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『差異と反復』第二章、第11段落の改訳と注釈、および第2、第3段落

これまでのブログ記事で第2段落と第3段落についての記事や訳文が細切れになっており、しかもブログの画面が乱れているので、第2段落と第3段落の訳文全体も掲載しておく。この二つの段落と第11段落を比較しながら精読するのは、時間の第一の総合における、「現在、過去、未来、そして時間」の概念を分析するために、必要である。
なお、今回の記事も、スマホの画面では、訳文に付した番号が一部現れていないので、正確にはパソコンの画面で見ていただきたい。

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【p105】
第11段落
①時間の総合は、時間のなかで〔dans le temps この表現、第2段落⑱、第5段落⑦にあり〕【訳注1】現在を構成する。
②だからといって、現在が時間のひとつの次元であるというわけではない。
③存在するのは現在のみである。
④その総合は、時間を生ける現在として構成し、過去と未来をこうした現在の諸次元として構成するのである。
⑤けれども、この総合は時間内部的な総合であって、このことが意味しているのは、この〔生ける〕現在は過ぎ去るということである。
⑥なるほど、永続的な現在というものを、すなわち時間と同じ広がりをもつもつ現在というものを考えることはできる。
⑦そのためには、観照を瞬間の無限の継起に向けさえすれば十分である。
⑧しかし、そのような現在は物理的には可能ではない。
⑨観照における縮約が遂行するのは、つねに、反復のレベルを、諸要素かあるいは諸事例かに応じて、質化することである〔「要素の反復」になるか「事例の反復」になるか、ということ〕。【訳注2】。
⑩それ〔縮約〕は、必然的に、或る程度持続する現在を形成する、すなわち、もろもろの種、個体、有機体、および有機体のしかるべき諸部分に応じて変わりうるような、
尽き果て過ぎ去る現在を形成するのである。
⑪継起する二つの現在は、同じ一つの第三の現在と同時的であることが可能であって、それというのも、この第三の現在はそれが縮約している諸瞬間の数に応じて広がっているからである。
⑫ひとつの有機体は、有機体内部に置かれているもろもろの観照する心による縮約の自然な射程に応じて、一つの現在的持続をもったり、多様な現在的持続をもったりする【訳注3】。
⑬これはつまり、疲労は観照に実在的に属しているということだ。
⑭いみじくも、何もしない者こそ疲労する〔飽きる〕と言われる。
⑮疲労は、心が、みずから観照するものごとをもはや縮約できないという契機を、つまり観照と縮約がほどけるという契機を示している。
⑯われわれは、観照で合成されているのと同じ程度に疲労で合成されている。
⑰だからこそ、欲求=必要【訳注4】のような現象は、行動の観点からは、またそれ〔欲求=必要〕によって決定される能動的総合の観点からは、「欠乏」のような事態として理解されうるのだが、しかし反対にそれ〔欲求=必要〕の必要条件である受動的総合の観点からは、或る極度の「飽満」として、或る「疲労」として理解されうるのである。
⑱まさしく、欲求=必要は、可変的現在の諸限界を示している。
⑲そうした現在は、欲求=必要の二つの出現の間に広がっており、ひとつの観照が持続するところの時間と一つになっている。
⑳欲求=必要の反復は、そしてそれ〔欲求=必要〕に依存しているすべてのものの反復は、時間の〔第一の〕総合に特有な時間を、つまり時間内部的であるというこの総合の特徴を表現している。
【p106】
㉑反復は本質的に欲求=必要のなかに包含されている、というのも、欲求=必要が基づく審級【訳注5】は、本質的に反復に関わっているからであり、しかも、反復の対自を、すなわち或る程度の持続の対自を形成しているからである。
㉒われわれのすべてのリズム、われわれが留保しているもの、われわれの反応時間、そしてわれわれを合成している無数の絡み合い【訳注6】、諸現在、さらには諸疲労、これらはまさに、われわれの観照のほうから定義されるのである。
㉓自分自身の現在よりも、あるいはむしろ自分の諸現在よりもいっそう速くは進めないということ、それが規則である。
㉔われわれが、ハビトゥスとして、あるいは互いに指し示しあう縮約として定義したようなしるし〔シーニュ〕は、つねに現在に属している。
㉕〔時間の第一の総合としての〕受動的総合においては、過去と未来はまさしく現在そのものの諸次元でしかないのだが、このような受動的総合の観点から、ストア派が〈あらゆるしるし〔シーニュ〕はひとつの現在のしるし〔シーニュ〕である〉ということを指摘したのであり、これがストア派の偉大な成果のひとつなのである(傷跡は
しるし〔シーニュ〕であるが、過去の傷のしるし〔シーニュ〕ではなく、「ひとつの傷を負ってしまったという現在の〔心の〕事実」のしるし〔シーニュ〕であって、言ってみれば、それ〔傷跡〕は傷についての観照であるということ、それ〔傷跡〕は、私をそれ〔傷〕から切り離しているすべての瞬間を、ひとつの生ける現在において縮約しているということである。)
㉖あるいはむしろ、そこには〈自然的〉と〈人為的〉との区別の真の意味がある。
㉗現在のしるし〔シーニュ〕、すなわちおのれが意味しているものごとにおいて現在を指し示しているしるし〔シーニュ〕、つまり受動的総合に基づくしるし〔シーニュ〕、これが自然的なしるしである。
㉘反対に、現在から区別される諸次元でありながらも、今度は当の現在がおそらくは依存しているような諸次元としての過去と未来【訳注7】を指し示すしるし〔シーニュ〕、これが人為的なしるし〔シーニュ〕である。
㉙このようなしるし〔シーニュ〕は、能動的総合を含意している、すなわち、自ずと働く想像力から、反省された表象=再現前化、記憶、そして知性という能動的な能力への移行を含意しているのである。

【訳注1】《dans le temps》を「時間のなかで」と訳す。この表現、第2段落文⑱、第5段落文⑦にあり
【訳注2】文⑨に関して、文庫上p214の訳文を大幅に変更する。特に、《qualification》をこれまでは、「質を付与する」とか「性質づける」と訳したが、「質化する」に改める。これは辞書に載っていない訳語であるが、第3段落の文⑰において「量化可能な」という言葉が出てくる。原語は、《quantifiable》である。これは、《quantifier 量化する》という動詞から派生した形容詞である。他方、《qualification》は、動詞《qualifier》にもとづく名詞である。この《qualifier》を、「形容する」という辞書的な意味にとらずに、《quantifier 量化する》の対概念と見て、「質化する」と訳す。「質化」ではピンと来ないので、「質の決定」でもよいかもしれない。ちなみに、フランス語の《nature》を「質」と訳す人がいるが、これはきわめて不適切な訳である。一般に哲学においては、ドゥルーズにおいてもそうだが、「量 quantité」の対概念が「質 qualité」であり、《nature》は、「自然」と訳す以外には、「本性」と訳すべきである。この点については、『差異と反復』文庫上p117~120におけるスコトゥス、デカルト、スピノザに関するドゥルーズの存在論的考察の改訳の機会に論じるつもりである。
【訳注3】訳文⑫を大幅に変更する。
【訳注4】besoinを「欲求=必要」と訳した。独訳では、《 Bedürfnis 》、 英訳では  《 need 》。日本語の「欲求」では、原語の「必要に迫られての欲求」というニュアンスが出ないので、「欲求=必要」訳す。この語はこれまで、第5段落で2回、第6段落で1回現れている。
【訳注5】原語は《 instance 》である。既出の拙訳では「審庭」と訳してきたが、「審級」という訳語がほぼ定着しているので、これに従うことにした。例えば「第一審」という日本語の法律用語はドイツ語の《 die erste Instanz 》の訳語であろうと思われるが、これを直訳すると「第一審級」となる。私は法学の専門家ではないが、「裁判所」という名のホームページを見ると、「審級」とは、上下関係のある諸審理(裁判)の段階を言うようである。精神分析でも使われてきた用語であるが、『差異と反復』に出てくる《 instance 》という語は、それほど専門的な意味で使われていないようである。「次元」と訳すこともできるかと思われるが、しかしこの訳語は、《 dimension 》に当てている。
【訳注6】「絡み合い」については、文庫上p218参照。
【訳注7】「現在から区別される諸次元」の原文は《 dimensions distinctes du present》である。既出の拙訳、独訳、英訳に従わずに、こう訳した。第二章においてはこの文㉘以前では、過去と未来は現在に属する次元であると言われてきたので、既出の拙訳では「現在に属する異なった〔二つの〕次元」とした。しかし、文㉘全体は、能動的総合のレベルでの時間論であり、「自分から区別されるものに自分が依存する」というヘーゲル風の弁証法を思わせる論理に基づいていると解釈した。

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第2段落
そのような変化〔反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化〕は、どうなっているのだろうか。 
②ヒュームの説明によれば、互いに独立した同一のあるいは似ている諸事例〔たとえば、チック・タック〕は、想像力のなかで融合する。
③想像力は、ここでは、ひとつの縮約能力として、たとえば、〔古典的な写真機の〕感光版として定義されるのであって、想像力は、新たなものが現れてきても、以前のものを保持している。
【p97】
想像力は、等質な諸事例、諸要素、諸振動、諸瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくる。  
⑤A〔たとえば、チック・タックのチック〕が現れると、すでに縮約されているすべてのAB〔チック・タック〕の質的印象に応じた力で、われわれはB〔タック〕を予期するのである。
⑥それは、断じて記憶ではなく、知性の働きでもない、つまり縮約は反省ではないということだ。
⑦厳密に言うなら、縮約は時間の総合をなしている。
⑧瞬間の継起は時間をつくらず、それどころか、時間をこわしてしまう。
⑨言い換えるなら、瞬間の継起は、時間が生まれようとしてはつねに流産してしまう点を示しているだけである。
⑩時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合のなかでしか構成されない。
⑪この総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。
⑫このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成している。
⑬そして時間が広がるのは、まさにその現在のなかにおいてである。
⑭過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。
⑮すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属し、未来は、予期がその同じ縮約のなかでの先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。
⑯過去と未来は、現在とみなされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの現在そのものの〔二つの〕次元を意味している。
⑰現在は、過去から未来へ行くために、自分の外に出る必要はない。
⑱したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成している過去から未来へ進むのであり、それゆえまさに、個別的なものから一般的なものへ進むのである。
⑲言い換えるなら、生ける現在は、その生ける現在が縮約のなかに包み込んでいるもろもろの個別的なものから、その生ける現在がおのれの予期という場のなかで展開する一般的なものへと進むのだ(精神のなかで生産された差異は、生ける未来規則をなすかぎりにおいて、一般性そのものである)。
⑳こうした総合は、どこから見ても、まさしく受動的総合〔哲学者フッサールの言葉〕と名付けるほかはないものである。
㉑この総合は、〔時間を〕構成するのだが、だからといって能動的な総合であるわけではない。
㉒この総合は、精神によってつくられるのではなく、どのような記憶にもどのような反省〔既存の拙訳では反復になっているが、反省が正しい――訳者〕にも先立って、観照する精神のなかでできあがるのである。
㉓時間は主観的であるが、しかしそれは、或る受動的な主観の主観性である。
㉔この受動的総合つまり縮約は、本質的に非対称的である。
㉕すなわち、それ〔受動的総合〕は、現在のなかで過去から未来へ進み、したがって、個別的なものから一般的なものへ進むのであり、このようにして時間の矢を方向づけるのである。

第3段落
①〈われわれ〉は、対象における反復を考察していたときには、或る反復観念を可能にする諸条件の手前にとどまっていた。
②しかし〈われわれ〉は、主観における変化を考察するときには、すでにその向こう側で、一般的な形式での差異に直面している。
③それゆえ、反復観念の構成は、それら二つの限界のあいだにおける一種の遡及的 な運動を折り込んでいる。
④それ〔反復観念〕は、それら二つの限界のあいだで織り上げられるのだ。
⑤想像力のなかで縮約されたつまり融合したもろもろの事例〔チック・タック〕は、それでもなお記憶あるいは知性のなかでは依然として互いに区別されたままであるということをヒュームが指摘するとき、彼が深く分析しているのは、まさにそうした運動である。
【p98】
⑥だからと言って、一つの事例〔チック・タック〕が消えなければもう一つの事例 を生産しないという物質の状態に、そこ〔想像力における縮約〕から戻っているわけではない。
⑦そうではなく、記憶は、互いに区別されるものとしてのもろもろの個別的な〔特殊な〕事例を、想像力の質的印象のほうから復元し、それら諸事例を、記憶特有の「時間スペース〔旧拙訳の「時間の空間」ではなく「時間スペース」と訳す。ドゥルーズ自身の表現か、あるいはベルクソンか他の誰かの言葉か、まだ突き止めていない、原文p138、訳p284では「時間的間隔」要訂正、〕」のなかで保存するということである。
⑧そうなると、過去は、もはや過去把持における直接的な過去ではなく、かえって   
表象=再現前化における反省的過去、すなわち反省され再生された個別性になる。
⑨これと相関して、未来も先取りにおける直接的な未来ではなくなり、予想における反省的未来、すなわち知性における反省された一般性になる(知性は、想像力における予期を、観察されたあるいは想起された互いに区別されるもろもろの同じような事例の数に釣り合わせて考えてしまう)。
⑩ということは、記憶と知性の能動的総合は想像力の受動的総合に重なって、こ  れに依拠するということである。
⑪反復の構成は、それだけですでに三つのレベルを含意している。まず、反復を思 考されえないままにしておく即自、つまり反復ができあがるそばからその反復を壊してゆく即自。つぎに受動的総合における対自。さらに、この受動的総合に基づきながらも、能動的総合における「対われわれ」の、反省された表象=再現前化。
⑫連合説には無二の精妙さがある。
⑬ベルクソンが、同様な問題にぶつかるとき、いちはやくヒュームにおける諸分析を取り戻すのは、驚くべきことではない。
⑭すなわち、四時の鐘が鳴っている・・・。
⑮どの一打も、どの振動あるいは刺激も、論理的には互いに独立しており、瞬間的精神である。
⑯しかし〈われわれ〉は、あらゆる〈思い出〉【訳注1】あるいは判明な計算から離れて、それら〔四つの音〕を縮約してひとつの内的な質的印象に仕立てあげる、それも、まさに持続が生ける現在つまり受動的総合であるところのその生ける現在つまりその受動的総合のなかで縮約するのである。
⑰次いで〈われわれ〉は、それら〔四つの音〕を、或る〈補助的なスペース〉【訳注 2】のなかに、つまり或る派生的な時間のなかに戻して、そこにおいて〈われわれ〉は、それらを、同数の量化可能な外的諸印象として、再生したり、反省したり、数えたりすることができるのである【原注1】。 


【訳注1】souvenir スヴニールを「思い出」と訳す。ベルクソンの用語。今後一貫して、mémoireを「記憶」と訳し、mémoireと区別してsouvenirを「思い出」と訳す。これについては、稿を改めて論じるつもりである。ついでに言っておくならば、ベルクソン『物質と記憶』においては、原則的にsouvenir をmémoireからはっきりと区別して訳す必要がある。〕
【訳注2】〈補助的なスペース un espace auxiliaire 〉は、ベルクソンの言葉。上記「時間スペース」を指すだろう。



『差異と反復』第二章、第10段落 改訳と注釈

これまでに発表した訳文を後から絶えず修正しているが、修正箇所をいちいち指摘してはいない。悪しからず。
今回は、一部、仏語原文を訳文の直後に置いて、その仏語原文の構造について立ち入って考察する。読むのが煩わしいと感じる読者は、この考察を無視して頂いてかまわない。
この第10段落から第13段落にかけて、『差異と反復』第2章における「時間の第一の総合」論の言わば反復的総括が始まる。ますます精読が必要になってくる諸段落である。

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第10段落

① 多様で細分化された状態で観照する精神の役割とは、つまり想像力の役割とは、反復から何か新しいものを抜き取ること、反復から差異を抜き取ることである。
② それにまた、反復はその本質からして想像的なものであって、それというのも、ここでは想像力のみが、〔反復の〕構成【訳注1】の観点から反復力vis repetitiva【訳注2】という「契機 (moment)」【訳注3】を形成しているからであり、おのれが縮約するものを反復の諸要素あるいは諸事例【訳注4】として存在させるからである【訳注5】。
Aussi bien la répétition dans son essence est-elle imaginaire, puisque seule l'imagination forme ici le « moment » de la vis repetitiva du point de vue de la constitution, faisant exister ce qu'elle contracte à titre d'éléments ou de cas de répétition.
③ 想像的反復は、偽の反復ではないのであって、もしも偽の反復であるということにでもなれば、想像的反復は、真の反復の不在を補うようになってしまうだろう【訳注6】。
④ 要するに真の反復は、想像力に属しているのである【訳注7】。
⑤ 〈 即自的に〔物質の状態において〕 〉絶えず壊れる反復と、表象=再現前化の空間のなかで〈 われわれに対して〔客観的に〕〉展開されそして保存される反復とのあいだには、差異が存在していたのであり、その差異が、ほかならぬ反復の〈 対自 〉、すなわち想像的反復である【訳注8】。
⑥ 差異が反復に宿っているのだ。
⑦ 一方では、差異はわれわれを、〔想像力の〕受動的総合を介して、言わば縦に、或るレベルの反復から他のレベルの反復へ、すなわち即自的に壊れる瞬間的反復から、能動的に表象=再現前化された反復へ移行させる。
原書p104
⑧ 他方では、差異はわれわれを、もろもろの受動的総合それ自身のなかで、深く〔奥行のなかで〕、或るレベルの反復から他のレベルの反復へ、つまり或る一般性から他の一般性へ移行させる。
⑨ 鶏の頭のリズミカルな動きは、知覚的総合において穀物をついばむのに役立っている前に、有機的総合において心臓の拍動に伴っているのである。
⑩ そして、もろもろの「チック」の縮約によって形成された一般性は、これまた縮約されたもろもろの「チック・タック」のいっそう複雑な反復のなかで、しかももろもろの受動的総合のセリーのなかで、すでに初めからもろもろの個別性〔特殊性〕というかたちで再配分されているのである。【訳注9】
⑪ あらゆる点で、物質的で裸の反復は、つまりいわゆる同じものの反復は、差異およびいっそう込み入ったもろもろの内的反復という核にとっての外被であり、言わば破れてしまう皮である。
差異は、二つの反復の間にある。
⑬ それは逆に、反復もまた二つの差異の間にあるということではないだろうか、すなわち反復によってわれわれは或るレベルの差異から他のレベルの差異へ移行してしまうということではないだろうか。
⑭ ガブリエル・タルドは、弁証法的発展を次のように定めていた。すなわち、弁証法的発展とは、もろもろの一般的差異の状態から特異な差異への移行、つまりもろもろの外的差異から内的な差異への移行である―――要するに、差異という異化させるもの〔 le différenciant de la différence 〕【訳注10】としての反復である。

【訳注1】文庫上p212後ろから3行目の箇所「〔行動の〕構成」、を本章第3段落に基づいて「〔反復の〕構成」に修正する。
【訳注2】vis repetitivaというラテン語は、恐らくドゥルーズ自身による用語ではなく、他の何らかのテキストから引用した言葉のように思われるが、またどこかで読んでメモしておいたような気がするが、出典はまだ突き止めることができていない。
【訳注3】momentをヘーゲル風に「契機」と訳した、独訳では中性名詞のMoment、英訳ではmomentである。また、《 le « moment » de la vis repetitive 》における《 de 》を、同格を示すと読んだので、「という」と訳した。
【訳注4】反復の諸要素とは、例えば、「チック、チック、チック、チック」の〈チック〉であり、諸事例とは、例えば、「チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック・・・・」の〈チック・タック〉である。本章第4段落参照。
【訳注5】文②の後半の構文の取り方に関して、既出の拙訳と独訳は異なっている。拙訳のゲラが出た直後にようやく独訳を手に入れることができたので、当時は独訳を十分参照することはできなかった。もちろん、必ずしも独訳が正しいというわけではない。その後しばらくして、英訳が出た。英訳は拙訳と同じ構文の取り方をしている。
そこで、拙訳と独訳の違いを考察してみたい。問題は《 ,faisant exister ce qu'elle contracte à titre d'éléments ou de cas de répétition. 》という分詞節にある。独訳も英訳も拙訳も、この《 faisant 》という分詞を、主語《 l'imagination 》のいわゆる述語動詞とみなす。しかし、拙訳と独訳では、《 à titre d'éléments ou de cas de repetition 「反復の諸要素あるいは諸事例として」 》 をどの動詞に繋げるかで、解釈を異にする。すなわち、英文法風の用語を用いて説明するが、この「~として」を、《 faisant exister 》の目的語《 ce qu'elle contracte 》の補語と見るか、あるいは《 contracte 》の目的語(=先行詞)《 ce 》の補語と見るか、で解釈が異なってくる。拙訳では前者と取ったが、独訳では後者と取った。
結果的には同じような事態を言っていることになるが、一応拙訳と独訳の日本語訳とを並べてみよう。まず拙訳:「・・・・ここでは想像力のみが、・・・おのれ〔想像力〕が縮約するものを、反復の諸要素あるいは諸事例として存在させる」。次に独訳の日本語直訳:「・・・・ここでは想像力のみが、・・・おのれ〔想像力〕が反復の諸要素あるいは諸事例として縮約するものを存在させる。」
【訳注6】既出の拙訳を、文脈を考慮に入れて大幅に変更した。文庫上p212後ろから2~1行目参照。今回の訳を裏付ける文法的な解釈を示す。《 , qui viendrait 》において《viendrait》は条件法であるから、《qui》以下を帰結節とみなす。条件節は、主文《 La répétition imaginaire n'est pas une fausse repetition 「想像的反復は、偽の反復ではない」 》を肯定文にしたもの(非現実を指す文、すなわち「もしも想像的反復が偽の反復であるということにでもなれば」)とみなす。そして《qui》の前に《,》が置かれていることもあり、quiの先行詞を直前の《une fausse répétition「偽の反復」》ではなく、先頭に置かれている主語《La répétition imaginaire「想像的反復」》とみなす。
【訳注7】原文《 la vraie répétition est de l'imagination. 》における《est de》を、「に属している」と訳した。余計なお世話であるが、フランス語を学び始めた読者の皆さんにアドバイスするなら、《 主語est de 名詞 》のようなかたちの仏文が出てきたら、《de》の直前に《quelque chose》を補って読むとわかりやすくなる。この場合、《 la vraie répétition est quelque chose de l'imagination. 》となる。そして、《de》の意味は、文脈を考慮に入れて、《de》が取りうる諸々の意味から選ぶ。私は一応「に属する」と訳してみた。独訳では《 liegt in 「に存する」、すなわち「真の反復は想像力に存する」 》、英訳では《 takes place in 「において行われる」あるいは「にある」 》と訳されている。
【訳注8】第2段落参照。
【訳注9】第4段落参照。既出の拙訳における構文の取り方を、独訳に従って、大幅に変更する。英訳には従わない。
【訳注10】「差異という異化させるもの」については、『差異と反復』文庫上p184以下《ハイデガーにおける差異哲学への注》参照。


『差異と反復』第二章、第9段落 改訳と注釈

前回、訳語の統一に触れたが、この第2章第9段落を理解するためには、第二章の前半ばかりでなく、とりわけ序論における関連箇所を参照する必要があるだろう。その関連箇所を訳書で特定するためにも、訳語の統一は絶対に必要である。したがって、序論も早急に改訳する必要はある。
ところで、ドゥルーズは、日本語で「行動」と訳せる語を二種類用いている。たいていの場合「action アクシオン」が用いられており、序論等で数回「conduite コンデュイト」が使われている。英訳では、actionはaction、conduiteはconducteと、独訳では、conduiteはVerhalten 、actionは Handlungと訳し分けられている。けれども、私は、ともに、「行動」という同じ訳語を当てた。訳し分けるかどうかについてはもう少し考えてみたい。
さて、この第9段落以下は、第二章の最初のセクション「時間の第一の総合」のまとめ/反復になっている。ところがこの第9段落の各文の文意の流れが飛躍しているようにも見えるので、訳者の視点から〔〕を用いて補足を付け加え、訳注で様々な疑問を提出しておいた。ただし、仏語原文に即してかつ英訳や独訳を参照して論じているところがあるので、フランス語やドイツ語を読まない読者は、読み飛ばしていただいてかまわない。

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【原書p103】

第9段落

習慣の問題
① 〔心理学でよく見られる説とは異なり〕習慣は反復に依存しない、とする理由を増やすのは容易である【訳注1】。
② というのも、出来上がる行動(action)においても、すっかり出来上がった行動においても、行動するということはけっして反復することではない 〔 agir n’est jamais répéter 〕 からだ【訳注2】。
③ どのようにして行動はむしろ、個別的なもの〔特殊的なもの〕を変数〔可変的なもの〕としてもち、そして一般性をエレメント〔基本要因〕としてもつのかということは、われわれはすでに見ておいたこととである【訳注3】。
④ しかし、〔行動の基本要因たる〕一般性は、たしかに反復とはまったく別のことであるにせよ、それでもなお反復を、その一般性が或る隠れた基盤の上で構築されるときのその隠れた基盤として指し示すのである。
⑤ 行動は、一般性のレベルにおいても、それに対応した諸変数の場においても、反復の諸要素の縮約によってはじめて構成されるのである。
⑥ ただし、この縮約は、それ自体において行われるのではなく、観照する自我のなかで、しかも行動者〔agent〕【訳注4】の代わりになる【訳注5】自我のなかで、行われるのである。
⑦ そして、諸行動を統合して、より複雑なひとつの行動というかたちでまとめあげるためには、初次的な諸行動の方が〔それぞれ〕、ひとつの「事例」というかたちで、反復の諸要素の役割を演じなければならず、それもつねに、合成された行動の主体の下に潜むひとつの観照的な魂に対してそうしなければならないのである。
⑧ 行動する自我の下には、観照しそして行動と行動的主体とを可能にする微小自我がいくつも存在する。
⑨ われわれは、われわれのなかで観照を行うそれら無数の目撃者によってのみ、「自我〔私〕」と言うのであって、自我〔私〕と言うのは、つねに第三者なのである。
⑩ そして、迷路を通るネズミのなかにさえ、そしてネズミの筋肉の一つひとつのなかにも、それら観照的な魂が置かれているのでなければならない。
⑪ ところで、観照は、行動のいかなる瞬間にも浮かび上がることはないので、つまり観照はつねに引っ込んでいるので、さらには(何かが、それもまったく新しい何かが観照においてつくられるにしても)観照が何かを「つくる」わけではないので、観照を忘れることは容易であり、また、〔観照における〕反復への準拠をまったく参照しないで刺激と反応のプロセスの全体を解釈することも容易であって、それというのも、こうした準拠は、観照的な魂に対する刺激ならびに反応の関係のなかにしか現れないからである。



【訳注1;例えば文庫、上p29に「習慣は真の反復を形成しない」とある。】

【訳注2、原文では、①と②の文の間にコロン「:」があるが、「行動」と「習慣」の関係が述べられていないので、このコロンの機能をどう解するか迷う。文②が文①の理由を述べているとしても、敷衍だとしても、習慣は一種の行動つまりを習慣的行動とみなさないと前後の文の関連が見えてこない。そこで一応、理由とみなして以上のように訳した。なお、文②は、序論の箇所(文庫、上p29後ろから5行目以下)に対応していると思われる。すなわち「したがって、習慣は、けっして真の反復を形成しない。すなわち、前者〔習慣が身についていない場合〕においては、意図が、変わらないままに、行動(action)が変化し完成されていく〔これが、文②における「出来上がる行動」と関連するだろう〕のだが、後者〔習慣が身についている場合〕においては、意図とコンテクストが異なっているのに行動は等しいままである〔これが、「すっかり出来上がった行動」に相当するかもしれない〕。」 ところが困ったことに、文庫、上p21では、「反復すること、それは行動することである(répéter, c'est se comporter、)」とある。私は、agirもse comporterも等しく「行動する」と訳した。また、actionもconduiteも「行動」と訳した。果たしてこれでよいのかどうか、行動の様々なレベルを考慮に入れて、稿を改めて論じるつもりである。】

【訳注3、どこで「すでに見ておいた」のかは示されていない。おそらく、序論の最初のセクション「反復と一般性―――行動の視点からする第一の区別」以下においてであろう。なお、文③の「行動は・・・一般性をエレメントとしてもつ・・・」における「エレメント」は、文庫、上p29で言われている「行動の諸要素(éléments d'action)」の「諸要素」ではないだろう。文③では、エレメントという名詞は単数の形で記されているからである。むしろ、やはり文庫、上p29で言われている「習慣の一般性(généralité de l'habitude)」の「一般性」を指すかもしれない。習慣を行動ととればの話ではあるが。】

【訳注4 文⑪で、「反応」と訳した原語はréactionであり、もちろん「反作用」と訳してもよい。このréactionと、上記のactionとを関連させてこの段落全体を読解する可能性があるかもしれない。したがって、「行動」と訳したところをすべて「作用」と読みかえることができるかもしれない。agentを「行動者」と訳したが、「作用主」と訳せるかもしれない。だが、actionを「行動」ではなく「作用」、agentを「行動者」ではなく「作用主」と読みかえてすっきりするわけでもない。】

【訳注5、既出の拙訳における「裏打ちする」の原語はdoublerであり、英訳ではdouble、独訳ではverdoppelnと直訳している。読みに迷うところは、英訳も独訳もたいてい直訳になっていて、あまり参考にならない。今回は「代わりになる」と訳した。「重なり合う」でもいいかもしれない】

『差異と反復』第二章、第8段落、改訳

私は、原文の論旨を訳文で明確にするため、できる限り訳語を統一したいと思っている。訳語の統一とは、ひとつの原語にひとつの訳語をあてがうということある。しかし、それを徹底すると、やや変な訳文になる場合がある。例えば、この第8段落における「合成する(composerコンポゼ)」がそうである。文①と文⑥を読んでいただきたい。私は、「ベクトルの合成」のイメージで「合成」という訳語を選んだのだが、しばらくはこの「合成する」という訳語を使っていこうと思っている。
他方、ドゥルーズは、他の思想家や文学者の文章を、その出典を明らかにしないで、自分の地の文章に嵌め込んで使う場合がある。例えば第7段落の文⑯は、第8段落の文⑨によってプロティノスに基いていることがわかる。この場合は、次に続く段落で種明かしをしてくれているが、出典を明らかにしていないケースもかなりあるのではないかと思われる。したがって、『差異と反復』は、読者がそのなかの印象的な言葉や文章をドゥルーズオリジナルと思ってしまうリスクを孕んでいる。この書の「はじめに」の末尾でのボルヘスへのドゥルーズの言及を常に参照する必要があるだろう。

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第8段落

① 習慣の継続性を措いてほかに〔重要な〕継続性は存在しないということ、すなわち、われわれは〔有機体を〕合成する無数の習慣をもっており、われわれにはこうした無数の習慣の継続性よりほかに〔重要な〕継続性はないということ、しかもこうした無数の習慣がことごとく、われわれにおいて妄信的自我や観照的自我を形成し、さらには要求者や満足を形成するということ、このようなことをサミュエル・バトラーより巧みに指摘した者はいない。
② 「というのも、野の麦はそれ自身、おのれの生存に関する妄信に基づいておのれを成長させ、そして、そうできるのだというおのれ自身の能力に自惚れることによってようやく、土と湿り気を小麦に変えるからであって、このような自惚れあるいは自信ときたら、それがなければおのれが無力になってしまうほどのものである。【原注2】」
③ 経験論者のみが、うまいこと、そうした言い方を敢えてすることができる。
④ 小麦と呼ばれる土と湿り気の縮約が存在するのであって、この縮約がひとつの観照なのであり、この観照の自己満足なのである。
⑤ 野の百合は、ただ存在するというだけで、天の、そして女神たちと神々との栄光を、すなわちみずからが縮約することにおいて観照するもろもろの要素の栄光を歌い上げているのだ。
⑥ 反復の諸要素と諸事例から、すなわち観照され縮約された水、窒素、炭素、塩化物、硫酸塩からできていないような、したがっておのれを合成しているすべての習慣をそのように絡み合わせていないような、そんな有機体が何か存在するだろうか。
⑦ 有機体は、〈一切は観照である!〉という『エネアデス』第三論集における崇高な言葉のもとで目覚めるのである。なるほど、一切は、岩と木、獣と人間でさえも、アクタイオンと鹿、ナルシスと花でさえも、さらにはわれわれの行動と欲求でさえも、みな観照であると言うことは、おそらくひとつの「イロニー」だろう。
⑧ しかしイロニーは、イロニーとしてもまたひとつの観照であり、観照以外の何ものでもないのだ・・・・・。
⑨ プロティノスはこう言っている―――われわれが自分自身のイメージを規定し、そのイメージを享楽するのは、われわれが生じてくる源たる何かへ向かって振り向き、それを観照することによってのみである。


『差異と反復』第二章、第7段落、改訳

この第7段落の改訳にも苦しんだが、しかし精読がますます面白くなってきた。今回は、既出の拙訳をかなり修正した。ドゥルーズの行論の微妙さ精妙さは、やはり精読しなければわからない。
改訳を急いでいるので注釈は控えているが、いずれ、訳文に注釈をつけたいと思っている。

末筆ながら、豪雨災害に遭われた皆様へお見舞い申し上げます。

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【原書p101】

第7段落

① 習慣は、反復から、何か新しいものを、すなわち(最初は一般性として定立される)差異を抜き取る。
② 習慣は、その本質において、コントラクシオン〔contraction、動詞にするとcontracter(コントラクテ)〕である。
③ そうしたことは次のような言葉遣いにおいてよく示されている。すなわち、習慣を「つける〔コントラクテ〕」という言葉遣いにおいて、またハビトゥスを構成しうる目的補語としか「つける〔コントラクテ〕」 という動詞を用いない言葉遣いにおいて。
④ もちろん、心臓は、膨張するときと同様に、「収縮する(コントラクテ)」ときにも習慣をもっていない(あるいは習慣ではない)、という反論があるだろう。
⑤ けれども、そのような反論があるのは、われわれが、まったく異なる二種類のコントラクシオン〔収縮もしくは縮約〕を混同しているからである。
⑥ なるほど、コントラクシオン〔収縮〕は、〈チック・タック・・・・〉というタイプのセリーにおける二つのアクティブな要素の一方〔チック〕を、すなわち二つの対立した拍子の一方〔チック〕を指しうるのであって、というのも他方の要素〔タック〕は弛緩あるいは膨張になっているからだ。 
⑦ しかし、コントラクシオン〔縮約〕は、観照的な心における、継起する〈チック・タック〉の融合をも指している。
⑧ そうしたことが受動的総合なのであって、これが、われわれの生きる習慣をなしており、言い換えるなら、「それ」が続いてゆくというわれわれの予期を、つまり二つの要素の一方が他方の後に生じるというわれわれの予期をなしており、こうしてわれわれの事例の永続を保証するのである。
⑨ われわれが習慣とはコントラクシオン〔縮約〕であると言うとき、したがって、われわれが言わんとしているのは、反復の一要素を形成するために一つの瞬間的作用〔タックつまり弛緩〕と組み合わせられるもう一つの瞬間的作用〔チックつまり収縮〕のことではなく、観照する精神におけるこうした反復〔継起するチック・タック〕の融合のことである。
⑩ 心臓に、筋肉に、神経に、細胞に、心〔精神〕があるとみなさなければならないのである。ただしこの心は、ひたすら習慣をつける(コントラクテ)という役割をもつ観照的な心である。
⑪ そこには、野蛮な仮説や神秘的な仮説は一切存在しない。
⑫ それどころか反対に、習慣はそこで、おのれのまったき一般性を顕示するのであって、この一般性は、われわれが(心理的に)有している感覚‐運動系のもろもろの習慣に及んでいるだけでなく、むしろまっさきに、われわれが習慣であるという意味での原初的な習慣に、すなわち、われわれを有機的に構成している幾多の受動的総合に及んでいるのである。
⑬ 縮約することによって初めてわれわれは習慣であるのだが、しかしそれと同時にまた、観照することによって初めてわれわれは縮約するのである。
⑭ われわれは観照である。われわれは想像力である。われわれは一般性である。われわれは要求〔プレタンシオン prétention 〕である。、われわれは満足である。
⑮ なぜなら、要求という現象はそれもまた、縮約を行う観照にほかならないのであって、この縮約を行う観照を通じてようやく、われわれは、自分が縮約するもの〈に基づいて〉自分の権利と自分の予期を肯定するのであり、そして、自分が観照する限りにおいて、自分自身への自分の満足を肯定するのである。
⑯ われわれが観照する対象は自分自身ではないが、しかし、われわれは、われわれが生じてくる源たる何かを観照することによってでしか、すなわちその何かを〈縮約する〉ことによってでしか存在〔生存〕しないのである。 
⑰ 快はそれ自体ひとつの収縮〔コントラクシオン〕であるのか、ひとつの緊張であるのかという問いの立て方、あるいは快はつねに弛緩のプロセスに結びついているのかという問いの立て方は、正しくない。
⑱ なるほど、〈刺激〉の弛緩と〈刺激〉の収縮〔コントラクシオン〕のアクティブな継起のうちに快の諸要素が見いだされるだろう。
⑲ しかしその問いは、次のような問いとはまったく別の次元にある―――すなわち、何ゆえに快は、たんにわれわれの心的生におけるひとつの要素あるいはひとつの事例であるのではなく、かえってすべての事例においてわれわれの心的生を最高度に支配しているひとつの原理〔快感原則〕であるのか。
【原書p102】
⑳ 快が、〔自分をイメージで〕満たす或る観照の感動である限りにおいて、すなわち観照自身のうちに弛緩の事例収縮(コントラクシオン)の事例を縮約する(コントラクテ)その観照の感動である限りにおいて、快はひとつの原理なのである。
㉑ 受動的総合の或る至福が存在するのだ。
㉒ そしてわれわれは、自分とはまったく別のものを観照するにしても、観照することによって快を感じるのであり(自己満足)、この快ゆえにわれわれはみなナルシスなのである。
㉓ われわれは自分が観照するものから引き出す快ゆえにナルシスであるのだが、自分が観照するものからすれば、われわれはつねに〔アルテミスの裸体を見て殺される〕アクタイオンである。
㉔ 観照するということ、それは抜き取ることである。
㉕ 自分を自分自身のイメージで満たすために、まずはじめに観照しなければならないものは、つねに〔自分とは〕別のもの、すなわち、水、ディアナ〔アルテミス〕、あるいは森である。

〔訳注
文①:第二章第1段落では、「反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異、すなわち、精神が反復から抜き取る差異」と言われていた。ここでは「習慣が、反復から、差異を抜き取る」と言われている。
文⑭:「要求〔プレタンシオン prétention 〕」は、プラトンの用語を指していると思われる。『差異と反復』文庫上、p171以下、とりわけp177以下参照。
文⑮:〈に基づいて〉の原語は《 sur 》である。独訳では〈 に対して gegenüber 〉、英訳では〈 に関して in regard to 〉と訳しているが、独訳や英訳に従わない。
文⑯:〈縮約する〉の原語〈 contractor コントラクテ 〉について、独訳はその訳注で、「(習慣を)つける」の「つける」の意味もあるとコメントしている。
文⑱:〈刺激〉の原語はexcitantsである。第5段落の文③に「要素的な刺激excitationsの縮約contraction」とあるので、このexcitantsをexcitations(刺激)と読む。

『差異と反復』第二章、第6段落改訳

ずいぶん前からドゥルーズに関する論文や著書は、英語で書かれたものが圧倒的に多くなっている。『差異と反復』については、たいていの場合PAUL PATTONの英訳がよりどころとされているようだ。哲学研究の分野でも英語という言語が少なくとも量的には支配的になっている。

私がいま進めている『差異と反復』の日本語での改訳は、PAUL PATTONの英訳に準拠しているわけではない。だが、改訳と並行して進めている『差異と反復』の解析、注釈、解説は、日本語だけでなく英語でも書きたいと思っている。英語で書く場合PAUL PATTONの英訳に含まれる若干の誤訳に引きずられないためにも、ドゥルーズ自身の仏語原文を徹底的に精読する必要がある。日本語で読む読者のためにも。

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第6段落

① われわれは以上の〔ヒュームとベルクソンが論じている〕領域を有機的な領域にまで拡張しなければならなかったわけだが、そうした領域のすべてにおいて何が重要なのだろうか。
② ヒュームはそれを正確に述べている、すなわち、習慣の問題が重要であると。
③ しかし、ベルクソンの時計の〔四つの〕音においても、ヒュームの因果的な〔チック・タック・・・という〕シークエンスにおいても、われわれは実際、習慣の神秘にとても近づいていると感じていたにもかかわらず、「習慣的に」習慣と呼ばれているものごとについては何も認識していなかったのである。これはいったい、どのように説明すればよいのだろうか。
④ その理由は、おそらく、心理学の錯覚に求めなければなるまい。
⑤ 心理学は、行動をおのれの物神にしてしまったのだ。
⑥ 心理学は、内観に対して度を越した恐怖を抱いているため、動くものしか観察しないのである。
⑦ 心理学は、ひとは行動することによってどのように習慣を身につけるのかと尋ねる。
⑧ しかしそうであれば、ひとが習慣を身につけるのは行動することによってであるのか・・・・あるいは反対に観照することによってであるのか、という問いを前もって立てない限り、学習〔learning〕に関する研究の全体が歪められてしまう恐れがある。
⑨ 心理学は、自我は自分自身を観照することができないということを、既定の経験的真理とみなしている。
⑩ しかし、そのようなことが問われるのではない、そうではなく、自我はそれ自身がひとつの観照ではないのか、自我はそれ自身においてひとつの観照ではないのかと問うべきであり―――そしてひとは、観照するのとは別の仕方で、学習することはできるのか、さらに行動を形成し自分自身を形成することはできるのかと問うべきである。

『差異と反復』第二章、第5段落改訳

極度に圧縮して書かれている第5段落の訳出には、今回も苦しんだ。一応独訳、英訳を参照したが、結局仏語原文を読み込むしかない。なお、訳文中の【p100】は、原書の頁を意味する。


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第5段落

ハビトゥス、受動的総合、縮約、観照
① そのようなわけで、二つの反復形式の区別よりも、一方の反復形式他方の反復形式が行使され組み合わせられているもろもろの水準の区別のほうがはるかに重要になる。
② ヒュームのたとえにおいてもベルクソンのたとえにおいても、われわれは、感性的総合と知覚的総合の水準に置かれている。
③ 感覚された質は、要素的な刺激の縮約と混じり合っているのだが、しかし、知覚された対象はそれ自身、ひとつの質が他の質のなかで読み取られるといった事例の縮約を折り込んでいるし、また、少なくとも志向的部分であるような質と対象形式とが対になっている構造を折り込んでいる。
④ しかし、ものごとを構成する受動性のレベルでは、知覚的総合は有機的総合を指し示しており、同様に、諸感官の感性は原初的な感性を、しかもほかならぬわれわれがその原初的な感性であるといった場合のその原初的な感性を指し示している。
⑤ われわれは、水、土、光、空気を再認したり表象=再現前化したりする前に、そればかりでなく、それらを感じる前にさえ、水、土、光、空気の縮約である。
⑥ あらゆる有機体は、その感受的な要素や知覚的な要素においても、またそればかりでなく内臓においても、縮約の、過去把持の、そして予期の総和なのである。
【p100】
⑦ こうした原初的な生命的感性の水準において、生きられる現在が時間のなかですでに或る過去と或る未来を構成しているのである。
⑧ この未来は、予期の有機的な形式としての欲求のなかに現われ、過去把持の過去は、細胞における遺伝のなかに現われる。
⑨ しかも、そうした有機的総合は、その上に組み立てられた知覚的総合と組み合わせられて、精神的・有機的な〈記憶の能動的総合〉と、やはり精神的・有機的な〈知能の能動的総合〉とのなかで再編成されるのである(本能と学習)。
⑩ したがってわれわれは、受動的総合に関連してもろもろの反復形式を区別しなければならないのだが、それだけでなくさらに、受動的総合のもろもろの水準を、そしてそれら水準相互のもろもろの組み合わせを、そしてそれら〔受動的総合の〕水準と能動的総合とのもろもろの組み合わせを区別しなければならないのである。
⑪ それら一切が、しるし〔シーニュ〕の豊饒な領域を―――すなわち、異質なものをそのつど包み込みながら行動を活気づけるしるし〔シーニュ〕の豊饒な領域を―――形成しているのである。
⑫ というのも、縮約はどれも、つまり受動的総合はどれも、ひとつのしるし〔シーニュ〕を構成するものであり、このしるし〔シーニュ〕がもろもろの能動的総合のなかで解釈あるいは展開されるからである。
⑬ 動物が水の現前を或るいくつかのしるし〔シーニュ〕によって「感じる」とき、それらのしるし〔シーニュ〕は、のどが渇いたその動物の身体に欠如している諸要素とは類似していないのだ。
⑭ 感覚、知覚、さらにまた欲求と遺伝、学習と本能、知能と記憶、これらがどのように反復の性格をもつのかは、ケースごとに、反復諸形式のもろもろの組み合わせによって、またそれらの組み合わせが成立するもろもろの水準によって、またそれら水準どうしの関係づけによって、さらにまた能動的総合と受動的総合との干渉によって推測されるのである。

『差異と反復』第二章、第4段落改訳

シネマ読書会も再開でき、来週からはラカン研究会も再開できる。ラカン研では、「盗まれた~」の読解は一時中断して、個人的な興味から、ネットで公開されている「サントーム」のテキストを日本語に転換することにした。これを終えてから「盗まれた~」に戻る。ようやく生活のペースが安定してきたので、勤勉に『差異と反復』の改訳を進めよう。現在『差異と反復』の第2章を始めから訳し直しているが、第2章の前半部の哲学にそくした時間論つまり反復論の改訳が済めば、後半部すなわち精神分析における時間論には入らずに、序論に戻るつもりだ。『差異と反復』の注釈は、まず何らかの雑誌に発表してからこのブログにも掲載しようと考えている。

『差異と反復』第4段落改訳、なお訳語は絶えず見直している。

① なるほどベルクソンのたとえは、ヒュームのそれと同じではない。
② 前者は閉じられた反復を指し示しており、後者は開かれた反復を指し示している。
③ さらに、前者は、A A A A(チック、チック、チック、チック)というタイプの要素の反復を指しており、後者はAB、AB、AB、A・・・・(チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック・・・・)というタイプの事例の反復を指している。
④ これらの形式の主要な区別は、以下の点にもとづいている。
【p99】
⑤ すなわち、後者の形式においては、差異〔変化、新しいもの:第1段落〕が、諸要素一般の縮約において現れるだけではなく、さらに個別的なそれぞれの事例〔チック・タック〕において、対立関係によって規定され結びつけられた二つの要素〔チックとタック〕の間にも存在するということである。
⑥ この場合、対立の機能は、要素的な反復を権利上〔論理上〕限定するということ、すなわち要素的な反復をもっとも単純なグループ〔チックタック〕にそくして閉じるということ、要素的な反復を二者からなる最小のもの〔の反復〕へと還元する(チックが裏返ってタックとなる)ということにある。
⑦ したがって差異は、一般性の最初の形態〔生ける未来規則:第2段落〕を捨てるように見え、反復する個別的なもののなかに〔チックとタックの差異として〕配分されるのだが、しかしそうなるのは、新たな生ける一般性を引き起こすためなのである。
⑧ 反復は、「事例〔チック・タック〕」のなかに閉じ込められ、二者〔チックの次にはタックが来るということ〕に還元されてはいるが、しかし事例そのもの〔チック・タック〕の反復にほかならぬ新たな無限が開かれる。
⑨ それゆえ、あらゆる事例の反復〔チック・タック、チック・タック、チック・・・・〕は本性上開いており、あらゆる〈要素の反復〔チック、チック、チック、チック〕〉は本性上閉じている、と考えるのは誤りであろう。
⑩ 〔ヒュームにおける〕事例の反復は、諸要素間の二項対立が閉じられる〔チック・タックに限定される〕ことによって初めて開かれるのだし、逆に、〔ベルクソンにおける〕要素の反復は、以下のような事例の構造を指し示すことによってようやく閉じられる。すなわち、それ〔その要素の反復、つまりチック、チック、チック、チック〕がそれ自身総体として、対立する二つの要素のうちの一方の役割を果たすようになる構造をである。
⑪ たとえば、四が四つの打音に対してひとつの一般性であるだけでなく、「四時」が〈三〇分前〉と〈三〇分過ぎ〉によって一対の関係〔四時三〇分前、四時三〇分過ぎ〕になり、さらに、知覚的世界の視野においては、朝の四時と夕方の四時が裏返しになっているということによって一対の関係〔午前四時、午後四時〕になる。
⑫ そうした二つの反復形式は、受動的総合において常に相互に指し示しあう。
⑬ すなわち、事例の反復は要素の反復を前提としているのだが、要素の反復は必然的に越えられて事例の反復になるのである(そこに、以下のような受動的総合の自然的傾向が由来している、つまりチック・チックをチック・タックのように感じる傾向である。)

ラカン「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の翻訳(1)

ネットで公開されているフランス語テクストにもとづくジャック・ラカン「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の最初(といっても、SEUIL社,1966のテクストの最初)の18の段落の拙訳が、法政大学「多摩論集」第34巻2018年3月に掲載されたので、その翻訳をこのブログでも公開する。「多摩論集」における翻訳では、各段落の文章を切り離して番号を付け、原文を添えたが、ここでは簡略化した訳文を載せる。一応、読める訳文になっていると思う。
まだ残務整理に時間をとられているので、4月から『差異と反復』の改訳を継続したい。この「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の翻訳もこつこつ続けてゆくつもりだ。



ジャック・ラカン「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の翻訳(1)
                                                                    財津 理

 はじめに
本翻訳は、インターネットで公開されているラカンのフランス語テクストLe Séminaire sur « La lettre volée » prononcé le 26 avril 1955 au cours du séminaire Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse fut d’abord publié sous une version réécrite datée de mi-mai, mi-août 1956, dans La psychanalyse n° 2, 1957 pp. 15-44 précédé d’une « Introduction », pp. 1-14の本論の第1段落から第18段落までの訳である。以前に発表した【研究ノート】:『ジャック・ラカン「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の翻訳と注釈(1)』(法政大学『経済志林』Vol.78,No.4 2011/3/10所収)の翻訳部分(第1段落から第5段落)に修正を加えたものを再録する。翻訳する段落の順序は、Le Séminaire sur « La lettre volée »,in ÉCRITS, (ÉDITION DU SEUIL,1966)に合わせて変更した。すなわち、上記論文では冒頭に置かれている「序INTRODUCTION 」は、ÉCRITSでは末尾に置かれている。訳出はÉCRITSの順序に従っているが、翻訳文そのものは全面的に上記ネット・テクストに準拠している。なお、詳しい注釈は、全テクストの翻訳が完了してから改めて作成する予定である。なお、この翻訳は、財津が主宰するラカン読書会のメンバー、岡本広由、西川直樹 小出義治 磯村大による議論から多くのものを得ている。

凡例
()は原文にある記号。
〔〕は、原語あるいは訳者による補いを示すための記号。
〈〉は、文意を取りやすくするために訳者が挿入した記号。
斜体の原語は、訳語も斜体にした。


エピグラフ

そんでそれ(エス〕)【注1】がおいらに運よくできるなら、
そんでそれ〔エス〕がうまく運ぶなら、
それ〔エス〕が思考=思想というもんだ。〔ゲーテ『ファウスト』2458~2460〕

Und wenn es uns glückt,
Und wenn es sich schickt,
So sind es Gedanken.

第1段落
われわれは、研究を続けた結果、以下のことを再認するに至った。すなわち、反復自動症〔automatisme de répétition〕(反復強迫〔Wiederholungszwang〕)【注2】の原理は、われわれが〈記号的に意味する連鎖【注3】〉の〈執拗な存立〔insistance〕〉と呼んだもののなかで把捉される【注4】ということをである。 この概念そのもの〔すなわち、執拗な存立 insistance〕を、われわれは、〈外への‐存立〔ex‐sistence〕【注5】〉(すなわち、中心から外れた場所)と相関するものとして明らかにしたのであって、われわれは、フロイトの発見を真剣に把捉するべきである以上、その〈外への‐存立〉(すなわち、中心から外れた場所)に、無意識の主体を位置づけなければならない。 象徴的なもの〔象徴界、あるいは記号的に意味する連鎖、象徴的連鎖〕についてのそうした把捉【注6】が、人間の生体のもっとも内奥のところにまで働くのは、想像的なもの〔想像界〕をどのように経由することによってであろうか。これを理解することができるのは、よく知られているとおり、精神分析によって創始された経験においてである。


第2段落
このセミナーの教育が行われるのは、以下のことを主張するためである。すなわち、そうした想像的諸影響は、それら想像的諸影響を結び付け方向づける象徴的連鎖【注7】に関係づけられるにしても、われわれの経験の本質的なところを表すどころか、反対にそれの不整合なところしか告げてくれない、ということをである。


第3段落
なるほどわれわれは、〈記号的に意味する連鎖〉の進み具合であるあの偏り、すなわち象徴的交替のあの偏り【注8】における想像的刷り込み(Prägung 刻印づけ)の重要性を知っている。 しかしわれわれは、その連鎖に固有な法〔 loi 〕こそが、主体にとって決定的な精神分析的諸結果を支配しているということを主張する。精神分析的諸結果とは、たとえば、「排除 forclusion (Verwerfung)」,「抑圧 refoulement (Verdrängung)」, 「否定 dénégation (Verneinung)」そのものである。―――われわれは、それら諸結果が、たいへん忠実にシニフィアン〔記号的に意味するもの〕の置き換え〔位置変更〕【注9】に従っているので、想像的諸要因が、慣性を有しながらも、そこでは影や反映のような姿しか呈さないということを、しかるべく強調して明言しておく。


第4段落
とはいえ、そうした強調が、あなた方の判断にとっては、以下のような或る一般的な形式の諸現象を抽象的に取り出すことにしか役立たないということにでもなれば、無駄に浪費されたということになってしまうだろう。すなわち、或る一般的な形式の諸現象とは、われわれの経験においては特殊的であるが、その特殊性があなた方にとっては本質的なままであるような諸現象、しかも〔精神分析の〕技法がなければその諸現象の独特の〔想像界と象徴界との〕混成状態は解消されないような諸現象のことである。


第5段落
だからこそわれわれは、われわれが研究しているフロイトの思想を契機として顕わになる真理、すなわち、主体にとってものごとの構成要因となるのは象徴的秩序であるという真理を、今日あなた方のために例証しようと考えたのである。しかもそうするのは、主体がひとつのシニフィアンの経路から受け取る主要な決定を、或る物語〔ポー『盗まれた手紙』〕のなかであなた方に論証することによってである。

第6段落
フィクションの存在そのものを可能にしているのはまさにそうした真理であるということにわれわれは注目しよう。 したがって、ひとつの作り話〔フィクション〕は、他のどの物語〔フィクション〕と同じように、それ〔真理〕を明るみに出すのに適している―――たとえその場合、それ〔作り話〕の首尾一貫性を吟味せざるを得ないにしても、そうである。 このような留保条件を別にすれば、人々はそれ〔作り話〕が恣意性によって支配されていると信じることができるかもしれないだけに、それ〔作り話〕はますます純粋に象徴的必然性を明示するという優れた点をもちさえするのである。


第7段落
こういうわけで、われわれは、我々の実例を、もっと遠くまで探しに行かないで、その物語〔ポー『盗まれた手紙』〕そのものから取った。その物語とは、われわれがつい最近利用した偶数か奇数かのゲームに関する弁証法が挿入されている物語である。 すでにそこ〔その弁証法〕に支えを見出しているひとつの研究コースを開講するにあたってこの物語が好都合であると明らかになったのは、おそらく偶然ではないだろう。


第8段落
おわかりのように、いま問題にしているのは、ボードレールが《 la lettre volée 〔盗まれた手紙〕 》というフランス語の題名で翻訳した短編小説である。 最初から、ひとはそこ〔短編小説〕において、一つのドラマを、それについてなされるナレーションから、またこのナレーションの諸条件から区別するだろう。

第9段落
そのうえ、ひとはすぐに、どうしてそれら合成諸要素が必要になるのかを見て取るし、またそれらが、それらを組み立てた者のもろもろの意図から逃れ得なかったということを見て取る。


第10段落
そのナレーションは、確かに、そのドラマに或る注釈を加えているのであって、もしもその注釈がなかったら、演出は可能ではなくなってしまうだろう。〔もしもその注釈がなかったら〕言ってみれば、そのドラマのアクション/筋は、厳密に語るならば観客/読者から見えないままになってしまうだろう。 ―――さらに言うなら、そのドラマのせりふは、そのドラマに関係しうるあらゆる意味を、どの聴取者にとっても、意図的にかつそのドラマに必要であるがゆえに欠いていると思われてしまうだろう。 ―――言い換えるなら、そのドラマを演じるときに俳優たちの一人が持っていた視点から、ナレーションがそれぞれのシーン/光景に与えるところの、そう言ってよければ一定の角度のある光による照明というものがなければ、撮影しても録音しても、そのドラマに関することは何も現れることができなくなってしまうだろう。


第11段落
それらのシーン/光景は二つあり、その第一のシーン/第一の光景を、われわれは直ちに原光景/最初のシーンという〔精神分析用語でもある〕名で指し示すのであるが、これは不注意からのことではないのであって、というのも第二のシーン/第二の光景は、まさにここ〔この物語〕で予定されているという意味で、原光景/最初のシーンの反復と考えられ得るからである。


第12段落
さて、〔『盗まれた手紙』において〕ひと〔警視総監〕がわれわれに話すところによれば、その原光景/最初のシーンが演じられるのは王宮の閨房のなかなので、一通の手紙を受け取るときに、その閨房のなかにたった一人でいるもっとも身分の高い人物、それも高貴な方と言われる人物は、王妃ではないかとわれわれは思う。こうした気持ちは、もう一人の高貴な人物の入室によって彼女が陥る窮地からして堅固なものになる。というのも、そのもう一人の高貴な人物について、ひと〔警視総監〕は、その話の前に、われわれに次のように語っていたからである。すなわち、そのもう一人の高貴な人物が知り得るでもあろう当該の手紙の内容が、その婦人に対して、まさしく彼女の名誉と安全そのものを危うくするだろう、と。D大臣の入室とともに始まるシーン/光景に応じて、われわれは実際、まさに王が問題になるということをすぐに疑わなくなる。 事実このとき、王妃は、テーブルの上に手紙を「ひっくり返して、あて名を上にして」置きっぱなしにして、王の不注意に賭けることよりもっと上手いやり方はできなかった。けれども、この手紙は、大臣の山猫のような鋭いまなざしから逃れることはできないし、また、大臣は必ず、王妃の狼狽に気づき、彼女の秘密を見破る。これ以後、すべては、あたかも時計のなかで起こるように繰り広げられる。 大臣は、いつもの調子と才気でもって通常の仕事を片付けた後、彼の目の前にある手紙と外観が似ている一通の手紙をポケットから取り出し、そして読むふりをしてからその手紙を前者の手紙の脇に並べて置く。彼は、さらに王の注意を逸らす言葉を幾らか口にしてから、その厄介な手紙を無造作につかみ取って立ち去ってしまい、その間、王妃は、大臣の巧妙なやり口を何ひとつ見逃さなかったが、そのとき彼女の横にいた王たる夫の注意を呼び覚ますのを恐れて動くことができなかった。


第13段落
したがって、そこにおいて誰もしくじらなかったその作戦/演算のひとりの理想的な〔ありえないほどの〕傍観者〔何もしない王〕にとってなら、一切は気づかれずに済むこともできただろう。そして、その作戦/演算の商〔答〕は、大臣が王妃から彼女の手紙を盗んだということであり、またこちらのほうがはるかに重要な解答であるが、王妃は、その手紙をいま保持しているのは大臣であり、それも悪意をもたずにそうしているのではない、ということを知っているということである。


第14段落
シニフィアンに関することなら何でも考慮に入れておかなければならないと躾けられていても、だからといって必ずしもそれをどうするべきかわかっているわけではない精神分析家なら、誰でもが切り捨てない余りがある。それはすなわち、大臣からは放棄され、王妃の手によっていまや丸められて〔捨てられても〕よい手紙である。


第15段落
第二のシーン/第二の光景、大臣の執務室。それは、大臣の官邸のなかにある。そして、謎解きに適したデュパンの才能をこうした状況でポーが導入するのは二度目なのだが、そのデュパンに警視総監がそれ〔盗まれた手紙〕について語って聞かせた話から、われわれは次のことを知っている。すなわち、大臣がふだん夜は不在なので、警察は、十八ヵ月前からできる限り頻繁に官邸に出入りして、官邸とその周辺をくまなく捜索したということをである。だが―――誰でもが、状況からして、大臣がその手紙を手の届くところに保存しているということを推論できるにもかかかわらず―――その捜索は無駄であった。


第16段落
デュパンの来訪が大臣に告げられた。大臣は、まるでロマン派文学の憂愁を思わせる言葉を口にしながら、わざとらしい無頓着さで彼を迎える。けれども、こんな見せかけにだまされないデュパンは、緑の色眼鏡で自分の眼を隠して、部屋中の物を注意深く眺める。彼のまなざしは、ひどく傷ついた一通の手紙に向かう。マントルピースの真ん中に吊り下げられて、何か金ぴかなもので人目を引いている、ボール紙でできたちゃちな名刺差しの仕切りのなかに、その手紙は差し込まれてほったらかしにされているように見える。そのときすでに彼は理解する、自分が探している物をいま目の前にしているのだと。大きさは一致しても、彼が知っている盗まれた手紙の特徴とは合致しないように見える細部によって、彼の確信はかえって強くなる。



第17段落
これ以後デュパンのなすべきことはただ、嗅ぎ煙草入れをテーブルに「置き忘れて」から引き下がり、翌日、その手紙のそのときの外観に似せた偽造物を身に着けて、その嗅ぎ煙草入れを取りに戻ることだけである。適当な頃合いに起こるよう仕組んだ騒動が往来で始まると、大臣は窓に引き寄せられ、デュパンはこれに乗じて、今度は彼が手紙を奪い取り、その代わりに偽造物を残す。そして、そのあとなすべきことはただ、うわべを取り繕ってごく普通の暇乞いをすることだけである。


第18段落
そこ〔大臣の執務室〕でも、騒音がなかったわけではないが、少なくとも大騒ぎなしに、すべては行われた。その作戦/演算の商〔答〕【注10】は、大臣はもはや手紙を持っていないが、彼自身そのことをまったく知らずにおり、デュパンがその手紙を彼から奪うなどとは思ってもみないということだ。しかも、大臣の手に残されている余り〔偽の手紙〕は、その後の出来事にとって無意味どころの話ではない。われわれはいずれ、デュパンをして偽の手紙に或る一節を書き残すようにさせた動機に立ち戻ることになろう。何はともあれ、大臣がその偽の手紙を〔本物だと思って〕利用しようとするとき、デュパンの筆跡を再認させるべく書かれた次のような言葉を、当の大臣はそこに読むことができるはずである。

  かくもむごき企みも、
  ティエストには、まこと応報なれ、アトレには当らずとも。【注11】

これがクレビヨンの『アトレ』の一節であることを、デュパンはわれわれに教えている。





【注1】「それ(エス)」の原語は《es》であるが、この《es》を非人称代名詞とはみなさずに、あえて「それ(エス)」と訳したことについては、前掲【研究ノート】p346を参照。

【注2】「反復自動症〔automatisme de répétition〕と「反復強迫〔Wiederholungszwang〕」との関係については、同【研究ノート】p350参照。

【注3】《la chaîne signifiante》に、ほぼ定着したと思われる「シニフィアンの連鎖」という訳語を当てず、「記号的に意味する連鎖」と直訳した。この辺の事情については、同【研究ノート】p349参照。さらに、この《la chaîne signifiante》を、以下に現れる「象徴的連鎖 chaîne symbolique」と同義とみなす。

【注4】「反復自動症〔automatisme de répétition〕(反復強迫〔Wiederholungszwang〕)の原理は、われわれが〈記号的に意味する連鎖〉の〈執拗な存立〔insistance〕〉と呼んだもののなかで把捉される」を、以下のようにも意訳することができる:「反復自動症(反復強迫)は、われわれが〈シニフィアンの連鎖〉の〈執拗な存立〔insistance〕〉と呼んだものに由来する」。
以下の第1段落⓷の原文における《 cette prise du symbolique 象徴的なものについてのそうした把捉 》の「そうした把捉 cette prise 」が、この第1段落⓵の文における「prendre 把捉する(ただし受動態に変換して訳した)」という動詞を指すと思われるので、それらの対応関係を際立たせる訳し方をした。

【注5】「外への‐存立〔ex‐sistence〕」については、同【研究ノート】p351を参照。

【注6】《prise》を「把捉」と訳す。【注4】で言及したとおり、この《prise》を、上記の⓵の原文に含まれる《prendre 把捉する》という動詞(受動態にして訳した)に由来する名詞とみなす。つまり、⓷は⓵を受けているとみなす。したがって、《le symbolique》 」を、たんに「象徴界」と訳さないで、もっと具体的に⓵の訳文に含まれる「記号的に意味する連鎖」とみなし、「象徴的なもの」と訳した。

【注7】《 chaîne symbolique 》を「象徴的連鎖」と訳す。この「象徴的連鎖 chaîne symbolique」を、「序 INTRODUCTION」における《 chaîne symbolique 》とみなす。ÉCRITS p51~52参照。

【注8】《 ces partialisations de l’alternative symbolique 》を「象徴的交替のあの偏り」と訳す。「あの ces」とあるので、「象徴的交替 l’alternative symbolique」を、「序 introduction」における《 alternative 》あるいは《 alternance 》を指すとみなす。ÉCRITS p47参照。

【注9】《 déplacement (Entstellung) du significant 》を「シニフィアン〔記号的に意味するもの〕の置き換え〔位置変更〕」と訳す。「置き換え〔位置変更〕 déplacement (Entstellung)」については、前掲【研究ノート】p351参照。

【注10】商と余りは、第13段落と第14段落のそれに対応している。

【注11】ポオ『黒猫・モルグ街の殺人事件』中野好夫訳、岩波文庫、2002年所収、『盗まれた手紙』p252

『差異と反復』第二章、第3段落、注釈11

3月末で定年退職を迎えるが、2月末に経済学部に提出する論文の執筆で時間がとられている。このブログで書いてきた『差異と反復』第二章のぐちゃぐちゃした注釈をもっとスッキリまとめて、「時間の第一の総合―――生ける現在」に関する注釈的論文の執筆に時間を割きたいと思っている。というわけで、今回のブログ記事では、第三段落の最後の部分の改訳の訳文を公表するだけにしておきたい。

改訳を続けてきて痛感したのは、やはり、『差異と反復』原文の精読は限りがないということだ。けれども、日本の読者の精読に耐えうる訳文を作り上げなければ・・・・。

第3段落、前回改訳の続き(文庫上、p201~202)

⑦ そうではなく、記憶は、互いに区別されるものとしてのもろもろの特殊な事例を、想像力の質的印象のほうから復元し、それら諸事例を、記憶特有の「時間スペース(一応、「時間の空間」ではなく「時間スペース」と訳す。ドゥルーズ自身の表現か、あるいはベルクソンか他の誰かの言葉か、まだ突き止めていない)」のなかで保存するということである。
⑧ そうなると、過去は、もはや過去把持〔「フッサール『内的時間意識の現象学』の用語。立松訳の訳語に従う。〕における直接的な過去ではなく、かえって、表象=再現前化における反省的過去、すなわち反省され再生された特殊性になる。
⑨ これと相関して、未来も先取りにおける直接的な未来ではなくなり、予想における反省的未来、すなわち知性における反省された一般性になる(知性は、想像力における予期を、観察されたあるいは想起された互いに区別されるもろもろの同じような事例の数に釣り合わせて考えてしまう)。
⑩ ということは、記憶と知性の能動的総合は想像力の受動的総合に重なって、これに依拠するということである。
⑪ 反復の構成は、それだけですでに三つのレベルを含意している。まず、反復を思考されえないままにしておく即自、つまり反復ができあがるそばからその反復を壊してゆく即自。つぎに受動的総合における対自。さらに、この受動的総合に基づきながらも、能動的総合における「対われわれ」の、反省された表象=再現前化。
⑫ 連合説には無二の精妙さがある。
⑬ ベルクソンが、同様な問題にぶつかるとき、いちはやくヒュームにおける諸分析を取り戻すのは、驚くべきことではない。
⑭ すなわち、四時の鐘が鳴っている・・・。
⑮ どの一打も、どの振動あるいは刺激も、論理的には互いに独立しており、瞬間的精神である。
⑯ しかし〈われわれ〉は、あらゆる思い出〔souvenir スヴニール:ベルクソンの用語、souvenirを今後「思い出」と訳す。これについては、稿を改めて論じなければならない〕あるいは判明な計算から離れて、持続の本質たる生ける現在つまり受動的総合のなかで、それら〔四つの音〕を縮約して、ひとつの内的な質的印象をつくりあげる。
⑰ 次いで〈われわれ〉は、それら〔四つの音〕を、或る〈補助的なスペース〉〔ベルクソンの言葉、上記「時間スペース」を指すだろう〕のなかに、つまり或る派生的な時間のなかに戻して、そこにおいて〈われわれ〉は、それらを、同数の数量化可能な外的諸印象として、再生したり、反省したり、数えたりすることができるのである。      
                                    ( 続く)

『差異と反復』第二章、第3段落、注釈10

4月から、朝日カルチャーセンター新宿校で、デカルトの講義をすることになった。私はデカルト研究から出発し、ドゥルーズを訳していたときも、デカルトについて論文を書いていた。しばらくデカルト研究から離れていたが、今後は、ドゥルーズばかりでなくデカルトも論じていきたいと思っている。デカルトについては、このブログでやっているようなドゥルーズ研究のスタイルで論じるのではなく、現在進行中の新たな科学革命を視野に入れながらデカルトに再接近するつもりである。「再接近」と言っても、マーガレット・マーラーの精神分析理論とは関係はない。マーラーではなく、レイ・カーツワイルやギルバート・ライルを参照しながら、あるいはゲノム編集を考慮に入れながら、もちろんドゥルーズを忘れずに、精神と主体に関して論じたいと思っている。


さて、再び、第1段落後半の文章を精読しよう。(文庫上、p197後ろから1行目~p198)

① ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。
② それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例からつまり他のシークエンスから独立している。
③ 反復は、(しかし正確には〔「まさしく」という訳はやめて、旧訳の通り「正確には」と訳す〕、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。
④ そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。
⑤ Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。
⑥ それ〔一応、「予期」を受けているとみなす・・・財津〕こそが、それ〔「反復」を受けているとみなす・・・財津〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての〈反復の対自〉なのであろうか。
⑦ 反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照
⑧ する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。


以上を、第3段落冒頭の六つの文章と対照して考えてみよう。この六つの訳文は、前回のものを更に修正したものである。

① われわれは、対象における反復を考察していたときには、或る反復観念を可能にする諸条件の手前にとどまっていた。
② しかしわれわれは、主観における変化を考察するときには、すでにその向こう側で、一般的な形式での差異に直面する。
③ それゆえ、反復の観念的構成は、それら二つの限界〔諸条件の手前と諸条件の向こう側〕のあいだにおける一種の遡及的な運動を含意している。
④ それ〔この代名詞「それ」つまり《 Elleエル》を、「反復の観念的構成」ととる。文庫上、p201、11行目参照〕は、それら二つの限界のあいだで作られるのだ。
⑤ 想像力のなかで縮約されたつまり融合したもろもろの事例〔チック・タック〕は、それでもなお記憶あるいは知性のなかでは依然として互いに区別されたままであるということをヒュームが指摘するとき、彼が深く分析しているのは、まさにそうした運動である。
⑥ だからと言って、一つの事例が消えなければもう一つの事例を生産しないという物質の状態に、そこ〔想像力における縮約〕から戻っているわけではない。


まず、上記第1段落後半の①~③は、第3段落冒頭の①に対応するだろう。ここでは、「物の状態」つまり「物質の状態」が問題にされており、「一方が消えなければ他方が現れない」という意味での反復が語られている。

この「物質の状態」における反復のなかでは、「反復観念」は可能にならない。なぜなら、第一段落で、「物質の状態」を「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」と定式化した後で、「しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。」と述べていたからである。

次に、第1段落後半の④が、第3段落冒頭の②に対応するだろう。共に、「観照する精神のなかでの変化」、「差異」を語っている。

第1段落後半④において、「観照する精神のなかでの変化」は、「差異」、「何か新しいもの」と言い換えられていた。以前のブログ記事で私は、この「変化」、「差異」を「予期」とみなした。第3段落の②では、「一般的な形式での差異」と言い換えられている。

この「一般的な形式での差異」はさらに、以前のブログ記事で改訳した第2段落の「したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで 構成している過去から未来へ進むのであり、すなわち同じことだが、特殊から一般へ進むのである。言い換えるなら、生ける現在は、その生ける現在が縮約のなかに包み込んでいるもろもろの特殊なものから、その生ける現在がおのれの予期という場のなかで展開する一般的なものへと進むのだ(精神のなかで生産された差異〔予期〕は、〈 未来のための生ける規則 〉をなすかぎりにおいて、一般性そのものである)」(文庫上、p199~200)という文章に対応しているだろう。

上記の〈 未来のための生ける規則 〉、は、前回の訳「生ける未来原則」を、今回さらに変更した訳語である。

問題は、第1段落後半の⑥および⑦の曖昧な文章である。
                               (続く) 
                             

『差異と反復』第二章、第3段落、注釈9

明けましておめでとうございます。

けれども依然として雑用から解放されず、ブログの執筆が滞ってしまった。「無理をしない」という生活原則を守っているので悪しからず。

話は変わるが、3月上旬に発行予定の法政大学の雑誌に、ラカン『《盗まれた手紙》についてのセミナー』の最初の18段落の拙訳が掲載されるので、発行され次第このブログで拙訳を公表したいと思っている。一応精読に耐える訳文になっていると思う。

御託を並べるのはやめて、第3段落の読解に移ろう。

第1段落に現れる「私」についてもそうだが、第3段落に現れる「われわれ」の叙述ステイタスは微妙である。『差異と反復』の読者は、叙述の背後に控えている叙述者ドゥルーズと叙述に現れる「われわれ」との関係を追究する必要があるだろう。

ともあれ、私は『差異と反復』の本文を理解したいと思っている。後になって訂正されることになっても理解できたという実感を得たいと思っている。

ところで、第二章の最初の原注(原注1)は第3段落の末尾に付いている。この原注1において、ベルクソン『時間と自由』とヒューム『人性論』の参照箇所が指示されている。

では、この原注の指示を、われわれは、どう受け取ればよいのだろうか。この二つの書物の当該の箇所を読まなければ、『差異と反復』第二章の第1、第2、第3段落の議論はよく理解することができないということだろうか。

それともドゥルーズは、彼が参照を指示する著作の内容を展開し変奏しているにすぎないのだろうか。

あるいは、齟齬する諸セリー(連関)どうしの共鳴という、ドゥルーズの基本的な観点から、原注と本文の関係を考えるべきなのだろうか。この問題は、第2章の終わりごろで、「《偽》の力」(文庫上、p342)をめぐって考えよう。ちなみに、私が「偽の力」と訳した原語《 puissance du faux ピュイサンス デュ フォ 》は、『シネマ2』などでは、「偽なるものの力能」と訳されている。

一般的に言うなら、歴史の車輪によって踏み潰されなかった哲学書は、読者が理解を求めて思考させられる書、思考が疑問を呼びその疑問が思考を呼び求める書である。理解体験が思考を停止させる類の本ではない。

さて繰り返すが、われわれは、『差異と反復』を理解するためには、ドゥルーズが指示する哲学書あるいは思想書を読んでおかなければならないのだろうか。

たしかに、そうする必要はある。だが、われわれは、そうせずに『差異と反復』を読むこともできる。

そこで、上記の原注を無視し、この第3段落を、第1、第2段落の本文だけを頼りに、読解/思考していこう。第1、第2段落では、絶えず「物質の状態」と「精神のなか」が対比されていた。

まず、第3段落の冒頭の六つの文章を改訳し、問題を提起する
 ① われわれは、対象における反復を考察していたときには、或る反復観念を可能にする諸条件の手前にとどまっていた。
 ② しかしわれわれは、主観における変化を考察するときには、すでにその向こう側で、一般的な形式での差異に直面する。
 ③ それゆえ、反復観念の構成は、それら二つの限界〔諸条件の手前と諸条件の向こう側〕のあいだにおける一種の遡及的な運動を含意している。
 ④ それ〔反復観念もしくはそれの構成〕は、それら二つの限界のあいだで織り上げられるのだ。
 ⑤ 想像力のなかで縮約されたつまり融合したもろもろの事例〔チック・タック〕は、それでもなお記憶あるいは知性のなかでは  依然として互いに区別されたままであるということをヒュームが指摘するとき、彼が深く分析しているのは、まさにそうした運動である。
 ⑥ だからと言って、一つの事例が消えなければもう一つの事例を生産しないという物質の状態に、そこ〔想像力における縮約〕から戻っているわけではない。


①の「反復観念」は、旧訳では「反復の理念」である。原語は《 idée 》 である。私は、さんざん迷ったあげく旧訳では「理念」にしたのだが、現在は、大文字の《 Idée 》を「理念」あるいは「イデア」と訳し、小文字の《 idée 》は「観念」と訳そうと思うようになった。しばらくこの方針で、読みを進めよう。

そこでまず、「反復観念を可能にする諸条件の手前」とは何か。「手前」とは、「われわれが対象における反復を考察していたとき」のポジションであり、「対象」は「瞬間的精神としての物質」なのだから、「〈瞬間的精神としての物質〉の状態」であろう。すなわち「一方が消えてしまわなければ他方は現れない」という状態であろう(文庫上、p197)。

次に、「その向こう側」すなわち「反復観念を可能にする諸条件の向こう側」とは何か。それは、「主観における変化を考察するとき」のポジションであり、「われわれが一般的な形式での差異に直面するとき」である。それは、「反復を観照する主観における変化を、われわれが考察するとき」と言ってよいだろう。「主観における変化」は、「差異」、「何か新しいもの」と言いかえられている(文庫上、p197~198)。

要するに、まず、「反復観念を可能にする諸条件の手前」は「一方が現れると他方は消えてしまっている物質の状態」であり、次に、「反復観念を可能にする諸条件の向こう側」は「観照する主観における変化」であろう。

では、「反復観念を可能にする諸条件」とは何か。第1段落の末尾の説明と齟齬していないだろうか。さらに考えていこう。
                                    
 (続く)

『差異と反復』第二章、第2段落、注釈8

『差異と反復』第二章第2段落の精読に戻ろう。これまで、読解があまりにも重複しておりまたゴチャゴチャしているので辟易している読者もいるだろうが、おつきあい願いたいと言うほかはない。解析と読解が或る程度進んだところで、話をスッキさせるつもりではいる。
テクストを一行ごとに理解しようとする態勢は維持したいが、しかし、読解できたとは思えない文章にも突き当たるので、それについては疑問を提示するだけにしよう。その際、フランス語原文の解釈の問題になるので、そこは読み飛ばしていただいて差し支えない。

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これまでの精読部分:『差異と反復 上』文庫版 p198、11行目~p199、15行目

時間の第一の総合—――生ける現在
そのような変化〔=反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化〕は、どうなっているのだろうか。ヒュームの説明によれば、互いに独立した同一のあるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合する。想像力は、ここではひとつの縮約能力として、言わば〔古典的な写真機の〕感光版として定義される。想像力は、新たなものが現れてきても、以前のものを保持している。想像力は、等質な諸事例、諸要素、諸振動、諸瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくる。Aが現れると、すでに縮約されているすべてのABの質的印象に応じた力で、われわれはBを予期するのである。それは、断じて記憶ではなく、知性の働きでもない、つまり縮約は反省ではないということだ。厳密に言うなら、縮約は時間の総合を成している。瞬間の継起は時間をつくらない、それどころか、時間をこわしてしまう。つまり、瞬間の継起は、時間が生まれようとしてはつねに流産してしまう点を示しているだけである。時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合のなかでしか構成されない。この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成しているのである。そして、時間は、まさにその現在のなかで広がる。過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属しており、未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの〔生ける〕現在そのものの〔二つの〕次元を意味している。その現在は、過去から未来へ進むために、自分の外に出る必要はない。

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以下、今回の精読部分:『差異と反復 上』文庫版p199、15行目から、第2段落の終わりまで。一文ずつ切り離して改訳し、便宜的に番号をつける。その後で解析と問題提起を行う、なお、文庫版(ハードカバー版)に、一か所誤植があるので訂正する。


⓵したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成している過去から未来へ進むのであり、すなわち同じことだが、特殊から一般へ進むのである。

⓶言い換えるなら、生ける現在は、その生ける現在が縮約のなかに包み込んでいるもろもろの特殊なものから、その生ける現在がおのれの予期という場のなかで展開する一般的なものへと進むのだ(精神のなかで生産された差異〔変化、何か新しいもの、つまり私は予期するということ〕は、生ける未来原則をなすかぎりにおいて、一般性そのものである)。

⓷こうした総合は、どこから見ても、まさしく受動的総合と名付けるほかはないものである。

⓸この総合は、〔時間を〕構成するのだが、だからといって能動的な総合であるわけではない。

⓹この総合は、精神によってつくられるのではなく、観照する精神のなかで、どのような記憶にもどのような反省〔邦訳では反省ではなく反復になっているが、反省が正しい―――訳者〕にも先立って、できあがるのである。

⓺時間は主観的なものであるが、しかしそれは、或る受動的な主観〔私〕の主観性〔私は思考するに属することがら〕である。

⓻この受動的総合、つまり縮約は、本質的に非対称的である。

⓼すなわち、それ〔受動的総合〕は、現在のなかで過去から未来へ進み、したがって、特殊から一般へ進むのであり、このようにして時間の矢を方向づけるのである。
                                                           以上、第2段落終わり

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第2段落の解析と問題提起

すでに述べたように、時間の第1の総合は、経験的なレベルでの時間の受動的総合である。この受動的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆくという意味での縮約である―――この縮約については、第3段落を精読するときに、フッサールにおける内的時間意識を参照しながらもう一度考察しよう―――。

この段落の語句のまとめ:「時間(生ける現在)の総合」=「諸瞬間の縮約」=「根源的総合」=「受動的総合」

ところで、縮約される諸瞬間は、抽象的な時間的意味での瞬間ではない。またそれは、「一方が消えてしまわなければ、他方は現れないもの」として前提された瞬間的な物理現象そのものではない。それは、われわれの観点からするなら、その瞬間的な物理現象を観照する精神における一種の知覚現象であろう。 

「互いに独立した同一のあるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合する。想像力は、ここではひとつの縮約能力として・・・として定義される」。縮約される諸事例とは、たとえば、第4章で明示されるように、AB、AB、AB、A・・・(チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック・・・)である。

だが、ドゥルーズは、縮約される諸瞬間つまりもろもろの「チック・タック」を知覚現象だとは言わない。ドゥルーズによれば縮約=融合は想像力の能力である。

しかし、われわれの観点からすれば、縮約が始まる前に、まず縮約される事例(チック・タック)が精神に与えられなければならない。与えられた事例が想像力のなかで縮約=融合されるのであろう。縮約=融合に先立って「与えられる」ということを、われわれは知覚と呼んだのである。もちろん与えられると同時に縮約が始まるのだろうが、縮約は知覚ではないだろう。

経験科学たらんとする心理学的の観点からするなら、知覚されるべき瞬間的物理現象はどれほど短い間でも持続するだろうし、縮約されるべき瞬間的知覚はどれほど短い間でも持続するだろう。これについては、ベルクソンの議論があるが、今は脇に置いておこう。

ドゥルーズの前提によれば、瞬間的物理現象は「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」であり、縮約されるべき瞬間的知覚は持続する現在のなかにある(『差異と反復 上』文庫版p215)。

時間の第1の総合は経験的レベルの総合だとドゥルーズは言うが、経験科学としての心理学のレベルでの議論ではない。それはやはり、経験に関する形而上学的議論である。ドゥルーズは、晩年に至るまで、いや晩年においてこそ、形而上学を肯定している。

論理的に瞬間的だと前提された物理現象は、「物の状態」あるいは「物質の状態」とも呼ばれているのだが、物質そのものはライプニッツにおける「瞬間的精神」とも言い換えられている。従来の哲学史的通念からすれば、ドゥルーズは観念論臭い出発点を設定していると言えよう。

最初に聞こえるチック・タックに、次に聞こえるチック・タックが融合し、またその次に聞こえるチック・タックが融合していくという、諸事例の融合つまり縮約は、物理現象ではなく、観照における精神現象である。物質は、形而上学的な意味で瞬間的精神であるが、しかし物理現象と本来の精神現象は本性上異なっている。ここには本性上の差異がある。

すなわち、「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」という存在様態は瞬間的物理現象に割り当てられており、精神現象としての観照の内容は「想像力のなかでの融合」の状態にある。

これは主観的なプロセスであるが、しかし、主観的だからといって、意志的なプロセスでも知性的なプロセスでもない。つまり、能動的なプロセスではないということだ。それは、受動的なプロセス、受動的総合である。

この受動的な精神現象は、ヒュームの『人生論』の印象論を踏襲している。ヒューム『人性論』においては、精神とは、印象と観念の流れであり、精神に最初に出現するものは、諸感官に与えられた感覚的印象である。この感覚的印象は、想像力によってコピーされ、観念として残る。ドゥルーズ『経験論と主体性』を参照されたい。

さて、時間の第1の総合である受動的総合において、時間が構成される。この時間は、生ける現在である。受動的総合において構成される時間は、生ける現在なのである。この生ける現在は、時間意識の現在である。

「時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合のなかでしか構成されない。この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成しているのである。」

生ける現在、つまり常に現在にある時間意識は、過去と未来を、おのれの二つの次元として具えている。縮約された諸瞬間は、過去のあり方で、生ける現在のなかで把持されている。(「把持」という語はフッサールの『内的時間意識の現象学』の訳語であり、これについては第3段落で論じる。)

継起してゆくそれぞれの「チック・タック」(物理現象)を、精神が観照するとき、その精神(時間意識)は常に現在にある、つまり継起するどの「チック・タック」の観照においても精神は常に現在にあると意識している。

たとえば、ラフマニノフのピアノ協奏曲を聞いているとき、その演奏の初めから終わりまで、どの瞬間においても音は常に現在において聞こえている。どれほど短い持続であっても聞こえている瞬間は、常に現在、今である。「聞こえる」というのは、「今聞こえる」ということであって、今聞こえているとき、意識は過去にはない。今音が聞こえているのは、過去に聞こえて「いる」ということではない。経験的レベルでは、あるいは経験の形而上学においては、私は常に現在存在しているということだ。そして、今音が聞こえている意識は、過去に聞こえ「た」音を今保存する。

こうして、現在の「チック・タック」のなかに古い「チック・タック」が融合してゆき、「或る種の重みをもった内的な質的印象」つまり「チック・タック」の質的な(つまり量的ではない)塊たる印象がつくられる。こうした印象は、観照=縮約のなかで把持されている限り現在に含まれる過去の印象である。

こう言ってよいだろう。すなわち、生ける現在のなかで諸瞬間が縮約されてつくられる質的印象の過去性が、生ける現在の非空間的な時間的次元であると。この意味で、過去は生ける現在のなかにある。

では未来はどうだろうか。未来が現在のひとつの次元として構成されるというのは、どのような事態であろうか。

ドゥルーズは、第1段落で、こう述べていた。:「反復は、・・・対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。そのかわり、ひとつの変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。」

この「変化」、「何か新しいもの」、「差異」を、われわれは、「予期」とみなした。

ドゥルーズはまた、第2段落で、こうも述べている。:「未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの〔生ける〕現在そのものの〔二つの〕次元を意味している。その現在は、過去から未来へ進むために、自分の外に出る必要はない。」

予期は先取りである。ドゥルーズはこう述べている:「Aが現れると、すでに縮約されているすべてのABの質的印象に応じた力で、われわれはBを予期するのである。」チック・タックを聞き続けていると、チックを聞いただけで、タックを予期してしまう。こうしたタックの予期は、未来のタックの先取りである。先取りされる未来のタックの未来性が、生ける現在の非空間的な時間的次元である。

さらにドゥルーズはこうも述べている:「したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成している過去から未来へ進むのであり、すなわち同じことだが、特殊から一般へ進むのである。言い換えるなら、生ける現在は、その生ける現在が縮約のなかに包み込んでいるもろもろの特殊なものから、その生ける現在がおのれの予期という場のなかで展開する一般的なものへと進むのだ(精神のなかで生産された差異〔変化、何か新しいもの、つまり私は予期するということ〕は、生ける未来原則〔旧訳では、未来に関する生ける規則〕をなすかぎりにおいて、一般性そのものである)。」

生ける現在は、その現在が時間のなかで構成している過去から未来へ進む。しかし、この時間は、どのような時間だろうか。この「時間のなかで」という表現があるために、われわれは、現在と過去と未来のほかに、時間なるものを想定したくなる。あるいは、「時間のなかで」は「時間の様態で」と読むのかもしれない。

ドゥルーズは、「現在は、過去から未来へ進むために、自分の外に出る必要はない」と述べていた。過去と未来は現在が構成し、現在に属する次元だから、現在は自分のなかで過去から未来へ進むことになる。言い換えるなら、生ける現在は、自分のなかでつくられた過去の質的印象(これまでのすべてのチック・タックの質的かたまり)の過去性から、今チックが鳴ると同時に、未来のタックの未来性へと進む。ただし、この未来のタックは即自的なタックではなく、先取りされた、つまり予期されたタックである。

だが、問題は、「特殊と一般」というドゥルーズの表現にある。過去から未来へ進むことを、ドゥルーズは「特殊から一般へ進むこと」だとしている。私は、《le particulier》を「特殊」と訳し、《le général》を「一般」と訳した。ともに論理学用語とみなした。さらにドゥルーズは「特殊」の複数形で表現しているので、「もろもろの特殊なもの」と訳した。「もろもろの特殊なもの」とは「縮約されて保持されているもろもろのチック・タック」を指すだろう。

「一般」は「未来」の言い換えだが、この未来は先取りされた(予期された)未来、つまりタックである。このタックは、過去(チック・タック)によって規定された未来である。とすれば、先取りは規定されているのだから、先取りされた未来をどうして「一般」と言い換えることができるのだろうか。しかしここでは、疑問を提示しておくだけにしておこう。

(ところで、ハードカバー版でも文庫版でも、「特殊」は「個別的」になっている。当時私は「特殊」という訳語を避けた。なぜなら教育の世界において「普通教育」という用語に対して「特殊教育」という用語使われていることから、「特殊」という言葉に「普通ではない」というやや軽蔑的な意味合いが潜在化してしまったように思えたからである。だが今では論理学用語である「特殊」を訳語として用いることにしている。)

さてわれわれは、第3段落に進むことができる。

『差異と反復』第二章、第二段落、注釈7 ラカン、シネマ

法政大学の雑誌『多摩論集』に掲載するため、ラカン「《盗まれた手紙》についてのセミナー」の第1段落から第18段落までの翻訳原稿を推敲していたので、しばらくブログの記事執筆から離れていた。翻訳は、インターネットで公開されているフランス語テクストに基づく。この雑誌は来年早々には発行されると思われる。発行され次第、この翻訳をブログで公表したいと思う。これには、以前法政大学経済学部の紀要に発表した第1段落から第5段落までの翻訳を大幅に修正したものを再録している。

もう15年以上、私が主宰するラカン読書会で「盗まれた~」のフランス語テクストを読んでいるが、何かようやくラカンのフランス語に慣れてきたような感覚がもてたので、「盗まれた~」全文の翻訳を完成するつもりである。注釈は、翻訳完成後につくるつもりだ。

『差異と反復』の改訳版の刊行と同時に、つまり3年後ぐらいに、「盗まれた~」の翻訳も何らかのかたちで刊行できればと思っている。訳文は、熟読可能なレベルに仕上がっていると思う。

ラカン読書会は熱心な参加者がいるので続いている。他方、やはり法政大学市谷校舎で『シネマ1』の読書会も開いている。ともに、朝日カルチャーセンターで開講していたころの受講生が、現在の読書会の参加者である。

『シネマ』読解のためには、ベルクソン哲学を或る程度理解していなければならないので、映画に関する知識だけではどうにもならないところがあるが、だからといってそれがぜんぜんなければ、やはり『シネマ1』読解の面白さは半減するだろう。

読書会参加者たちは様々な映画鑑賞経験と高度な映画知識をもっているので、私も助けられている。『シネマ1』に続いて『シネマ2』の読書会も、ずいぶん先になるが予定してはいる。

『シネマ1』で扱われている映画はほとんどYou tubeで見ることができる。また、まあまあ使えるパソコンが1キロを切るほど軽くなり、値段も外国製なら安い。そこで最近、法政での『シネマ1』の読書会とは別に、パソコンを持ち寄ってYou tubeで映画を見ながら、『シネマ1』を好き勝手に読解するという、ゆるい「シネマ・哲学カフェ」のようなものをやりたいと思うようになった。

このごろ吉祥寺に用事があって、その合間に喫茶店でパソコンを使って原稿を書いているせいかもしれない。

ブログのプロフィール欄で私のメール・アドレスを公開したので、「シネマ・哲学カフェ」その他について何かアイディアのある方はメールしていただけると幸いです。ただし、必ず返信するわけではないので、悪しからず。

間もなく、『差異と反復』第二章第二段落の精読に戻る。

『差異と反復』第二章、第二段落、注釈6 齟齬を排除してみる

ピックアップした時間規定をもう一度示し、齟齬をできる限り排除する方向で考察してみる。

けれども、ここで留意しておかなければならないのは、以下で抽象的に論じるような時間構造が『差異と反復』第二章の主要な内容なのではないということである。時間の第一の総合においてさえ、感覚、有機体、習慣、自我が問題になっており、第二章の後半は、時間の三つの総合にそくして精神分析の諸問題、たとえば無意識、死の本能(欲動ではない)が、論じられている。ドゥルーズの時間論を分析しても、そのような豊かな内容を捨象するならドゥルーズの思想を取り逃がすことになるだろう。しかし今は、しばらく、時間を抽象的に論じていこう。


⑴「こうした〈生命の原初的感性〉の水準において、生きられる現在が、すでに時間のなかで〔dans ダン〕或る過去と或る未来を構成しているのである。」

⑵「時間の総合は、時間のなかで〔dans ダン〕現在を構成する。だからといって、現在が時間のひとつの次元であるというわけではない。存在するのはひとり現在のみである。その総合は、時間を生ける現在として〔comme コム〕構成し、過去と未来をそうした現在の〔二つの〕次元として〔comme コム〕構成するのである。」

⑶「時間の第一の総合は、根源的であるが、それでもなお時間内部的である。この総合は時間を現在として〔comme コム〕構成する、ただし過ぎ去る現在として〔comme コム〕構成する。時間はその現在の外には出ないのであって、その現在はと言うなら、いくつもの跳躍によって絶えず動くのであり、それも少しずつ重なり合う跳躍によって動くのである。そのようなことが、現在というもののパラドックスなのである。要するに、時間を構成するのではあるが、この構成された時間のなかで〔dans ダン〕過ぎ去るということである。」

⑷「習慣の受動的総合〔=時間の第一の総合〕は、現在という条件のもとで、時間を諸瞬間の縮約として〔comme コム〕構成していた・・・。」

⑸「習慣の総合たる第一の総合は、・・・時間を、或る生ける現在として〔comme コム〕構成していた。」

⑹「記憶の総合たる第二の総合は、・・・時間を、或る純粋過去として〔comme コム〕構成していた。」

⑺「・・・所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていることを、そして作品がその作者あるいは当事者=俳優に対して独立していることを、同時に或る未来が肯定するのだが、こうした未来を時間の第三の総合が構成するのである。」

⑻「・・・受動的な自我は、それ自体受動的な総合(観照‐縮約)によって、もっと深く構成される。」

考察と問題提起
さしあたり以上の訳文つまり日本語に即して考察を進める。前回の考察と多少重なるところがある。

⑵ から考察する。
⑵よれば、時間の総合は、「時間のなかで」、現在を構成する。
さらに、時間の総合は、時間を、生ける現在として構成する。
そればかりでなく時間の総合は、過去と未来を、生ける現在の次元として構成する。
→「時間の総合が時間のなかで現在を構成する」と「時間の総合が時間を生ける現在として構成する」は、同じ事態を指していると考える。
→すなわち、「時間のなかで構成された現在」と「生ける現在として構成された時間」は同じである。
→だから、時間とは、構成されたものである限りにおいて、生ける現在である。
→時間の第1の総合においては、時間=現在であり、過去と未来は、現在の次元として構成される。

⑴ に戻る。
⑴ によれば、生きられる現在(=生ける現在)が、「時間のなかで」或る過去と或る未来を構成する。
⑵ によれば、時間の総合が、過去と未来を、「生ける現在の次元として」構成する
→過去と未来は、「生きられる現在によって時間のなかで構成されるもの」であり、「時間の総合によって現在の次元として構成されるもの」である。
→したがって、「⑴生きられる現在(=生ける現在)が時間のなかで或る過去と或る未来を構成する」と「⑵時間の総合が、過去と未来を、生ける現在の次元として構成する」は、同じ事態を指していると考える。
→ところで、⑵によれば、時間=現在である。
→したがって、⑴の「時間のなかで」は⑵の「生ける現在の次元として」を意味し、要するに「時間=現在に属する」を意味すると考える。

以上の暫定的な要約 : 時間の第1の総合においては、「時間の総合」は「観照‐縮約」を意味し、この「時間の総合」によって、「時間」は「生ける現在」として構成される。つまり時間とは生ける現在であり、過去と未来は、この生ける現在に属する次元である。


さらに⑶によれば、時間の第一の総合は、時間を、現在として構成する【ここまでは⑵と同じである】。
ただし、この現在は、過ぎ去る現在である。
→現在として構成された時間は、過ぎ去る現在である。

問題は、⑶の最後の文章、すなわち「時間はその現在の外には出ないのであって、その現在はと言うなら、いくつもの跳躍によって絶えず動くのであり、・・・・そのようなことが、現在というもののパラドックスなのである。要するに、時間を構成するのではあるが、この構成された時間のなかで過ぎ去るということである。」をどう読むかにある。ここには「生ける現在」をめぐるサルトルとメルポンティの考え方の影が見えるが、今はこれには立ち入らないでおこう。また、フッサールについても言及しないでおこう。

さて、以上を私は、このように解する : 現在は時間を構成している、すなわち 現在は時間をなしている。しかもその現在は、観照‐縮約によって現在として構成された時間のなかで過ぎ去る。すなわち、現在は、現在としての時間のなかで過ぎ去る。

以上の暫定的な要約 :時間の第一の総合において、現在は、現在のなかで過ぎ去る、あるいは時間は時間のなかで過ぎ去る、それが現在というもののパラドックス、あるいは時間のパラドックスである。


ようやく、われわれは、第二章第二段落の精読に戻ることができる。
(続く)

『差異と反復』第二章、第二段落、注釈5 考察と問題提起

第二章前半部からピックアップした時間規定、すなわち前回記事の⑴~⑻を、もう一度記す。念のため原語を補足しておいたが、フランス語に堪能でない読者は、原語は飛ばして読んでいただいてかまわない。けれども、「なかで〔dans ダン〕」と「として〔comme コム〕」という語に十分留意して読もう。


⑴ 「こうした〈生命の原初的感性〉の水準において、生きられる現在が、すでに時間のなかで〔dans ダン〕或る過去と或る未来を構成しているのである。」

⑵ 「時間の総合は、時間のなかで〔dans ダン〕現在を構成する。だからといって、現在が時間のひとつの次元であるというわけではない。存在するのはひとり現在のみである。その総合は、時間を生ける現在として〔comme コム〕構成し、過去と未来をそうした現在の〔二つの〕次元として〔comme コム〕構成するのである。」

⑶ 「時間の第一の総合は、根源的であるが、それでもなお時間内部的である。この総合は時間を現在として〔comme コム〕構成する、ただし過ぎ去る現在として〔comme コム〕構成する。時間はその現在の外には出ないのであって、その現在はと言うなら、いくつもの跳躍によって絶えず動くのであり、それも少しずつ重なり合う跳躍によって動くのである。そのようなことが、現在というもののパラドックスなのである。要するに、時間を構成するのではあるが、この構成された時間のなかで〔dans ダン〕過ぎ去るということである。」

⑷ 「習慣の受動的総合〔=時間の第一の総合〕は、現在という条件のもとで、時間を諸瞬間の縮約として〔comme コム〕構成していた・・・。」

⑸ 「習慣の総合たる第一の総合は、・・・時間を、或る生ける現在として〔comme コム〕構成していた。」

⑹ 「記憶の総合たる第二の総合は、・・・時間を、或る純粋過去として〔comme コム〕構成していた。」

⑺「・・・所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていることを、そして作品がその作者あるいは当事者=俳優に対して独立していることを、同時に或る未来が肯定するのだが、こうした未来を時間の第三の総合が構成するのである。」

⑻「・・・受動的な自我は、それ自体受動的な総合(観照‐縮約)によって、もっと深く構成される。」


考察と問題提起

第二章第二段落前半部、すなわち9月15日、22日、24日に精読した箇所③~⑭において、次のことがすでに確認されている。

時間の受動的総合つまり縮約が構成するのは、時間と生ける現在である
時間は、生ける現在のなかで広がる

→しかしこれだけでは、われわれには、時間と生ける現在が同じかあるいは異なるのか、そして時間が何を意味するのかは不明である。


ピックアップした時間規定の文章⑴~⑻においては、事態はさらに複雑になる。(番号は、ほぼテキストに現れる順番を示す)

それらの文章の言わんとしていることが齟齬をきたしているのか、あるいは私の読みが浅いのかを確かめていこう。

⑴では、生きられる現在(=生ける現在)が、「時間のなかで」過去と未来を構成する。
→とするなら、生きられる現在(=生ける現在)と、時間は、何か別のことと考えたくなる。

⑵では、時間の総合が、「時間のなかで」現在を構成する。
さらに、時間の総合は、時間を「生ける現在として」構成する。
しかも、過去と未来をそうした現在の〔二つの〕次元として構成する
→まず、構成を行うものは、⑴では生ける現在であり、⑵では時間の総合である。
→⑵からすれば、時間とは生ける現在である。

さて、⑴と⑵を齟齬させない読み方は可能だろうか。

まず翻訳上の問題がある。《 constituer コンスティテュエ 》というフランス語の動詞を、私は「構成する」と訳したのだが、「構成する」という日本語の動詞においては、主語と目的語が異なると考えうる。

たとえば⑴では、「現在が過去と未来を構成する」であり、現在は過去や未来とは異なる。

ところが、このフランス語は、「~をなしている、「~になる」とも訳すことができる。この場合、主語と目的語は同じものである。

たとえば⑵では、「時間の総合は、現在をなしている。」と訳すことができる。

私は、読者が「構成する」という日本語に「~をなしている」というニュアンスをとることができる場合もあると予想して、一貫して「構成する」という訳語を用いた。

次に、《 dans ダン》という前置詞が問題になる。私は《 dans ダン》を、ほとんどの場合、「なかで」あるいは「なかに」と訳した。しかし、このフランス語の前置詞は、「~という様態で」、「~という在り方で」と訳すこともできる。

たとえば、⑴は、「生きられる現在は、時間という在り方で過去と未来をなしている」と訳すこともできる。
⑵は、「時間の総合は、時間という在り方で現在をなしている」と訳すこともできる。

「構成する」と「~をなしている」を訳語として使い分けるのは、また。「なかで」と「~という在り方で」を使い分けるのは、読解者のその都度の判断にゆだねられる。われわれが本文に戻って一文ごとに読むときに、以上を思い起こして文章を解釈しよう

しかし、いましばらく退屈な議論を続けさせていただきたい。
(続く)

『差異と反復』第二章、第二段落、注釈4 考察と問題提起

時間の第一の総合

前回の精読箇所

「➂厳密に言うなら、縮約は時間の総合を成している。」

「⑥時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合〔=受動的総合としての時間の第一の総合〕のなかでしか構成されない。」

「⑦この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。」

「⑧このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成する。」

「⑨そして、時間は、まさにその現在のなかで広がる。」

「⑩過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。」

「⑪すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属し、未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。」

「⑫過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの生ける現在の〔二つの〕次元を意味している。」

「⑬その生ける現在は、過去から未来へ行くために、自分の外に出る必要はない。」

「⑭したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成する過去から未来へ行く・・・」


考察と問題提起

まず、➂からすれば、、また以下で示すピックアップした文章からすれば、縮約とは時間の総合のことであり、時間の総合とは縮約することである。

ただし、ドゥルーズの言う「総合」は、第一の総合では「縮約(contraction コントラクシオン)」を指すが、第二の総合ではベルクソンの言ういわゆる「収縮(contraction コントラクシオン)」を言う。(文庫版上227頁、ただし、この頁は改訳しなければならない。)

第二章で《contraction コントラクシオン》という語は多義的に使われており、私は基本的に「縮約」と訳したが、ベルクソン『物質と記憶』が問題になっているところでは、従来の「収縮」という訳語をとらなければならい場合がある。

「時間の総合 (synthèse du temps サンテーズ ドュ タン)」の「の(du ドュ)」は、何を意味するのだろうか。時間「を」総合することか、時間「に属する」総合か、時間「という」総合か。とにかく「時間」の意味を明確にすることが必要である。

(ところで、カント『純粋理性批判』での「総合」は、B201の原注では、合成あるいは統合を意味する。訳語は岩波版による。)

次に。⑥からすれば、時間は、「根源的総合」のなかで構成される。ということは、「根源的総合」は「時間の受動的総合」を指すから、時間は、「時間の受動的総合」つまり「縮約」のなかで構成されることになる。時間は縮約のなかで構成される何かである。

さらに、⑧からすれば、生ける現在も、根源的総合すなわち時間の受動的総合つまり縮約によって、構成される。(生ける現在というフッサールを思わせる概念については、もっと先で考察する。)

したがって、時間の受動的総合つまり縮約が構成するのは、時間と生ける現在である。

では、時間は生ける現在のことなのだろうか。

他方、⑨からすれば、時間は生ける現在のなかで広がる。

では、生ける現在のなかで広がる時間とは何を意味するのか。


以下に、第二章前半部から時間規定をピックアップする。(いずれ本文に戻って精読するので、文庫版の頁数は記さない。)

⑴「こうした〈生命の原初的感性〉の水準において、生きられる現在が、すでに時間のなかで或る過去と或る未来を構成しているのである。」

⑵「時間の総合は、時間のなかで現在を構成する。だからといって、現在が時間のひとつの次元であるというわけではない。存在するのはひとり現在のみである。その総合は、時間を生ける現在として構成し、過去と未来をそうした現在の二つの次元として構成するのである。」

⑶「時間の第一の総合は、根源的であるが、それでもなお時間内部的である。この総合は時間を現在として構成する、ただし過ぎ去る現在として構成する。時間はその現在の外には出ないのであって、その現在はと言うなら、いくつもの跳躍によって絶えず動く、それも少しずつ重なり合う跳躍によってである。そのようなことが、現在というもののパラドックスなのである。要するに、時間を構成するのではあるが、この構成された時間のなかで過ぎ去るということである。」

⑷「習慣の受動的総合〔=時間の第一の総合〕は、現在という条件のもとで、時間を諸瞬間の縮約として構成していた・・・。」

⑸「習慣の総合たる第一の総合は、・・・時間を、生ける現在として構成していた。」

⑹「記憶の総合たる第二の総合は、・・・時間を、純粋過去として構成していた。」

⑺「・・・所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていることを、そして作品がその作者あるいは当事者=俳優に対して独立していることを、同時に或る未来が肯定するのだが、こうした未来を時間の第三の総合が構成するのである。」

⑻「・・・受動的な自我は、それ自体受動的な総合(観照‐縮約)によって、いっそう深く構成される。」

考察と問題提起(続く)

『差異と反復』第二章、第二段落、注釈3 齟齬のロジック 時間の総合の美学的意味

今後、前回の精読箇所(第二段落前半)の各文章を切り離し、さらに「時間の三つの総合」の諸段落(第二章前半部)から時間規定をピックアップして考察を進める。(なお、文庫版や旧ハードカバー版におけるピックアップした文章のページ数は示していない。また、引用文には絶えず細かい修正を加えている)

このようにして、各時間規定が齟齬しているのかどうかを見ていく。もし齟齬しているのなら、その齟齬を肯定するドゥルーズ的ロジックがあるかもしれないからだ。そうではないとすれば、われわれが齟齬と思うのはわれわれの読みが浅いからだろう。

しかし、ライプニッツがデカルトの「明晰‐判明」という認識論的規則に対抗して提唱した「明晰‐混雑」、「判明‐曖昧」という認識論的‐存在論的原理を、ドゥルーズは重要視している。これをドゥルーズはライプニッツ以上に深く解釈し、根本的な原理と考えている。明晰な観念はそれ自体からして混雑しており、判明な観念はそれ自体からして曖昧である、ということだ。

こうした「明晰‐混雑」、「判明‐曖昧」という原理が、『差異と反復』の原理でもあるとすれば、『差異と反復』のテキストから齟齬を解消するために「明晰‐判明」な理解を求める読みは、『差異と反復』が展開しているかもしれない生産的な「齟齬のロジック」を取り逃がすことになるだろう。

ところで、第二章における時間の第一の総合と第二の総合は「受動的総合」と呼ばれている。そして、第一の受動的総合(現在論)は経験的なレベルの時間の総合であり、第二の受動的総合(過去論)は先験的(超越論的)なレベルの時間の総合である。

しかし時間の第三の総合(未来論)は受動的総合ではない。ジョー・ヒューズは、三つの総合をすべて受動的総合とみなしているが、そうではない ( Joe Hughes《 Deleuze´s Difference and Repetition 》)。

『差異と反復』の「結論」から、時間の三つの総合の美学的意味に関する文章を引用しておこう。
「・・・美学的問題には、日常生活のなかへの芸術の組み込みという問題しか存在しない。われわれの日常生活が、消費物のますます加速された再生産に服従して、常同的なものにされ、規格化されているということが明らかになればなるほど、芸術は、・・・・この文明の現実的な本質をなしているもろもろの錯覚や欺瞞を美的に再生産しなければならない。どの芸術もそれぞれ、瓦状に重なり合った〔注:『悲しき熱帯』におけるレヴィ=ストロースの用語〕それなりの反復技法をそなえており、この技法の批判的かつ革命的な力能は、われわれを、陰気な〈習慣の反復〔=時間の第一の総合〕〉から深い〈記憶の反復〔=時間の第二の総合〕〉へと、さらには、われわれの自由が賭けられている最後の〈死の反復〔=時間の第三の総合〕〉へと導くために、最高の域に達することができる。われわれは、三つの例〔ベルクのオペラ『ヴォツェック』、ウォーホルのたとえば、キャンベルスープ缶やマリリン・モンローなどの「セリジェニックsérigénique(シリアル serial)」な作品のシリーズ、そしてビュトールの小説『心変わり』あるいはアラン・ロブ・グリエ脚本、アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートで』〕を、どれほど異なっていようとも、どれほど齟齬していようとも、ともかく指示するだけにしておこう。」

この文章が示唆しているように、時間の三つの総合は、芸術論、文明論、精神分析理論の性格をもっている。

ところで、『差異と反復』のアメリカ版の序文で、ドゥルーズはこう語っている。
「哲学は、科学からも芸術家からも独立してつくられることなどあるわけがない。」

たしかに、ヘルマン・ヴァイルを高く評価するドゥルーズの思索には、量子力学を思わせるイメージがある。ヘーゲルまでの近代哲学に対するドゥルーズ哲学の関係は、広い意味で、古典力学に対する量子力学の関係に似ているところがあると言えるだろう。(もちろん、これに対してはソーカルらの批判はある。)

ところが、『差異と反復』(原書)刊行からおよそ半世紀経過した現在、量子テレポーテーションの実験が成功するや、情報機器メーカーや光学機器メーカーがこれに注目し製品開発に乗り出している。そして、いずれ量子テレポーテーションは兵器に応用されるだろう。自然科学はどれほど発達しようとも、この文明つまり資本主義文明を超えることはできないということだ。「われわれの日常生活が消費物のますます加速された再生産に服従する」という資本主義文明の本質的事態に対して、自然科学は批判の役割を果たしえない。

だから私は、ドゥルーズ哲学を、現代科学との類縁性に着目して称揚するつもりはない。では、ドゥルーズが言う「この文明の現実的な本質をなしているもろもろの錯覚や欺瞞」とは何か。それは、ドゥルーズが、『差異と反復』を読むわれわれに課す問題だろう。私は逃げているわけではない。私はドゥルーズの代弁などするつもりはないし、そんなことはできるはずもない。

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前回の精読箇所から

「➂厳密に言うなら、縮約は時間の総合を成している。」

「⑥時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合〔=受動的総合〕のなかでしか構成されない。」

「⑦この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。」

「⑧このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成する。」

「⑨そして、時間は、まさにその現在のなかで広がる。」

「⑩過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。」

「⑪すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属し、未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。」

「⑫過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの生ける現在の〔二つの〕次元を意味している。」

「⑬その生ける現在は、過去から未来へ行くために、自分の外に出る必要はない。」

「⑭したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成する過去から未来へ行く・・・」


以上についての考察と問題提起。
(続く)


『差異と反復』第二章、第2段落、注釈2 ブログでの精読のスタイル

ブログ画面での精読を新たなスタイルで試みる。前回の精読部分すなわち第2段落の冒頭はほとんどそのままコピーして貼り付けておく(一部は変更する)。今回は、第2段落のおよそ半分を改訳し、文章一つひとつに番号をつけて考察する。

【文庫版198~200頁】
時間の第一の総合—――生ける現在

① そのような変化〔=反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化〕は、どうなっているのだろうか。ヒュームの説明によれば、互いに独立した同一のあるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合する。想像力は、ここではひとつの縮約能力として、言わば〔古典的な写真機の〕感光版として定義される。想像力は、新たなものが現れてきても、以前のものを保持している。


② 想像力は、等質な諸事例、諸要素、諸振動、諸瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくる。Aが現れると、すでに縮約されているすべてのABの質的印象に応じた力で、われわれはBを予期するのである。それは、断じて記憶ではなく、知性の働きでもない、つまり縮約は反省ではないということだ。
〔以上、前回の精読部分〕

〔以下、今回の精読部分〕
➂厳密に言うなら、縮約は時間の総合を成している。④瞬間の継起は時間をつくらない、それどころか、時間をこわしてしまう。⑤言い換えるなら、瞬間の継起は、時間が生まれようとしてはつねに流産してしまう点を示しているだけである。⑥時間は、瞬間の反復を対象とする根源的総合のなかでしか構成されない。⑦この根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間の一方を他方のなかで縮約してゆく。⑧このようにして、根源的総合は、生きられる〔体験される〕現在を、つまり生ける現在を構成する。⑨そして、時間が広がるのは、まさにその現在のなかにおいてである。⑩過去も未来も、まさしく生ける現在に属している。⑪すなわち、過去は、先行する諸瞬間がそうした縮約のなかで把持されているかぎりにおいて、生ける現在に属し、未来は、予期がその同じ縮約のなかでは先取りであるがゆえに、生ける現在に属している。⑫過去と未来は、現在とされた瞬間から区別される〔二つの〕瞬間を意味しているのではなく、諸瞬間を縮約しているかぎりでの生ける現在の〔二つの〕次元を意味している。⑭現在は、過去から未来へ行くために、自分の外に出る必要はない。⑮したがって生ける現在は、その現在が時間のなかで構成する過去から未来へ進む・・・【第2段落途中】

 【考察:私は前回の記事で次のように言った;『差異と反復』第二章における三つの「時間の総合」という名称にはハイデガーの『カントと形而上学の問題』からの影響が見られる。ハイデガーは、カント『純粋理性批判』第一版におけるいわゆる三段の総合、すなわち「直観における覚知の総合」、「構想力における再生の総合」、「概念における再認の総合」に、それぞれ現在性、過去性、未来性をあてがっている。

もちろん、三段の総合は時間にもとづいて成立することを、カント自身が注意している。

『カントと形而上学の問題』のドイツ語原書は、一九二九年に出版され、一九五三年に仏訳されている。ドゥルーズは『差異と反復』第四章でこの仏訳に言及し、かなりの量の文章を引用している(原注17参照)。けれども、『カントと形而上学の問題』におけるカントの三段の総合のハイデガー的解釈には触れていない。しかしドゥルーズはこのハイデガーの書を熟読しているはずだ。

では、『差異と反復』第二章の「三つの時間」の総合は、カントの「三段の総合」のハイデガー的解釈にもとづいて理解されるのだろうか。いや、そんなことはない。

また、ドゥルーズが、以上の点に関して、カントやハイデガーをどれほど正確に理解できているのかと問うのも無意味である。

まず、ドゥルーズの「時間の総合」で何が言われているのかを追究することから始めなければならない。

「時間の総合」とは、「時間を総合する」ということだろうか。では、ここで言われている「時間」とは何か、「総合」とは何か。

上の精読部分でさえ、話が込み入っている。時間は構成されるものであり、現在も構成されるものである。そして、現在のなかで時間は広がる。

われわれは慎重に考えていかなければならない。
(考察続く)

『差異と反復』第2章、第2段落、注釈1 精読は面白い

ここでもやはり、第2段落を細かく区切って精読し、問いを立てていく。やや詳しい注釈をつけ、多少の議論もするが、詳しくは、いずれ拙論「『差異と反復』の解析と再構成の試み1」の続編で論じる予定である。


【文庫版198頁~】
時間の第一の総合—――生ける現在

【注、ここから三つの「時間の総合」が論じられていくのだが、「時間の総合」という名称にはハイデガーの『カントと形而上学の問題』第32節以下からの影響が見られる。ハイデガーは、カントの構想力(想像力)に「現在・過去・未来」の時間的性格を見いだし、さらにカント『純粋理性批判』第一版におけるいわゆる三段の総合、すなわち「直観における覚知の総合」、「構想力における再生の総合」、「概念における再認の総合」に、それぞれ現在性、過去性、未来性をあてがっている。カントの三つの「総合」が「時間の総合」と呼ばれることがあるのは、おそらくこのようなハイデガーの解釈の影響によってであろう。
また、後ほど指摘するが、ドゥルーズの「受動的総合」という名称は、フッサールの『デカルト的省察』第38節「能動的発生と受動的発生」における「受動的総合」という名称を借用したものと推測できる。さらにまた、後で指摘するが、ドゥルーズは、ベルクソンの『思想と動くもの』やフッサールの『内的時間意識の現象学』に出てくる語を使っている。断定的な物言いになるが、ドゥルーズは、ハイデガーやフッサールより、ベルクソンをはるかに深く読み込んでいると言えよう。これについても、他の機会に論じるほかはない。】

① そのような変化は、どうなっているのだろうか。ヒュームの説明によれば、互いに独立した同一のあるいは似ている諸事例は、想像力のなかで融合する。想像力は、ここではひとつの縮約能力として、言わば〔古典的な写真機の〕感光版として定義される。想像力は、新たなものが現れてきても、以前のものを保持している。

【注、「縮約 contraction コントラクシオン」について。ドゥルーズはすでに、『ベルクソンにおける差異の概念』のなかで、ベルクソンにおける有名な物質と持続のそれぞれの定義をとりあげている。すなわち、前者は「弛緩 relâchement ルラ-シュマン」、後者は「縮約contraction コントラクシオン」である。「contraction コントラクシオン」は、ベルクソンにおいては、「収縮」と訳されることが多い。だが、このベルクソンの諸定義は、それほどわかりやすいものではない。『物質と記憶』の該当する文章をすべて精読する必要がある。しかし、ベルクソン精読は他の機会に譲ろう。それはともかく、『差異と反復』における「contraction コントラクシオン」という語の二つの意味については、『差異と反復』文庫版上207頁を参照していただきたい。この箇所にもとづいて、「contraction コントラクシオン」を「縮約」と訳した。】

② 想像力は、等質の諸事例を、諸要素を、諸振動を、諸瞬間を縮約し、それらを融合して、或る種の重みをもった内的な質的印象をつくる。Aが現れると、すでに縮約されているすべてのABの質的印象に応じた力で、われわれはBを予期するのである。それは、とりわけ記憶ではなく、知性の働きでもない。つまり縮約は反省ではないということだ。

【注、ここから第3段落にかけて、フッサールの『内的時間意識の現象学』の時間論と、ベルクソンの『思想と動くもの』所収「形而上学入門」の時間論を思わせる議論が繰り広げられる。ドゥルーズがフッサールやベルクソンに言わば乗って論じているのは、確かだ。問題は、ドゥルーズの時間論の独自性がどこにあるかだ。これについても、注釈から独立したかたちで論じなければならない。ともかく、精読を進めよう。】
(続く)

『差異と反復』第2章、第1段落、注釈11、ドゥルーズを精読してドゥルーズを理解する。

第2章、第1段落の精読

精読が容易になるように、第1段落を七つに区切る。強調するためにアンダーバーを付加する。〈 〉によって修飾関係を明確化る。訳者の判断で〔 〕を用いて原文を補足する。

① 反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。

② ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。


③ 反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔=反復〕は即自を有していないのだ。

そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔=抜き取られた差異・・・文庫版上p219〕の本質である。


⑤ ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〔チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック・・・・・〕〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例つまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。

そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかで生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかで生じるのである。


⑦ Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔=予期〕こそが、それ〔=反復〕の構成 のなかに必然的に入らざるをえない或る根源的な主観性としての反復の対自〔反復という対自〕であるのだろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。


今回のブログ記事に「ドゥルーズを精読してドゥルーズを理解する」というタイトルを付けたのだが、『差異と反復』に関するかぎり、「理解する」とは「これはどういうことなのかと自問しながら、テキストを読み返す」ということだ。だから、一つの段落を七つに区切ったり強調記号を付加したりしたのは、私自身が理解するつまり自問するためでもある。

では自問して答えは得られるのだろうか。答えは読者に委ねられていると、私は言いたい。私にできることは、読者が精読できる訳文をつくること、注釈というかたちでお節介を焼くことである。だが、どこまで注釈すればよいのか、という問題は残る。

まず、私自身、『差異と反復』を全文にわたって完全に理解しているわけではないということがある。したがって、完璧な注釈は私には不可能である。

つぎに、たとえばこの第2章第1段落の読解においても、ヒューム、ライプニッツ、ヘーゲル、ベルクソンに関する或る程度の知識が前提されている。そこで私が、この哲学者たちについて入門的な解説を注釈のなかで行えばそれは冗長になってしまうだろうし、改訳が遅れてしまう。

さらに、たとえば上記の訳文の後ろから2行目に「(反復から差異を)抜き取る」とあるが、反復から差異を抜き取るとはどのような事態なのか、ここでは説明がない。原語は《 soutirer スティレ》である。《 soutirer スティレ》を何と訳すべきか、私はかなり迷ったのだが、ドゥルーズは、第2章はもとより、序論、結論で、折に触れて《 soutirer スティレ》という語を使っている。それらをすべて読み合わせて、私は「抜き取る」と訳した。「反復から差異を抜き取る」ということが論じられている箇所はそれほど多くないので、その都度、「反復から差異を抜き取る」という事態に言及しよう。

だが、「精神」についてはどうか。この語は、『差異と反復』全体で、しかも様々な文脈のなかでおよそ50箇所出てくる。文脈ごとそのすべてを列挙すれば、小さな本ができるほどだ。

たとえば、序論で、「精神と自然の関係」という西洋哲学の古くからの大問題が扱われており、そこで「概念の阻止」という現象が論じられている。この議論は、伝統的な論理学の概念論や、フロイトの無意識概念が前提されている。しかし、論理学やフロイトに馴染んでいない読者のための説明は、注釈の域を越えてしまう。

したがって、『差異と反復』が前提している従来の哲学理論については(たとえば、ヘーゲルにおける疎外された精神の概念や対自概念については)、つまり『差異と反復』の理解に資する従来の哲学理論については、さらに従来の哲学理論と『差異と反復』との関係については、このブログとは関係のない雑誌等で論じることにして、その後、それをかみ砕いたかたちでこのブログに再録しようと思う。

以上で『差異と反復』第2章のイントロである第1段落の注釈を終えることにして、次回から、第2段落の改訳と注釈に移ろう。「時間の総合」と名付けられた、カントとフッサールとハイデガーから影響を受けているドゥルーズの論述群を解析したい。

『差異と反復』第2章、第1段落、注釈10、ジョージ・フリードマン『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン』

「反復の対自」を「反復という対自」と訳し変えるべきかどうか考えているうちに、記事執筆がストップしてしまい申し訳ない。原文を何度も読み返しているうちに、ハードカバー版旧訳はもとより、文庫版修正訳も、『差異と反復』の日本語訳の文章が持たざるを得ない或る不十分さに気が付いた。そこで「反復の対自」の問題はいったん脇に置き、今日は少し回り道をして『差異と反復』に戻ろう。

以前(2015年に安倍首相がアメリカ議会で演説することになったころ)、アメリカの政治的指導層の対日観を知りたいと思い、またその参考になるのではないかと考えて、ジョージ・フリードマン/メレディス・ルバードの『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン「第二次太平洋戦争」は不可避だ』(翻訳、原書ともに1991年)という突飛な題名の本を読んだ。ジョージ・フリードマンがアメリカのシンクタンクStratfor の創立者であることは言うまでもない。

本書は、80年代末における日本企業によるロックフェラー・センターの買収に象徴されるような、アメリカに対する当時の日本経済の強い影響と、その後日本が陥った経済危機という状況のなかで書かれた本である。

たしかに、著者たちの言うように、本書の論議は結論ほど荒唐無稽ではない。(少なくとも、最近辞任した防衛大臣の言動ほど、狂信的でも無責任でもない。)過去の日米戦争、戦後のアメリカの日本占領、その後の日本経済の復興などについての地政学的分析は新味はないが冷静である。

そして、第4章における著者たちの判断、すなわち、アメリカはもう気前の良い勝利者ではない、このようなアメリカに日本はもう甘えられない、にもかかわらず甘えられると思って日本がおのれの利益を追求するなら日米間の対立は高まらざるをえないという判断は、なるほど単純ではあるが、これもひとつのアメリカ的な考え方であることに変わりはない。もちろん著者たちは戦争を煽り立てているわけではない。

けれども、著者たちの一見緻密な資料分析は、国家間の経済的緊張の高まりは必ず戦争を引き起こすという前提のもとになされており、議論は結局のところ、新たな日米戦争の勃発というあらかじめ設定された結論に収斂していく。

どれほど荒唐無稽であろうと、私のような日本人がこの結論とそれを補強する議論から読み取れるのは、、現在の日米軍事同盟の目的が、シーンレーンの確保や、西太平洋のアメリカ支配への日本による手助けや、アメリカによる日本の防衛ということだけではない。日本の急速な軍事力の向上をアメリカは野放しにしないというのも、日米軍事同盟のアメリカ側のひとつの目的だろう。

風雲急を告げる東アジアの情勢は、日米の軋轢を隠しているが、ともかくこの情勢をリアルタイムで知るには、日本のメディアの貧弱で遅い情報よりも、まずアメリカのしかるべきメディアやしかるべきシンクタンクの報告を読まなければならないというのは残念なことだ。

ところで、経済人トランプの2016年の大統領選挙活動中の日本に関する発言が本書のいくつかの主張とよく似ているのには驚いた。

本書では、たとえば「・・・この(貿易均衡の)要求を出さないことには、アメリカは日本の成長政策によって永久に利用されるだけなのである。だからこそアメリカはこれを要求しなくてはならず、日本はそれに抵抗しなくてはならないのだ」(426頁)、「・・・実際、デトロイトの効率を上げるより、日本車の輸出を規制し、アメリカ車の輸入を増やすことを日本に強制するほうが易しいのだ。」(436頁)と主張されている。

トランプは、19991年刊行のこの本から影響されているのではないかと思えるほどである。いやむしろ、アメリカの経済人たちは、25年前から現在に至るまで変わることなくそのように考えてきたのではないだろうか

話を戻そう。地政学的研究の本書とドゥルーズの哲学書『差異と反復』には、どのような関係があるのか。何の関係もない。関係は、本書の訳し方と、『差異と反復』の私の訳し方にある。

フリードマンらの『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン(来るべき日本との戦争)』の「まえがき Preface」の第1段落は、「想像せよ Imagine」から始まる。その後、imagineという動詞が5回繰り返される。しかも、「想像力 imagination」という名詞が末尾に置かれてこの段落が締めくくられる。

欧米の文章をそのまま日本文に移し変えるのは不可能だとは、よく言われることだ。けれども、原文のニュアンスをできるだけ汲み取ってやろうとする努力はできるはずだし、そうするのは翻訳者の務めである。訳文を精読しようとする読者は依然として存在するのだから。

だが、本書の訳者は、imagineという動詞に、「想像する」という訳語を一貫して採用せず、なぜか途中で「予想する」という訳語を使っている。これでは、原文が言わんとすることが損なわれてしまう。

本書によれば、その学問的な研究方法(methodology)は「想像力 imagination」である。著者たちは、20年後の世界を「思い描く envision」ために、この上なく不正確な「想像力」を用いる。したがって、誤る危険性は高い。しかし、20年後の世界が現在とほとんど同じようだと予測する者は、著者たちよりもはるかに間違う危険が大きいと、著者たちは言う。(10頁)

こうして、本書は、imagineという動詞を反復している。

さて、問題は、『差異と反復』の私の翻訳にある。私は、自然な日本語の訳文を作ろうと心がけたあまり、原文における語句の反復を見逃していたし、それに気づいたときでも、その反復を訳文に反映させることができなかった。

これは、たんなる翻訳上のテクニックの問題ではなく、訳文から原文のニュアンスを読み取ることは可能かという問題である。

具体的に説明しよう。『差異と反復』第2章第1段落で、《dans l’esprit ダン レスプリ》という語句が5回反復されている。そして、第2段落では2回反復されている。しかも第1段落でも、第2段落でも、イタリック体で強調されている《dans ダン(なかで) 》がある。

《dans l’esprit ダン レスプリ》は、「精神のなかで」と訳すことができる。けれども、「精神 (esprit エスプリ)」という語がそもそも何を意味するのかについては説明がない。したがって、読者は、ここまで読んでも、自分の手持ちのイメージや理解で、「精神」を分かったつもりになるほかはない。

ところが、第3段落の末尾に原注が付いていて、そこで(原書では同じページの下部で)、《dans l’esprit ダン レスプリ》が、ベルクソンに由来する、あるいは深く関係する表現であることが示唆されている。

私は、《dans l’esprit ダン レスプリ》を、一貫して「精神のなかで」と訳すことをしなかった。そのため、ハードカバー版旧訳でも、文庫版修正訳でも、ドゥルーズが強調しているこの表現を読者が読み取ることは難しくなっている。

では、一貫して「精神のなかで」と訳すなら、この表現は際立つだろうか。日本語訳の文章は縦書きで、しかも、日本語だから漢字も仮名もくっついている。欧米語のように、単語が離されていない。よほど精読しなければ、一目で、「精神のなかで」がしつこく強調されていることを見て取ることができないだろう。

その上、この表現がベルクソン哲学に由来するとなると、ベルクソン哲学に通暁している読者でなければ、ドゥルーズが言わんとしているところを十分に押さえることは難しいだろう。

さて、どうするか・・・。とにかく、「精読」に値する訳文を作らなければならない。
(続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈10

気持ちとしては一、二週間に一度はブログを書くつもりなのだが、起承転結のあるまとまったものを書こうとするので、それが実現できないでいるのだろう。だから、多少断片的なメモのようなかたちになっても、とにかく書いていこう。注釈が、かなり細部にこだわるようになってきたので、読みにくく感じている読者もいるだろうが、この調子で続けていきたい。

注釈と改訳との作業を同時に進めており、しかも2年前に大病をしたので、疲れやすくなっている。というわけで、ブログ執筆がさらにスローモーになってしまったが、いずれ、もっと整理して読みやすい論文に仕上げるつもりではいる。

他方、改訳の必要な箇所が予想以上に多くあることがわかった。これについても書いていこう。

さて、ドゥルーズの言う「対自(プルソワ pour-soi)」とは何か。『差異と反復』第4章原注14で、ドゥルーズは、ヘーゲル『精神現象学』における即自と対自の関係を参照せよと指示している。これからもわかるように、ドゥルーズの「対自」は、ヘーゲルのそれを踏まえた概念である。

しかし『差異と反復』の「はじめに」で言われているように、「一般化した反ヘーゲル主義」という時代の雰囲気のなかで哲学するドゥルーズであってみれば、ヘーゲルの考えをそのまま踏襲しているはずはないだろう。

ドゥルーズは、ヘーゲル『精神現象学』における即自と対自の関係を参照するために『精神現象学』のどの箇所を読めばいいのかは明示していないが、周知のように(とはいっても、もはや周知のことではなくなったが)その「序論」ですでに即自と対自の関係が論じられている。

長くなり面倒なので引用はしないが、例えば中央公論社『世界の名著 ヘーゲル』「精神現象学序論」の104頁を読んでいただきたい。ここは、『精神現象学』に対立する『差異と反復』の立場をわれわれによくわからせてくれる箇所だ。(これについても論じるべきなのだが、寄り道していると注釈が先に進めなくなってしまうので、それについてはいつか書くことにしよう。)

だから、ドゥルーズにおける「反復の対自」の「対自」を、ヘーゲルのそれに還元するのではなく、『差異と反復』そのもの記述から考えてみよう。

「対自」という語は、『差異と反復』の序論、第1章、第2章に、数え方にもよるが8か所出てくる。しかも「対自」の概念が漸進的に掘り下げられて論じられるのではなく、一見バラバラに言及されている。

そこでまず、『差異と反復』(文庫版)の53頁を見てみよう。
(続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈9

『差異と反復』第二章全体のイントロをなす第1段落を四つのセクションに分ける。(絶えず以前の訳文を推敲しているので、以下の訳文はその推敲の結果である。)

① 反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる。

② ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔抜き取られた差異・・・文庫上p219より〕の本質である。

③ ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例からつまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。

④ Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔?〕こそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての〈反復の対自〉なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。

セクション①は、もちろん、この第一段落全体のイントロである。

セクション①の冒頭の文章「反復は、・・・その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」は、セクション②で、「そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」と反復される。

そのセクション②の文章「そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させる」は、セクション③で「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。」と反復される。

観照する精神のなかに生じる「変化」とは、「差異」、「何か新しいもの」と言い換えられている。

そのセクション③の文章「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる」は、セクション④で引き継がれる。「・・・反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化」。すなわち「反復はその反復を観照する精神のなかに差異つまり変化を導き入れる」ということである。

要するに、「何かを変化させる」とは、「変化が生じる」ということであり、「差異つまり変化を導き入れる」ということである。

では「生じる変化、差異、何か新しいもの」とは何か。セクション③の末尾からセクション④の冒頭を続けて読もう。

「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。」

持続する精神がこれまで〈AB、AB、AB、〉を観照していた。そしてAが現れると、いまや「私」は、Bの出現を予期する。すなわち〈AB、AB、AB、A〉の観照の直後に「私」なるものが〈B〉の出現を予期するのである。

以上の文脈からすれば、「観照する精神のなかに生じる変化、差異、何か新しいもの」は、「私はBの出現を予期する」あるいは「私は予期する」を指すと読める。

反復を観照する精神のなかに生じる差異(何か新しいもの)は、「私は(Bの出現を)予期する」である。

もう一度ドゥルーズの文章を読もう。

「そのかわり、或る変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、或る差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。それ〔原語は何でも受けられる代名詞 ce ス〕こそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての〈反復の対自〉なのであろうか。」

では、「それ〔原語は何でも受けられる代名詞 ce ス〕は、何を受けているのだろうか。やはり以上の文脈からすれば、「それ」は、「私は(Bの出現を)予期する」という主観性である。「私は(Bの出現を)予期する」という主観性は、差異(何か新しいもの)である。

さらに、「私は(Bの出現を)予期する」という主観性は、「反復の対自」であるとされる。

では「反復の対自」とは何を意味するのか。そもそも、ドゥルーズの言う「対自 pour-soi プール・ソワ」とは何を意味するのか。これについては、『差異と反復』の序論「反復と差異」で論じられている。
(続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈8

第二章第一段落の解析と問題提起2

「反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神にのなかでは何かを変化させる」というヒュームの主張は、すでにドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社版)のp92で言及されている。ヒュームそのものでは『人性論(一)』(岩波文庫)のp212や、p255前後の叙述の内容にほぼ合致する。

ほぼ合致するのであって、ヒューム自身の論旨に忠実に沿って取り上げられているのではない。むしろ、このヒュームの主張なるものは、ドゥルーズ自身の議論の進行のなかでは、ベルクソンの『時間と自由(意識の直接的所与についての試論)』や『意識と生命』、そしてフッサールの『内的時間意識の現象学』に流れ込んでいく。

しかし、この問題について論じるのは、ブログの記事の限界を超えてしまうし、『差異と反復』改訳のための時間を奪ってしまうので、別の機会を得て論じるほかはない。

ちなみに、「観照する」の原語は、「コンタンプレ contempler」という仏語であるが、ヒューム自身の英語では「contemplate」に相当するだろう。これは、『人性論(一)』では「熟視」と訳されている。とりわけp260を参照されたい。ヒュームでは「観察する observe」と同義で使われることが多い。

けれども私は、ドゥルーズの「コンタンプレ contempler」に、受動的な視の意味を含ませようとして「観照する」と訳した。

さて、この第一段落には、「われわれ」、「ひと」、「私」という人称代名詞が使われている。

「ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく」

「反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか」

ひとはまだ反復を語ることはできない」

「Aが現れると、いまやは、Bの出現を予期する」

ここでは、「われわれ」はドゥルーズ自身と読者を指しているだろう。

「ひと」の原語は「オン on」である。この「オン on」は、文法からすれば、「われわれ」とも、「君たち」とも、「人々」とも訳せるし、文章全体を受動態にして訳して、能動態の主語を明示しないこともできる。

だが私(財津)は、「オン on」を「ひと」と訳した。この「ひと」が誰なのかを考えよう。そして、なぜ「私」が登場するのかをも。


『差異と反復』第二章 第一段落 注釈7

最近、初めてスマホでこのブログの画面を見たところ、パソコン(windows)で作った画面がそのまま再現されず、やや崩れていることがわかった。

訳文の各行に番号を付し、注釈の際どの文章を問題にしているのかをすぐに見て取れるようにするつもりだったのだが、スマホの画面ではその番号付けがほとんど無意味になってしまっている。

他方、一応3年後を目指して『差異と反復』全体の改訳をすすめているのだが、版権の問題があり、またその他に思うところもあって、今後はこのブログで改訳の訳文は公表しないことにした。もちろん、抜けや訳語・訳文の不適切な箇所はそのつど指摘する。

ただし、何度も言うが、第二章の第一段落は第二章全体の序論に相当すると思われるので、ここだけは公表しておいたほうがよいだろう。そう思って、あらためて第一段落を原文と訳文で精読してみたら、やはり不満足なところが出てきたので、再度手を入れた訳文を発表することにする。

今後、文庫版あるいはオンライン版の『差異と反復』を参照できるようにしていただくと、第2段落からの注釈において訳文のどの箇所を問題にしているのかがわかりやすくなるだろう。


第二章第一段落改訳【文庫上p197~198】

【原書p96】

反復〔注1〕 : 何かが変化させられる

反復は、反復する対象のなかでは何も変化させないが、その反復を観照する精神にのなかでは何かを変化させる〔注2〕。ヒュームのこの有名な主張は、われわれを問題の核心につれてゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの現前は完全に独立しているということを権利上〔論理上〕折り込んでいるのだから、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性という決まりごとは、〈一方が消えてしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。〈瞬間的精神としての物質〉の状態がそうである。しかし、反復はできあがるそばから壊れてゆくものである以上、どうしてひとは、「二番目」、「三番目」、そして「それは同じだ」と言うことができようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。そのかわり、反復は、その反復を観照する精神のなかで何かを変化させるのである。そうしたことが、変容〔注3〕の本質である。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例つまりそれぞれの客観的なシークエンス〈AB〉は、他の事例からつまり他のシークエンスから独立している。反復は、(しかしまさしく、ひとはまだ反復を語ることはできないのだが)、対象のなかでは、すなわち〈AB〉という〈物の状態〉のなかでは、何も変化させない。そのかわり、ひとつの変化が、観照する精神のなかに生じる。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるをえない〕或る根源的な主観性としての、反復の対自なのであろうか。反復のパラドックスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかにその反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から抜き取るひとつの差異による以外には、ひとは反復を語ることができないということ。

〔注1〕「反復する」という訳語は、おもに自動詞として使う
〔注2〕訳文の修飾関係があいまいにならない限りで直訳を心がけるが、文脈から以下のように意訳してもよいだろう:反復する対象のなかでは、反復によって何の変化も生じないが、その反復を観照する精神のなかでは、反復によって何らかの変化が生じる。
〔注3〕変容の原語は、modification〔モディフィカシオン〕。文庫版上p219および訳注(9)参照。


第二章第一段落の解析と問題提起

まず、「反復する対象」と「反復を観照する精神」が区別される。

反復する対象とは、「反復する事例」と「反復する要素」である。

「反復する事例」とは、〈AB,AB,AB,A...〉という「開いた型の反復」における〈AB〉というシークエンスである。具体例では、〈チック・タック、チック・タック、チック・タック、チック...〉における〈チック・タック〉である。〈AB〉つまり〈チック・タック〉は、「物の状態」である。

このような物質的反復には、「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」という不連続性と瞬間性がある。これは、「物質の状態」である。

ちなみに、「反復する要素」とは、たとえば〈A、A、A、A〉あるいは〈チック、チック、チック、チック〉という「閉じた型の反復」における〈A〉つまり〈チック〉である。

したがって、「反復する対象」と「反復を観照する精神」の区別は、「物質界」と「精神界」の区別だと言ってよいだろう。「物質界」と「精神界」が区別されているのだ。だが、ここでは物質も或る種の精神である。

物の状態、物質の状態は、現代物理学における物理現象を意味しているわけではない。ここで言われている物、物質は、ライプニッツにおける瞬間的精神とされていることからわかるように、形而上学的な意味での物質である。というより、むしろ、ベルクソンが問題にしているライプニッツの瞬間的精神であろう。

「・・・すべての物体は瞬間的精神又は想起を欠く精神であり、・・・従って物体は記憶を欠く。・・・」ライプニッツ『抽象的運動論』、『人類の知的遺産38、ライプニッツ』p274

「ライプニッツが物質とは「瞬間的精神」であると言ったときには、かれが欲した否かにかかわらず、物質は無感覚だということを宣言しているのではないでしょうか。そこで、意識〔精神〕は記憶であります。」ベルクソン『意識と生命』、『ベルクソン全集5、精神のエネルギー』p16

【続く】
追伸:斜体にすべき文字が斜体にならない。いつか修正する。

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈6 「『差異と反復』の解析と再構成の試み」

4月からの担当授業は大学院での1コマだけになり、来年は定年を迎える。非常勤講師になって以来、初めて執筆に専念できる身の上になる。そう思うと、やりたい様々なことが頭のなかで渦を巻き、長期間ブログの執筆を中断してしまった。

改めてドゥルーズ哲学への取り組み方を考えていたが、同時に、ドゥルーズ哲学にこだわらずに、「精神、身体、生 そして死」について自分自身の考えを反芻していた。反芻といってもウツ状態になっていたわけではない。

最近ラカンの『《盗まれた手紙》についてのセミナー』の新たな訳が発表されたが、我々には我々なりの解釈があるので、我々の訳と注釈(全体の3分の1程度)は、今年の冬か来年の春に、法政大学の公式の雑誌に公表したいと思う。その上で、我々の訳と注釈をこのブログでさらに詳しく検討するつもりでいる。

戦前の「国民道徳要領」の分析も中断している。最近教育現場に強制されようとしている浅薄な道徳教育からすれば、すなわち戦前の道徳教育の問題点を学んでいない道徳教育からすれば、この「国民道徳要領」の批判的吟味はますます緊急かつ重要になっている。

だが、『差異と反復』全体をおよそ三年かけて改訳すると一応出版社に約束したので、これを最優先の仕事にしなければならない。

これが終われば、論文形式ではないかたちで、自由に自分自身の考えを発表していきたいと思っている。

他方、法政哲学会の雑誌「法政哲学13号」に、「『差異と反復』の解析と再構成の試み1」を投稿した。今後、『差異と反復』を改訳するだけでなく、コラージュもしくは離散多様体としての『差異と反復』を言わば暴力的に解析して、『差異と反復』内部の連続する諸要素を連関させる予定である。

そればかりでなく、『差異と反復』の諸要素と、『差異と反復』に至るまでのドゥルーズの諸著作の諸要素にラインを引こうと考えている。ドゥルーズは、『差異と反復』のアメリカ版の序文(『狂人の二つの体制1983-1995』所収)でこう語っているからである。

「・・・・私を襲い熱狂させたヒューム、スピノザ、ニーチェ、プルーストを研究したあと、私は「哲学すること」を試みたのだが、その最初の著作こそ、『差異と反復』であった。その後の私の仕事はすべて、この書物に繋がっていた。ガタリとの共著でさえそうである・・・」

とりあえず、『差異と反復』とそれ以前のドゥルーズ諸著作を比較検討していこう。

たしかに、ソーカルらが言うことに頷けるところがないわけではない。
「・・・これらのテクスト(ドゥルーズとガタリの諸著作)には実に様々な科学のテーマが登場する。ゲーデルの定理、超限基数の理論、リーマン幾何学、量子力学などなど。しかし、これらの取り扱いはあまりにも短く表面的なので、すでにそのテーマに精通しているのでもない限り、読者は何一つきちんとしたことを学びえない・・・」

これは、『差異と反復』における過去の哲学作品からの引用にも言えそうなことである。この批判的な言葉を無視しないでドゥルーズを読んでいきたい。

能書きばかりを並べていないで、具体的に論ぜよという声が聞こえてきそうなので、今日は、問題生産機械としての『差異と反復』第二章第一段落に関していくつか問題を提起するだけにしよう。

さて、この第一段落の冒頭の文章、「反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神においては何かを変化させる。」は、ヒューム『人性論』における叙述のパラフレーズである。ドゥルーズの処女作にあたる『経験論と主体性』(一九五三)もヒューム論であり、そこにはすでにこの冒頭の文章とほぼ同じ叙述がある。

ところで、『経験論と主体性』刊行の直後、一九五五年に、若きドゥルーズは、彼自身が編纂した思想文献資料集を『本能と制度』という題名で出版している。そしてこの資料集は、マルクス『経済学・哲学草稿』からの抜粋で締めくくられている。

ドゥルーズが用いた『経済学・哲学草稿』のテクストは、一九五三年にフランスで初めて出版された仏訳のテクストである。ドゥルーズが抜粋した仏訳の箇所は、一九三二年に刊行されたいわゆるアドラツキー版のドイツ語テクストに合致している。それは、岩波文庫版『経済学・哲学草稿』p133で邦訳されている。

その頁の「享受」およびそこに付された訳注(11)を参照されたい。岩波文庫版の訳者は、この「享受」は、アドラツキー版では「精神 (Geist)」となっていたが、その後に出版されたいわゆるディーツ版では「享受(Genuss)」となっており、内容からしても「享受」の方が適合していると述べている。私は、ここに何らかのイデオロギー上の配慮が働いているのかどうかは知らないが、「精神」で何ら問題はないと思う。ともかくドゥルーズは、「精神(esprit)」を含む箇所を抜粋した。抜粋箇所は長くなるので、詳しい検討は次回に回そう。

ドゥルーズは、当然、『経済学・哲学草稿』をすべて読んでいるだろうから、「唯物論と科学を基礎づけた」というフォイエルバッハへのマルクスの賛辞やヘーゲル批判を知らないはずはない。言うまでもなく、この時期のマルクスはフォイエルバッハの強い影響のもとにあった。

またヒュームを唯物論の立場から不可知論者として手厳しく批判するレーニンの『唯物論と経験批判論』も知らないはずはないだろう。その仏訳はすでに、一九二八年に出版されているのだから。

ところが、『差異と反復』第二章のヒュームから始まる第一段落で提示されている物質の例は、現代物理学が問題にする何らかの物質ではなく、ライプニッツの瞬間的精神(メンス・モメンタネア mens momentanea )という或る種の形而上学精神である。このライプニッツの物質概念は「序論」ですでに言及されており、しかもヘーゲルのいわゆる『自然哲学』における「疎外された概念」、「疎外された精神」としての自然に関連づけられている。しかも、「結論」で再び「疎外された概念」が物質の定義として現れる。

マルクスもレーニンも読んでいたはずのドゥルーズは、何故ヒュームから哲学研究を開始し、精神という概念を強調するのだろうか(実際『差異と反復』では、レーニンへの言及がある)。

だから、当然。ドゥルーズにおける「物質」と「精神」は問題をはらむ言葉である。

だから、ドゥルーズは「物質」や「精神」をどう考えていたのだろうかという問いの立て方ではなく、ドゥルーズは「物質」や「精神」という言葉で、どのようなことを考えていたのだろうかと問う方がよい。

今後は、できるだけ1週あるいは2週に1回のペースでブログを書いていくつもりだ。

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈5

第二章 それ自身へ向かう反復 

【原書p96】
反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】
1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神におい
2 ては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心につれ
3 てゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているというこ
4 とを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、〈瞬間的精神〔メンス・モ
7 メンタネア mens momentanea 〕としての物質〉の状態である。しかし、反復はできあ
8 がるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、「三番目のもの」、
9 また「それは同じものだ」と言えようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。その
10 かわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。その
11 ようなことが、〈変容〉の本質なのである。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
12 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観
13 的なシークエンス〈AB〉は、他の 事例つまりシークエンスから独立している。反復は、(た
14 だし正確には、ここではまだ反復を語ることはできないのだが)、対象においては、あるい
15 は〈AB〉という〈物の状態〉に おいては、何も変化させない。そのかわり、観照する精
16 神のなかに、〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新し
17 いものが、精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予
18 期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必然的に入らざるをえない〔関与せざるを
19 えない〕或る根源的な主観性としての、反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドッ
20 クスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかに
21 その反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から〈抜き
22 取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ。

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注釈5

4行目の「権利上」の原語は、《en droit アン ドロワ》である。ドゥルーズはこの言い回しを頻繁に使う。なお、以下の注釈を読むにあたっては語学の知識は必要ないが、フランス語、ドイツ語、ラテン語の単語が出てくるので、多少の辛抱はしていただきたい。

こんなことを言うと、「読者をばかにするな」という声が飛んできそうだが、日本の学会では、原書,原語は素通りして翻訳本だけ読み、訳語だけでドゥルーズ研究を発表する研究者もいるのだから、あえてお節介な言動をしたくなるわけである。

ともかく、このドゥルーズの《en droit アン ドロワ》つまり「権利上」という言い回しは、カントの『純粋理性批判』のなかのラテン語《quid juris クイド ユーリス》に由来している(『差異と反復』ハードカバー版p34、p267、文庫版 上p46、下p26。)。このラテン語は、カントでは「権利問題」と訳されるのがふつうである。《quid クイド》が「問題」、《juris ユーリス》 が「権利」。西田幾多郎も「権利問題」という訳語を用いている。

というわけで、私は、カントに由来する《en droit アン ドロワ》を「権利上」と訳した。しかし、今では、「権利=法からして」と訳すのが、いっそう適切であるようにも思われる。が、これでは、くどい訳語になって読みにくいことも確かだ。また、以下で説明するように、『差異と反復』第二章では、そこまでこだわらなくてもよいかもしれない。

ところで、フランス語《droit ドロワ》は、その意味に関しては、ラテン語の《jus ユース、juris ユーリス》に、ドイツ語の《Recht レヒト》に相当するのだが。このフランス語も、ラテン語も、ドイツ語も、「法」と「権利」を意味している。

事実、《en droit アン ドロワ》を仏和辞典で引くと、たいてい「法的に」、「法律上」という意味が出てくる。では、「法」と「権利」では、どちらが基本になるのだろうか。私は、「法」が基本的な意味だと思っている。なぜなら「権利」とは、「法にもとづいて、利益を要求したり享受したりすることのできる資格」をいうのだから。

ともかく、「権利」の根底には、「法」の意味が響いている。

ではカントの「権利問題」とは何か。『純粋理性批判』におけるカントの説明を、岩波文庫上p162から引用しよう。ただし、一部、私の観点から訳文を修正する。

「法学者は、権限と越権を論じるとき、一個の法的な争い〔Rechtshandel レヒツハンデル 訴訟〕において次の二つの問いを区別する。すなわち、何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるかという問い(quid juris クイド ユーリス 権利問題)と、事実に関する問い(quid facti クイド ファクティ 事実問題)とをである。・・・・・たとえば幸福とか運命といった濫用されている概念もあり、なるほどこれらの概念は、ほとんど皆から大目に見られて広く使用されているが、それでもなお、時には、《quid juris クイド ユーリス 何が合法的か 》という問いにさいなまれるのである。」

少し細かい点に触れておくが、カントの用いるラテン語《quid juris クイド ユーリス〔何が合法的か〕》の《juris ユーリス》は、《 jus ユース、法》の属格であり、カントのドイツ語《何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるか》の《Rechtens レヒテンス》は、《Recht レヒト 法》の古いかたちの属格(2格)である。だからカントのドイツ語は、ラテン語の直訳とみなすことができる。したがってまた、従来「何が権利〔Rechtens レヒテンス〕であるか」と訳されてきたところは、「何が合法的〔Rechtens レヒテンス〕であるか」と訳すべきであろう。

結局、私が言いたいのは、ここでカントが用いている《《Recht レヒト》の意味は「権利」というより「法」に近い。だから、従来「権利問題」と訳されてきた《quid juris クイド ユーリス》は、「合法性の問題」と訳すべきだろうということだ。

したがって、ドゥルーズの用いる《en droit アン ドロワ》は、「法からして」と訳すべきかもしれない。事実、『差異と反復』の独訳では、《von Rechts wegen フォン レヒツ ヴェーゲン》すなわち「法に従って」と訳されている。

他方、英訳では、《in principle 原理的には》と訳されていて、権利と法の曖昧さは投げ捨てられている。これはこれでまた根拠のある訳し方であるが、法と権利のグレーゾーンを残した訳の方が生産的な読みにつながると思ったりもする。

しかし、ドゥルーズ自身、《en droit アン ドロワ》を言い換えている。ハードカバー版p121下段、文庫版p201。
「どの一打も、どの振動あるいは刺激も、〈論理的には〉他のものから独立しており、瞬間的精神である。」この「論理的には logiquement ロジックマン」を、「権利上 en droit アン ドロワ 」の言い換えとみなすことができる。

では、「権利上」の代わりに、「法に従って」、「原理的には」、「理論的には」といいかえれば、ひとつの瞬間的物理現象は後続する物理現象に影響を及ぼさないという、ドゥルーズの主張を受け入れることができるのだろうか。この主張には、どのような権利、法、原理、論理が前提されているのだろうか。

物質あるいは物理現象は、「瞬間的精神」だと言われている。これは、もちろんライプニッツの言葉である。では、ドゥルーズは、物質をどう考えているのだろうか。
                                     (続く)

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈4

言うまでもないが、いま、注釈は第1段落について行っている。第1段落の本文(訳文)と注釈とを読み比べやすいように、注釈ごとに、毎回、冒頭に第1段落の訳文全体を掲載することにする。

なお、訳文は絶えず見直しているので、前回までの訳文が変更される場合がある。今回もそうだ。

ところで、『差異と反復』の独訳(Joseph Vogl訳)が1992年の春ごろに発行され、やはり1992年の秋に私の翻訳の初校ゲラが出たとき、それを手に入れることができた。しかし、もう時間がなく、この独訳を十分に参照することができなかった。だが、今回『差異と反復』を全面的に見直すにあたって、仏語原文と独訳とを完全に比較しながら、改訳の作業を進めるつもりである。

なお、英訳(Paul Patton訳)が1994年に発行されたが、賛成できない訳し方があり、この英訳を参照すべきかどうか迷ったが、学べる点があるかもしれないので、やはり参照することにした。

独訳、英訳で、注目すべきところがあれば、このブログで論じてみたい。



凡例
1、〈 〉は、文意をとりやすくするために、あるいは重要な語句だと訳者が判断した場合に、訳者が補った記号。
2、〔 〕は、訳者が補った文章や言葉を示す。
3、訳文のイタリック太字は、原文でのイタリック体を示す。  
4、:は、原書に記されている記号。
5、各行に番号を付した。ただし、原書の行に対応しているわけではない。文庫版『差異と反復』の行にできるだけ合致するようにした。
6、原文の代名詞(「それ」)や所有形容詞(「それの」)は、それらが指している語が自明だと思われるものは、くどいようだがその語に置き換えて訳したが、「それ」と訳してその直後に〔〕を置いて、その代名詞等が指していると思われる語を補った場合もある。

第二章 それ自身へ向かう反復 

【原書p96】
反復 : 何かが変化させられること
【第一段落、旧訳ハードカバー版p119、文庫版上p197~198】
1  反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神におい
2 ては何かを変化させる。ヒュームのこの有名なテーゼは、わたしたちを問題の核心につれ
3 てゆく。反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているというこ
4 とを権利上〈折り込んでいる〉のだから、どうして反復は、反復する事例や要素において
5 何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、〈一方が消え
6 てしまわなければ、他方は現れない〉と定式化される。例えば、〈瞬間的精神〔メンス・モ
7 メンタネア mens momentanea 〕としての物質〉の状態である。しかし、反復はできあ
8 がるそばから壊れてゆくものである以上、どうして、「二番目のもの」、「三番目のもの」、
9 また「それは同じものだ」と言えようか。それ〔反復〕は即自を有していないのだ。その
10 かわり、反復は、その反復を〈観照する〉精神において何かを変化させるのである。その
11 ようなことが、〈変容〉の本質なのである。ヒュームは、たとえして、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉
12 というタイプの、事例の反復をとりあげている。それぞれの事例、つまりそれぞれの客観
13 的なシークエンス〈AB〉は、他の 事例つまりシークエンスから独立している。反復は、(た
14 だし正確には、ここではまだ反復を語ることはできないのだが)、対象においては、あるい
15 は〈AB〉という〈物の状態〉に おいては、何も変化させない。そのかわり、観照する精
16 神のなかに、〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新し
17 いものが、精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予
18 期する。これこそが、それ〔反復〕の構成 に必 然的に入らざるをえない〔関与せざるを
19 えない〕或る根源的な主観性としての、反復の〈対自〉なのであろうか。反復のパラドッ
20 クスとは、以下のようなことではないだろうか。すなわち、反復を観照する精神のなかに
21 その反復が導き入れる差異つまり変化による以外には、すなわち、精神が反復から〈抜き
22 取る〉或る差異による以外には、反復を語ることができないということ。

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注釈4
 
精神と物質を、あるいは心と物をビシッと定義した上で、そこから両者の差異や、それぞれの特徴を説明していく、という論じ方をドゥルーズはしない。概してドゥルーズは、定義されていない、あるいは意味が自明ではない言葉を用いて、散文と詩の中間のような文体で論を進めてゆく。だから、ドゥルーズの論述に対して、わかりにくい、あるいは説明不足だという抗議が寄せられることがある。

たしかに私も、『差異と反復』を訳しているとき、絶えず、もう少し説明してくれてもいいのではないかという気持ちをもっていた。

だが、読み込むうちに、それは、ないものねだりだと思うようになった。私がドゥルーズの思考の展開に追いついてゆけないので、そんな気持ちをもってしまったのだろう。

しつこく何故だ、どうしてなんだ、と問いかけながら読む以外に、ドゥルーズに対応する方法はない。もちろん、『差異と反復』を読む上で、哲学史や精神分析や自然科学に関する基本的な教養は必要ではあるが。

たしかに、ドゥルーズを利用できれば、それでよいと触れ回る人もいる。しかし、私はそのような人には関心がない。

人々が、ドゥルーズという名前を聞いいただけで威光を感じるうちはよい。だが、私が恐れるのは、ドゥルーズ自身の文章を読んでも何がなんだかわからないという評価が世間に定着して、いつかドゥルーズ自身が読まれなくなってしまうことだ。

私自身、『差異と反復』を完全に理解できているわけではない。けれども、この書には、多くの人が感じているように何か尋常ならざるものがある。それを追究したいと思うばかりだ。その結果がどう出ようと、私にできるのはそれを甘受することだけである。

                        *

さて、物理現象の反復とは何か。いま私は、物理現象と言ったが、もちろんドゥルーズはこのような表現はしない。

ドゥルーズは、冒頭で、「反復は、反復する対象において、何も変化させない」と語る。この「反復する対象」を物理現象とみなそう。

「対象」とは「物の状態」である。「対象においては、あるいは〈AB〉という〈物の状態〉に おいては」と言われている(14~15行目)。

だから、「対象」たる「物の状態」が反復する。例えば「AB」、「チックタック」が反復する。

他方、「物質の状態」という言い方もある(7行目)。

「物質の状態」とは、瞬間的であり不連続な反復である。それは、「一方が消えてしまわなければ、他方は現れない」と言われる(5~6行目)。したがって、「物質の状態」とは、「物の状態」、「AB」、「チックタック」の反復であろう。

「物の状態」とは、反復するはずの「対象」、「AB」、「チックタック」を指している。「物質の状態」とは、瞬間的、非連続的な反復、つまり「物の状態」の反復を指している。

けれども「物の状態」も「物質の状態」も、結局、同じことになる。なぜなら、「物質の状態」としての反復では、瞬間ごとに同じひとつの「物の状態」つまり同じひとつの「AB」しか現れていないはずであるから。

先立つ瞬間における「物の状態」、「AB」は、後続する瞬間においては保存されずに消えてしまう。

結局、「物質の状態」という反復のどの瞬間においても、「物の状態」としてのABしか現れていないのだ。

だからこそ、物理現象の反復、つまり「物の状態」の反復は「反復する対象において、何も変化させない」と言えるのだろう。

けれども、こんな単純な瞬間説にもとづいて、「反復は、反復する対象において、何も変化させない」と言ってよいのだろうか。

自然界において、時間を瞬間の連続と考え、先行する瞬間における物理現象は後続する瞬間における物理現象に何の影響も与えない、と言ってよいのだろうか。

だが、ここで「権利上」という哲学用語が生きる。ドゥルーズはこう言う。「反復は、〔事例や要素の〕それぞれの提示=現前化は完全に独立しているということを権利上折り込んでいる」(3~4行目)。

では、ドゥルーズが言う「権利上」とは何を意味するのか。
                                                                   (続く)

                                           

『差異と反復』第二章 第一段落 注釈3

注釈3   

この第一段落の哲学史的背景には、ヒュームはもちろん、スコラ哲学、ロック、ライプニッツ、ヘーゲル、キルケゴール、ベルクソン、フッサールなどがたたずんでいる。ドゥルーズの極度に繊細な叙述がどのように「ドゥルーズ自身の理論」を提示するのか、これを見極めるのは、たしかに難しい。おそらく、「ドゥルーズ自身の理論」という観点からドゥルーズを読もうとすること自体が、そもそも的外れな態度なのかもしれない。以下で考察するように、ドゥルーズの「ずらし方」に、ドゥルーズのクリエイティブな理論構成が潜んでいるのだろう。たとえば、髭をはやしたヒューム(変容させられたヒューム)を見るのではなく、ヒューム理論がずらされて、他の哲学者の理論に接続されていく仕方を見るということだ。

しかし、とにかく読んでいこう。

1行目は反復する対象(物理現象)と、反復を観照する精神とを区別している。そして対象には変化は何も生じないが、精神には何らかの変化が生じるとされている。

これは、おそらく、次のようなヒュームの叙述にもとづく主張だろう。
「さて上述のように、力能観念を起す若干の類似する諸事例は、互いに何らの影響も持たず、諸観念の原型となり得る如何なる新しい性質をも事物〔自身〕のうちに産むことは決してできない。しかもそれにも拘らず、この類似の観察は、心のうちに力能観念の真の原型である新しい印象を産むのである。」【岩波文庫『人性論』(一)p255】

(注)ヒュームの言う「力能 power」とは、原因が結果を起す作用原理を意味している。たとえば一つの玉が他の玉にぶつかって運動を伝える場合である。

ところで、ヒュームの言う心のうちに産まれる「新しい印象」とは、類似する諸事例の一つであるのでも、その部分であるのでもない。つまり、〈AB、AB、AB、A・・・・・〉と来て、Bの出現を予期する、ということではない。

ドゥルーズは、こう述べている(13行目以下)。「反復は、対象においては、あるいは〈AB〉という〈物の状態〉においては、何も変化させない。そのかわり、観照する精神のなかに、〈ひとつの変化〉が生産される。すなわち、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生産されるのである。Aが現れると、いまや私は、Bの出現を予期する。」

しかしヒュームは、「類似する諸連接(conjunctions)の若干の事例は、心を導いて力能および必然性の念(notion)に到らせる。」【同書p255】と述べている。

すなわち、ヒュームにおいては、玉どうしの衝突の反復から、力能や必然性というまったく新たな印象(ひいては観念)が心のなかに産まれるとされているのだが、ドゥルーズにおいては、反復する事例(諸要素の組み合わせ、つまりABに含まれるひとつの要素Bの出現の「予期」が、新たなものであり、そう意味での新たなものが精神のなかに生じるのである。

しかし、ヒュームも、一筋縄ではいかない哲学者である。
「先ず第一に言えることであるが、未来が過去に類似するという仮定は、如何なる種類の証明も根底とせず、その由って来るところは全く、在来の慣れ来った事物系列と同じ事物系列を未来にまで期待するように心を限定する(determine)習癖(habit)である。この過去を未来に転移する習癖ないし限定は、遺漏なく完全である。」【同書p212】

ヒュームはここでは、過去の反復によって、心は、何か新たなものではなく、過去と類似したものが未来において出現するのを期待するようになると主張している。こうしてみると、

ドゥルーズがここで、ヒュームを口実にして問題にしているのは、
1、反復の効果は、反復する物理現象にもたらされるのではなく、反復を観照する精神にもたらされるということ、
2、反復は、時間(過去から未来へ向かうこと)に深く関わっているということ
であろう。

その問題の展開は、反復がもたらす「新たなもの」の意味をずらせることによって可能になっている。

では、物理現象としての反復とはどのようなことか。そして、精神とは何か。
                                (続く)
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プロフィール

財津理

Author:財津理
思想研究家

連絡先:osamuzaitsu@gmail.com

主な翻訳(共訳を含む)
ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)
ドゥルーズ『経験論と主体性』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『哲学と何か』(河出書房新社)
ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(法政大学出版局)
モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(河出書房新社)
メルキオール『現代フランス思想とは何か』(河出書房新社)
メルキオール『フーコー 全体像と批判』(河出書房新社)
オニール『言語・身体・社会』(新曜社)

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