈AB〉から独立している。反復によっては(ただし正確には、わたしたちはまだ反復を語ることはできないのだが)、事物のなかでは、つまり〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化しない。それに対して、観照する精神のなかでは、或るひとつの変化が生じる。すなわち、或るひとつの差異が、何か新たなものが、精神のなかで生じるのである。〔AB、AB、ABのようにして、ABが連続的に現れた後に〕Aが出現すると〔それだけで〕、いまや私はBの出現を予期する。そうしたことがまさに、反復の対自なのであろうか。すなわち、必ずやそれ〔反復〕の構成に含まれざるをえない或る根源的な主観性としての、反復の対自なのであろうか。反復のパラドックスとは、ひとが反復を語ることができるためには、反復を観照する精神のなかにその反復が導入する差異つまり変化によるほかはない、ということではないだろうか。すなわち、精神が反復から取り出すところの或るひとつの差異によるほかはない、ということではないだろうか。」

『差異と反復』のわかりやすい読解1

今年の5月から、『差異と反復』第二章の「改訳と解釈」を4回ほど掲載したが、あらためて第二章の「わかりやすい」読解を開始しよう。

『差異と反復』は奇妙な「哲学史」でもある。そのことを確認するために、『差異と反復』「はじめに」のなかから、とても明快な文章を抜粋しておこう(ハードカバー版12頁、文庫版18-19頁)。ただし、一部改訳する。

「哲学的表現の新しい手段の探究は、ニーチェによって創始されたのだが、今日では、その探究を、たとえば演劇や映画のような、従来とは異なる或るいくつかの芸術の刷新に見合ったかたちで、遂行しなければならない。・・・哲学史は、絵画におけるコラージュの役割によく似た役割を演じるべきだと、わたしたちには思われる。哲学史、それは哲学そのものの再生である。哲学史としての報告は、或る本当の分身として振舞うべきだろうし、分身に固有の最大限の変様を包含するべきだろう。・・・哲学史の諸報告は、テクストについての、一種のスローモーションを、一種のフリーズあるいは静止を表象=再現前化しなければならない。ただし、このテクストは、その諸報告が関係するテクストであるばかりでなく、その諸報告が内部に組み込まれているテクストでもある。したがって、哲学史の諸報告は、或る分身的存在をもつ。そして哲学史の諸報告は、古いテクストとアクチュアルなテクストが互いに相手のなかで反復するという、そうした純然たる反復を、理想的な分身としてもつのだ。」


ドゥルーズは、様々な哲学や思想などから種々雑多な材料を取り出し、それらを自由に加工し組み合わせて、この本を書いたのだろう。

『差異と反復』はコラージュ風の哲学史である。だからこの本を、従来の教科書風の哲学史として読むことはできない。

しかし、材料が雑多であるからといって、そこに「でたらめ」があるわけではない。豊富な材料の一見自由な組み合わせの仕方にも、読み続けていけば、或る種の「筋」が浮かび上がるはずだ。

では、「古いテクストとアクチュアルなテクストが互いに相手のなかで反復する」とは、どのようなことだろうか。

『差異と反復』を読んでいるあいだ、わたしは、感動したり悩んだり腹を立てたりした。だが、まず読もう。とにかく、読み続けることが必要である。

次回から、直ちに第二章の「わかりやすい」読解に入ろう。「わかりやすい」とは、平明さを意味するだけでなく、わたし自身の困惑を隠さないということでもある。

ドゥルーズ、ラカン、欲望学

本日から本務校提出用の文書をいくつか作成しなければならないので、来週から、ブログ記事を再開したい。うれしいことに、7月から、記事執筆のために多くの時間をとることができそうだ。

今後の方針。

1、ドゥルーズ『差異と反復』第二章の改訳については、今後は、明らかなミスや読み間違いと思われるところを訂正するにとどめて、注釈/解説を、段落ごとに、できるだけ詳しく提示したい。

2、「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の翻訳と注釈は、これまでのやり方で継続しよう。

すでに述べたが、1と2を通じて、ドゥルーズとラカンの時間論を比較対照しながら検討することができるはずだ。

3、「欲望学」を、少しずつ、しかし様々な分野を横断しながら展開していく予定である。このなかで、フランス滞在中に少しばかり触れた『啓蒙の弁証法』を再び論じることができるだろう。

つねに、この身体、その身体、あの身体・・・から出発し、またそれに戻ることが必要になるだろう。だからといって、メルロ=ポンティが根本的な参照基準だというわけではない。

ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈4

『差異と反復』の第二章と、「《盗まれた手紙》についてのセミナー」を同時進行で訳出しているが、こうするのは両者の時間論を比較対照するためである。

まだ『差異と反復』の原書p96の本文20行目までしか改訳していないが、p96~97にミスや誤訳があるので、先回りして訂正しておきたい。

『差異と反復』第二章、ハードカバー版120頁下段の後から3行目、および文庫版「上」200頁6行目の「反復」は間違いで、「反省」が正しい。

ハードカバー版121頁上段4~12行目、および文庫版「上」200頁11~18行目を改訳し、筋の通った訳文にしたい。

ドゥルーズが用いる言葉には、聞き取れないほどの倍音が響いているはずだから、私に聞き取れたと感じる倍音を〔〕で示すので、やや煩瑣に思われるかもしれないが、ご辛抱いただきたい。

「わたしたちは、事物における反復を考察していたときは、或る反復理念を可能にする条件〔縮約〕の手前にとどまっていた。しかし、主観のなかでの変化を考察するときには、わたしたちは、すでにそれ〔その条件〕の彼方で、差異の一般的形式〔ABが繰り返し現れて縮約される場合、新たなAが現れると、次のBを待ち受けないわけにはいかなくなること〕に直面する。したがって、反復を理念として構成すると、それら二つの限界〔手前と彼方〕のあいだで、一種の逆行する運動〔彼方から手前に向うこと〕をもたらしてしまう。この逆行する運動は、それら二つ限界のあいだに張られるのだ。いくつもの事例が想像力のなかで縮約され融合していても、〔ふつうの心理学的な〕記憶もしくは知性においてはやはり区別されているとヒュームが指摘するとき、彼が深く分析しているのは、まさにそうした逆行する運動なのである。」

この後の訳文は、いまのところ、翻訳書で読んでいただきたい。意味が通るはずである。

ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈3

かつて『差異と反復』を翻訳していたとき、実を言うと、何か猜疑心のようなものに悩まされていた。わたしはドゥルーズの行論に騙されているのではないか、と。しかし、訳を進めるうちにまた深く感動もし、いや「どんなことがあっても」やりとげなければと思いなおす。しかしまた、私の心のなかに疑いの念が湧いてくる。

理解が浅いゆえに、わたしは疑念と感動の渦に巻き込まれていたのだろうか。ともかく、このスパイラルのなかで藻掻きながら、ようやく翻訳は完了した。その後、しばらくのあいだ、自分の訳書を開くと感覚的な苦しさがフラッシュバックするようで、訳文を再検討することがほとんどできなかった。

そのような状態のなかで、『哲学とは何か』を訳し、『シネマ1』に取り組むことになった。有能な協力者を得て、問題になる映画の場面を連続的な静止画にして検討することができたが、翻訳を完成するまでにまた長い時間がかかってしまった。今度は、ヨーロッパ思想の紹介という作業に耐えることが苦しくなっていた。技術上の限界がわたしをそのような状態に追い込んだわけではない、ということは確かだ。そう、よくある日本人的な文化的苦悩を味わっていたということなのだろう・・・。

『シネマ1』を訳しながら、寝る前には古事記や万葉集などを読み、周易を素読していた。

しかし、原発事故の直後、パリで1年間過ごし、アパルトマンやスーパーやメトロのなかで、何人かのフランス人たちから、心温まる言葉をかけてもらった。「何か困ったことがあったら、いつでも私の部屋のドアを叩けよ」、「このスーパーでは、このパテとこのハムが一番うまいぞ、俺の味覚ではな」・・・。幼い子供を連れてメトロに乗っていたときのことだ。少し離れて座っていた一人の乗客が、「わたし、もう降りるし、隣の席も空きそうだから、いらっしゃいよ」と大声で話かけてきた。質素な身なりの女性だった。お礼を言うと、恥ずかしそうに笑顔を見せて降りていった。

パリ第8大学の門のところで、或る女性講師と精神分析学について話をしたことがある。いつの間にかフランス大統領選の話に変わり、それから日本の政治は市民のためにあるのか、それとも国家のためにあるのかという、かなり乱暴な二者択一的な議論になって、結局2時間立ちっぱなしでこの講師に付き合った。今では楽しい思い出である。

ヨーロッパ思想の紹介業者であった私の日本人的な文化的苦悩、それは笑うべき錯覚にすぎなかった。少し疲れただけの話だ。


                         ∴

5月16日の記事「ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈2」で、次回は訳文を解説すると書いたが、まだ訳文の量が少ないので、もうしばらく改訳を進めることにしたい。

(原書p96の本文の9行目から。ハードカバー版訳書119頁、本文上段10行目から。)

まず、前回の訳文を少し訂正する。

「 第二章 それ自身へ向う反復

反復、それは何かが変化させられるということ
反復は、反復する事物のなかでは何も変化させないが、反復を観照する精神のなかでは何かを変化させる――ヒュームのこの有名な主張は、わたしたちを、或るひとつの問題の核心に連れていく。現前する〔=呈示される〕それぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味が、権利上、〔物質的〕反復に折り込まれているのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表明される――ひとつのものが消えなければ、もうひとつのものは現れない。例を挙げるなら、瞬間的精神としての物質の状態である。」

(以上に続けて、今回の訳)

「反復は出来あがるそばから壊れてゆくのだから、じっさい、どうしてわたしたちは、「二番目」、「三番目」、また「それは同じだ」と言うことができようか。反復は、即自をもっていないのだ。それに対して、反復は、反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。そのようなことが、〔反復における〕変更の本質である。ヒュームは、範例として、〈AB、AB、AB、A・・〉というタイプの反復、つまり事例の反復を取り上げている。どの事例も、すなわち、どの客観的なシークエンス〈AB〉も、ほかの〈AB〉から独立している。反復は、(ただし正確には、わたしたちはまだ反復を語ることはできないのだが)、事物のなかでは、つまり〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。それに対して、観照する精神のなかでは、ひとつの変化が生じる。すなわち、或るひとつの差異が、何か新たなものが、精神のなかで生じるのである。」

ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈2

読書家なら誰にとっても「理解」可能な訳文を制作すること、それが改訳の目標である。
以下、原文を少しずつ訳出して、ある程度のまとまった段階で、解釈あるいは解説を付す。
翻訳に関する文法的な説明は最小限にとどめる。原則的に、財津の観点から、1992年の初訳よりも砕いて訳す。その砕き方の根拠については、別に機会に論じる。
発表した訳文に、後になってから修正を加える場合がある。
なお、〔〕内の語句は、財津による補いである。




(原書p96の本文の1行目から2行目、および原書巻末の目次のなかの小見出しの改訳。ハードカバー版訳書119頁、第二章の本文、1行目から3行目まで。)

「 第二章 それ自身へ向う反復

反復、それは何かが変化させられるということ
反復は、反復する事物のなかでは何も変化させないが、反復を観照する精神のなかでは何かを変化させる――ヒュームのこの有名な主張は、わたしたちを、或るひとつの問題の核心に連れていく。権利上、反復には、現前する〔=呈示される〕それぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味が折り込まれている。そうであるからには、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表現される――ひとつのものが消えなければ、もうひとつのものは現れないだろう。例を挙げるなら、瞬間的精神としての物質の状態である。」

次回は、以上の文章の解説。

なお、本日からカウンターを設置した。2012年1月からの累計。

ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈1

フランス滞在中の諸契約は、ようやく一つを残してケリがつき、ほっとしている。

これからは、1日置きぐらいのペースで、ドゥルーズ、ラカン、ハイデガー、欲望学について、少しずつ記事を書いていきたい。

ところで、朝日カルチャーセンターで開始した私の「欲望学」は、様々なジャンルを横断しながら欲望の分析とその分類を遂行する試みである。この欲望学はまた、「超越論的なもの」の超克の試みでもある。したがって、欲望学はドゥルーズにおける「超越論的経験論」をも射程に入れることになる。

今日は、ドゥルーズ『差異と反復』の改訳と解釈を、その第二章の冒頭から始めよう。
以下に示す訳書の頁数は、文庫本のそれではなく、事項索引付きのハードカバーの訳書の頁数である。私の訳に含まれる若干の抜けや誤訳を訂正することは言うまでもない。

『差異と反復』を訳していた当時、パソコンはフリーズしやすかったので、ノートに原語と訳語をメモしながら訳語の統一を図った。このブログで、さらに厳密な訳語統一を実現したい。


                       ∴

第二章のタイトルを、私は、「それ自身に向かう反復」と訳した。しかし、この私の訳語がすでに問題を含んでいる。

フランス語原文のタイトル:《 La répétition pour elle-même 》

私が翻訳に取りかかった時、すでに『差異と反復』という日本語の表題が定着していたように思う。しかし、「反復」という訳語は、今でも「繰り返し」と訳せば良かったかなと思っている。「差異」も「違い」の方が良かったのでは・・・。いわゆる「やまとことば」に基づいて『違いと繰り返し』と訳した方が、私の感覚では読んでピンと来る。だが、やまとことばを論理的な文章で多用すると、論理的厳密性が損なわれるわけではないが、ベタついた訳文になりがちである。

「に向かう」は《 pour 》の訳である。《 pour elle-même 》(おのれ自身に向かって)という表現は、原書ではp164、訳書では196頁に現れている。これに似た表現は、「反復の対自」、「差異の対自」がある。訳書119頁、129頁、196頁参照。

「対自」の原語は《 pour-soi 》である。もちろんヘーゲルの《 für sich 》の仏訳語であり、コジェーヴから影響を受けたサルトルの用語としても有名である。(コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』とサルトル『存在と無』を読み比べるのは、とても有益なことである。)

ヘーゲルの《 für sich 》は「対自」あるいは「向自」と訳されている。
私は、ヘーゲルの訳語「向自」の「向」を採用して、「向かう」と訳した。果たしてこれが適切な訳かどうか、それは上記の関連箇所を見るときに再検討しよう。

次回のドゥルーズの記事では、直ちに本文に入ろう。
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家
法政大学教授

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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